7 一番目の求婚者
その日、クリスが最後に行ったのは、視る者認定事務所だった。
今の視る者や魔法使いの認定はクリスの目を基準にしているため、判定に使う道具に狂いがないか、たまにクリスがチェックしているのだと言う。
ヘンリエッタは、ここで小さなワガママを言った。
クリスが作業している間、認定事務所の中庭のイチョウの木を見ていたい、と。
田舎の少年エルマーとして、父と視る者の認定に来たときに、真っ黄色に色付いたイチョウに目を奪われていたから。
「エルマーくん。どこかに行ったのではないかと、ひやりとしましたよ」
イチョウを堪能していたヘンリエッタに、クリスが言った。
「今、この人は木登りもするのか、そう思ったでしょう」
ヘンリエッタは言った。
背の高いクリスを木の上から見下ろす構図が新鮮だった。
「…思ってません」
図星をさされたように、クリスがふいと横を向く。
(良かった、昨日より顔色がよくなったみたい。今日は羽休めになったのね)
彼を大切に思う人たちの中で過ごして。
「あ、クリスさん。試したいことがあるので、眼鏡、外してくれませんか?」
ふといたずら心を起こし、ヘンリエッタは言った。
「? はい」
クリスは、素直に眼鏡を外してくれた。
ヘンリエッタはクリスめがけて飛び降りた。
「え、ちょ──」
クリスが血相を変えて手を広げ、ヘンリエッタを受け止めてくれる。
(うん、決めた。告白する!)
ヘンリエッタは、ギュウッとクリスに抱きついた。
「ヘンリエッタ様っ!」
クリスは怒ったように、ヘンリエッタを下ろし、引き離した。
少し顔を赤くしている。
ヘンリエッタは明るく笑った。
「嘘をついた仕返しです。事件のこと、わたしに相談するつもりなんてないでしょう」
「えっ? では、なぜ今日…」
なぜ今日、クリスに付き合って大人しく過ごしたのか。
「それは……」
「クリス!」
ヘンリエッタが告白に話を持っていこうとしたところで、王太子ギルバートの邪魔が入った。
「ブロウ所長が呼んでたぞ。すぐに行ってやれ」
ギルバートがそう伝言し、クリスが「分かりました」と去る。
「おまえ…ええと、もうヘンリエッタでいいな」
偽名を思い出せなかったのか、そんなふうにギルバートはヘンリエッタに話しかけてきた。
「近いうちに正式に表明するけど、おまえに決めたから」
「なんのお話ですか?」
「僕の嫁。おまえが、僕の望みうる一番理想的な嫁だって考え直したんだよ。だから、家に帰って大人しくしてろ」
「お断りします」
さくっとヘンリエッタは言った。
「あのな。お転婆も大概にしろ。おまえの家にかかる厄災はこれからは僕が払うから。おまえは妃として…」
「だから、お妃のお話をお断りします」
「は? 断るって、おまえ、今のままじゃ社交界にも出られず、外国に行くしかないんだぞ?」
「ええ。でも殿下に責任を取って欲しいなんて思ってません」
重ねてヘンリエッタが断ると、ギルバートはムッと口を引きむすんだ。
それから。
「…言っておくが、クリスは落ちないぞ。あいつは今の立場を投げ出して駆け落ちするようなやつじゃないからな」
言葉を選んでそう言った。
どうやら、さっきクリスに飛びついたところを見られていたらしい。
ヘンリエッタは正直にぶちまけることにした。
「わたしだって駆け落ちするつもりはありませんわ」
「へっ? おまえ、なに言っ………まさか」
ギルバートは顔色を変えた。
「キングスフォード家がクリスを婿取りして、マッキンレイに全面戦争を挑む気か」
「勝算はゼロではありません。クリスさんは国の宝だから寝返りも期待できるし、うちだって戦う準備はしてきましたもの」
「冗談でもやめろ! 寝返りと粛清、大勢の民が巻き込まれて都は大混乱だ。過激すぎんだろ。僕は…キングスフォード家も、クリスも、おまえも失いたくない」
「!」
おまえも失いたくない。
強く、気持ちのこもった言葉に、ヘンリエッタはドキッとした。
「いいな。おまえを救えるのは僕だけだ。僕の求婚を断るな」
「やめてください!」
ヘンリエッタは思わず大声を出した。
「なんだよ? もともと僕がどんな奴だろうと、僕に嫁ぐつもりだったんだろ!?」
ギルバートも声をあらげた。
「でも、殿下は父と舞踏会前に会ってくださらなかったわ! わたしと結婚して、マッキンレイと事を構えるのを避けたかったからでしょう!?」
「ああ、そうだ! 考えなしの父上とその釣り友達の、何の計算もない、能天気な結婚話だと思っていたからな! だけど今は会うだけ会って話せば良かったと、後悔も、反省もしてる。僕のせいで悪くしてしまった立場はなんとしてでも挽回する。だから…」
「いいえ…いいえ、殿下。今のわたしは、舞踏会で殿下が断ってくださったことに感謝しております」
いつ、どんな風に出会っても、ヘンリエッタはクリスを好きになっていた。
王太子妃となって、身動きの取れない状況でクリスと出会っていたらと思うとゾッとするのだ。
「クリスさんがわたしを受け入れてくれないのなら、わたしはクリスさんのいない世界に行きます」
そこまでキッパリ言い切ると、ギルバートは苦い表情を浮かべた。
ヘンリエッタもそこで口をつぐみ、緊迫した沈黙がしばらく流れた。
やがて。
「勝手にしろ」
捨て台詞をはき、身を翻したギルバートに、ヘンリエッタは深く頭を下げた。