2 再会
「わたしだけ何もせずにいるなんて無理に決まっているわ」
屋敷の外に出たヘンリエッタは小声でつぶやいた。
貴族としては変わっているが、キングスフォード家の教育の中には『下町を歩く』というものがある。
その他、特殊な教育を受けた結果、王子にフラれたショックで乱心気味と家族から除け者にされ、部屋での謹慎を言い渡されても、独力で家出することができるお嬢様だった。
また、弟には詐欺と言われるが、化粧美人なヘンリエッタの素顔は地味だ。
素顔で黒髪のカツラをかぶり町娘の装いをすれば、もう別人。
堂々と町歩きができる。
「まずは造船所よね」
「すみません、キングスフォード家の方ですか?」
「え? は………ぃ」
声をかけられ、振り返ったヘンリエッタは息をのんだ。
舞踏会でヘンリエッタを助けてくれた眼鏡の青年だった。
彼も、ヘンリエッタを見て驚いた。
「ヘンリエッタ様?」
「ちょっと来て!」
舞踏会の時とは別人レベルの素顔なのに当然のように名前を呼ばれ、焦ったヘンリエッタは思わず彼の手をつかむと、夢中で走った。
せっかく家出してきたのだ。ここで親切にされてはたまらない。
「ごめんなさい。その…どうしても家に帰りたくなくて」
「では、ここで少し話しましょうか」
近くの公園まで来たところで言ったヘンリエッタに対し、彼は意思の尊重を示した。
「私は王太子殿下の侍従で、クリストファー・アンダーソンと申します。クリスとお呼びください」
「殿下の………!」
クリスの自己紹介を聞いたヘンリエッタは、彼の肩書きに驚いてしまった。
家庭教師グローリアから、彼はまともな職業の人間ではありえないと、さんざん言い含められていたから。
「今日は殿下の命で来ました。もしよろしければ、場所を移してお話させていただきたいのですが」
*
案内されたのは、長屋の一画に入ったタッジー・マッジーの店だった。
タッジー・マッジーというのは、香りのよい花やハーブで作られた花束のことだ。魔除けに持ったり、花言葉からメッセージを伝える手紙がわりに使われることもあった。
優しい香りで満たされた店内は、たくさんのハーブの花が、無造作なのに雑然とならずに置かれた、癒しの空間だった。
(落ち着くなあ、このお店…。クリスさんのしゃべり方の堅苦しい雰囲気からは意外すぎるチョイス…)
「いらっしゃ……あら、クリス」
年齢不詳、赤茶色の髪の女性店主は、クリスを認識すると、親しみのこもった笑顔をみせた。
それに対しクリスは。
「ジュニパーさん、席をお借りしたいのですが」と、事務的な調子で言った。
数分後、ヘンリエッタとクリスは、店の奥まったところ、一枚の衝立で仕切られたテーブル席についていた。
本来ならどんなタッジー・マッジーの花束を作るか、顧客と打ち合わせる席だろう。
「今日はもう店、閉めるわね。バックヤードにいるけど、大きめの声で呼んでくれたら、すぐに来るから」
ミントティをテーブルに並べると、店主は気さくな笑顔でヘンリエッタに言った。
店を閉めるというのは、どんな秘密の話でもしていいという意味だし、声の届く距離にいるというのは、クリスが何かヘンリエッタに不本意なことをしようとしたら助けにくるという意味だ。
「あの……すみません、突然押しかけて、営業の邪魔を」
ものの数分で店の営業まで変えてもらったことに恐縮し、思わずヘンリエッタは言った。
ヘンリエッタは伯爵令嬢だが、家業が造船と貿易のため、商売人の娘の感覚も持ち合わせていたのだ。
店主は、まあ、と感心した。
「いいのいいの、気にしないで。クリスはこの長屋の子どもだから」
「長屋の子ども?」
「私もクリスもこの長屋の二階に住んでるの。だから、長屋の子ども」
(わわ、つまり自宅に連れてきてもらったってこと!?)
意外なチョイスだと思ったら自宅だった。
ヘンリエッタは瞬間的に現状を忘れ、なんだかイケない気分になった。
*
「すみません。色々気遣わせてしまって」
店主が下がったあとヘンリエッタは言った。
密室性が低く、人目を避けられる場所をクリスが考えてくれたのだと分かるから。
(わたしは彼の部屋でも良かったけど………ああ、ミントティが今のわたしにはちょうどいいわ)
煩悩に流されまくりのヘンリエッタはミントティを一口ふくんだ。
「誘ったのは私ですから気になさらないでください。それより、ヘンリエッタ様には舞踏会において本当にお詫びのしようもない…」
「ま、待ってください。クリスさんには助けてもらったんです。謝罪なんて」
謝罪を受けると思っていなかったヘンリエッタは慌てて言った。
しかし、クリスの平伏した態度は変わらなかった。
「いいえ。あの件は殿下に全面的に非があり……殿下の教育に携わってきた私にも責任があります」
(んん? 教育?)
ふと、ヘンリエッタはその言葉に引っかかりを覚えた。
ヘンリエッタにも教育係(家庭教師)は何人かいるが、グローリアをはじめ、みな三十代だ。
(どう多めに見ても二十代半ばにしか見えないんだけど…)
「…あの、クリスさんて、おいくつなんですか?」
「二十歳ですが」
「殿下やわたしと四歳しか違わないじゃないですか!」
(思ってたより若かった…って、あれ? 殿下の教育係でアンダーソンって言ったら……)
彼が誰なのか今更ながらに気付いてハッと息を飲んだヘンリエッタに、彼は「ああ」と微笑んだ。
「帰りは他の人間に送らせますから、安心してください」
「そ、そんな配慮いりません!」
「私には必要です」
さらりとクリスは言う。
アンダーソン伯爵の三男で、母親が本妻ブレンダではないために、ブレンダと彼女の実家マッキンレイから生存を否定された人。
クリスは舞踏会でブレンダの次男エドマンドからヘンリエッタを助けてくれたが、それによって彼にかかる不利益が増えようもないくらい、もうずっと睨まれてきたのだ。
「わたしは昨日、マッキンレイにケンカを売ったの。今更マッキンレイを恐れたりしないわ!」
ヘンリエッタは言った。
マッキンレイはクリスと親しくしようとする人間も攻撃対象にする。けれども、すでにヘンリエッタも敵視されているから気を遣ってもらう必要はないと。
「その件ですが、陛下も殿下もキングスフォード家が厄災をかぶることを望んでおられません。力になれることがあればと仰せです。そう家長殿にお伝え願えますか?」
「でもわたし、しばらく家には」
「賛同できかねます。もしどこか身を寄せるアテがおありなら、そちらを巻きこむこともお考えください」
「あ………」
クリスの忠告に、ヘンリエッタは寒気を覚えた。
それが彼の実体験からくる忠告だと分かったから。
「伝言、お願いできますよね?」
再度そう乞われて、ヘンリエッタは顔から火が出る思いでうつむいた。
軽率な行動で被害者を増やすところだったことに気付かされ、恥ずかしくて、彼の顔を見ることができなかった。