大悲道楽本
僕は飯田鳥次郎。ひょんな事からこの地へ赴き、この春、警備会社に入社した。今日はこっちへ来て初めての出勤日である。
「堺大学から来ました、飯田鳥次郎です。今日から宜しくお願いします!」
「ハッ、堺大学か。私は石川大学の加能騎座斗だ。これから宜しくな。」
上司、と思しき人物が話しかけてきた。いきなり学歴マウントか…。この地域は出自による格差が激しいと聞いてはいたが、ここまで顕著だとは思わなかった…。
「えぇ…、宜しくお願いします。」
「ハン↑まぁ、せいぜい宜しくな。」
こいつは上に立つ権利が無いな、と心の中で笑う。この会社では主に、防犯キャンペーンの企画や防犯グッズの開発、警備の受託まで行っている。社員は60名近くの小さい会社だ。僕は今日から総務部に所属することになったのだが、こんな職場でやっていけるのだろうか…。そんな不安を覚えつつも自己紹介を終え、職務にあたり初めた。上司の加能の当たりは強い。
「おい、ゴルァ!新人さんよォ!ここの書類ミスってンぞォ!!!」
「申し訳ございません。」
「申し訳ございませんじゃねえわ!このクズ!!」
教えてから怒るものだろう。これだから、権力に溺れる稚拙な輩は…。
「ちょっと加能さん!やめてあげてよぉ!!新入社員さんなんだから、分からないのも当然でしょ!?」
「お、お嬢…!?新人なんかの肩を持つんでごぜぇますか!?」
「指導者なんだから、怒るならしっかり教えてあげてから。なんなら今からパパに言いつけてあげてもいいんだよ?」
「わ…分かりやした。ちっと、指導マニュアルを持ってきやす。」
「指導マニュアルも見ずに指導をしてたの!?バッッッカみたい!!」
肩を丸めながら、加能は立ち去った。突然現れたこの女性。お嬢?名前は確か…。
「改めて、入社おめでとう。新人くん。私は原井福子。越前大学の出身よ。パパはここの会社の社長、原井甲太郎。」
そうだ、原井福子さん。社長の娘さんだったのか…。越前大学は国立の大学だ。いくら社長令嬢とは言え、一回り以上年上の者にあんなに強くモノが言えるとは…。学歴とは恐ろしいものだ。
「社長の娘さんだったのですね…。改めまして、私は飯田鳥次郎と申します。これから宜しくお願い致します。」
「この地域に来たのは初めてよね?」
「はい。思いがけずにこの地へ赴くことになりまして…。」
「そう、あなたも…。大変だと思うけど、頑張ろうね。」
「何故、こんなにも高学歴の者がマウントを取ったり、取れたりするのでしょうか?」
「そのうち分かるわ…。それにしても、いつもガミガミ怒られて、よく頑張ってるわね。(ワシワシ...)」
「え…えぇ…。」
いきなり頭を撫でられてしまった…。なかなかフランクな女性なのだなぁ…。
「指導マニュアル持ってきました…。えぇっと、うちの書類の書き方は…、」
それからというもの、加能の指導は改善した。まだまだ怒られることはあるが、なんとかやっていけそうだ。ただ、ひょんなことからこの地へ赴いたと知った原井さんの反応には違和感を覚えた。そして加能の態度も、高慢さの他に、何処か焦りのようなものを感じた。
「飯田くん〜」
「あ、原井さん。」
「いつもここの屋上で昼食を食べてたのね。」
「はい。僕、ここからの海の景色とか、岩場の景色とかが好きで…。海の青や緑に囲まれる生物の声が聞こえてくるようで。我々はこの地域を守るためにいるんだなぁと。」
「そうなんだ。警備会社の社員として、責任感があるのね。」
「そうなのでしょうか。」
「そうだよ。天井人さんも喜んでるよ?」
「天井人さん?」
「そう。良い子にしてると、天井人さんが恵みをもたらしてくれるという噂よ。」
「へぇ〜、そうなんですかぁ。」
「でも、今は私が恵みをもたらしてあげるね?偉い偉い(ワシワシ...)」
「んぁ、あの…、そのわしわし、やめてください…。社内ですよ…?」
「別にいいじゃん。私は社長令嬢なんだから。後、原井さんじゃなくて、福子さん、で、いいよ?」
「いや、そうじゃなくて…。」
屋上で社長令嬢と戯れる…。なかなか良い体験だった。
数日経ったある日の出社日である。
「ちょっとちょっと。総務部の津居山さんがまだ行方不明だって…。」
「それも社長と同じタイミングで行方不明なんでしょ?怪しいわよね…。」
掃除のおばちゃんが噂話をしている。津居山さん…?そういえば、うちの総務部にその名前の人がいるようだが、入社してから一度もお目にかかってないな。社長と同じタイミングで行方不明か。なにやらヤバそうな匂いがする。
「あ〜、津居山さんね…。そう。パパと同じタイミングで行方不明なの。この地域では、やたらと行方不明になる者が多いのよね。あの穴とも何か関係があるのかしら...?」
「あの穴…?」
「そうよ。昔、パパと一緒に散歩している時だったの。突然、目の前に大きな穴が開けられて吸い込まれたわ。そして気が付いたらここにいたの。」
「…!私と同じです。」
そう。僕がこの地に来たきっかけも、ある日散歩をしていたら突然、大きな穴が目の前に現れ、気付いたらここにいたのだ。
「ここに住む者の殆どは、他の場所から突然、移動して来たと言っているわ。そして以前の経歴が良い者ほど行方不明になりやすいと言われているの。高学歴が重用されたりマウントを取ったりするのは、それに怯えているからよ。」
経歴が良い者から感じる焦りというのは、これが原因だったのか。待てよ?経歴の良い者が危険に晒されるとなると福子さんも…。
「…私も警備の実務にあたらせてください!」
「飯田くん…。分かった。じゃあ、私も横でしっかりサポートするね?」
その後、警備の実務に入るにあたって説明を受けた。特に興味深かったのは、行方不明になってしまった者の近くには、実況するかのように陽気で残虐な影、「レポートマン」と呼ばれる存在がいるということだ。コイツを探せば手掛かりが見つかるかもしれない。
数日後。警備にあたるため、岩場を散策していた時のことだ。
「た...大変だぁ!!レポートマンがやってきたぞ!」
同僚の声が聞こえる。レポートマン…。本当にいたのか…!!
「わぁ〜、美味しそうな貝ですねぇ〜!こちらのブルーのボックスにいるのはアワビ!グリーンのボックスにいるのはサザエですね!では早速、食してみたいと思います〜」
レポートマンによって、まず、貝が身包み剥がされ口に放り込まれる。貝達の悲鳴が聞こえる。
ー......僕、ここからの海の景色とか、岩場の景色とかが好きで…。海の青や緑に囲まれる生物の声が聞こえてくるようで......ー
「やめろぉぉおおおお!!!!」
僕は怒りのあまり、水を吹き出した。
「あ!こちらは蟹のボックスですか〜!なんか貝を食べた瞬間に水を飛ばしましたよ!食べて欲しいんですかね?活きが良いですねぇ。あ!こちらの蟹が"福井県の越前蟹"で高級!?ありがとうございます〜」
そう言うと突然、レポートマンは原井さんに手を伸ばした。
「飯田くん!逃げt...!!!」
ドンッ!ドンッ…!バキッ…!!
メリメリメリ……!!
「お〜!綺麗な白色をした身ですねぇ!!いただきま〜す♬は〜む…、、う〜ん!!締まってて美味しいです!!カニ味噌もクリーミーで...」
福子さんの綺麗な脚、殻が剥ぎ取られ、脳みそまでも、レポートマンに食べられていく...。あの手は...、あのハサミは僕を...、僕だけをわしわししてくれた、優しい手なのに...。なんで...?なんで?なんで、、なんで、なんでなんでなんでなんでなんで何で何で何でナンデナンデ...!!!
「うぉおおおあああああ!!!!」
ブシュウ!!!
「きゃあ!?なんかこの蟹…、活きが良すぎませんか!?大将!!」
「あ〜、こいつは、飯田橋という所にある"堺港の蟹"ですよ。安いのが売りでね。ただコイツは安物のクセにハサミだけ立派で扱いづらいんスよねぇ…。ったく、この異常種が…。あ、なんなら、捌いてみますか?」
「え!挑戦させて貰ってもいいんですかァ!?」
僕へ殺気が一気に向けられる。
「も...、戻れ!飯田!!原井はもう喰われた…。死んだんだ!!」
「……ッッ!!」
僕は堺大学の飯田鳥次郎。学歴も高級度も無いのかもしれない。ただ、我が族にしては異様に尖ったこのハサミだけは自慢だった。手が伸びた刹那、僕はレポートマンの手首の筋を目掛けて、ハサミを突き刺した。人間の急所の一つがこの青い筋らしい。急所と言えども蟹が刃向かうには強固すぎるが、異常種の僕にとっては容易いことだった。
「え…?あ……、あぁああああぁあぁぁああいやゃぁぁあああああ!!!!!!!」
人間の体液と思しき赤い液体が勢いよく流れ出る。青い筋から赤い液体が出るのか。
「お…?お…あ…あ……??ん…??ううぉおおあぁぁああああ!!!」
天井人と思しき男も悲鳴をあげる。すみません。天井人さん。でも、蟹にも情はあるんだよ?
数日後…。僕を含めて、この海域にいる貝や蟹、魚といった生物は、全員処分されることになった。福子さん…。僕……、警備員としての使命を果たせたかな?突然去った社長さんにも……、自慢できるかな…?メンヘラじゃないよね?そっちに行ったらまた、わしわししてくれる…?
残ったのは、食われた仲間の手、手、手……。
これにて、閉幕!(意味深)
手手手手手手手、ててててて。
手手手手手手手手、ててててて。
各地の海産物が集められた釣り堀が舞台となっています。高級な蟹を高学歴として扱い、高級な蟹ほど早く喰われることから学歴マウントが定着した、という設定にしました。旅番組などで釣り堀の蟹や魚が釣り上げられて、その場で捌かれるのを見て、「もしこれが、人間で言うところの散歩中だったら、道中でさらわれて喰われたってことになるんだろうなぁ...。なんか普通に捌かれてるけど、他の蟹は何を想うんだろうなぁ。」と考えた所からインスピレーションを得ました。
蟹の世界観であることを露骨に示すよりも意外性が出ると思い、序盤は普通のビジネスストーリーのようにして、最後に仲間が喰われていくことを通して、蟹の世界を描いたことを表したかった次第です。ただ、蟹の世界観を省いた分、序盤は味気ないビジネスドラマみたくなってしまい、読む人が最後までに飽きることが懸念されたので、所々に違和感を感じさせる描写をチラつかせました。また、あくまでも蟹の世界なので、「〜な者」等の表現をし、「〜な人」という言葉を使わないように気を付けました。主人公が撫でられるシーンも、蟹はハサミで撫でることになるので、「なでなで」ではなく「わしわし」にしました。
締めの部分や題名は、山東京伝の『大悲千禄本』を参考にしました。元ネタは、キーアイテムである千手観音の「手」と「閉幕の合図」を掛けたものです。今回はそれを、喰われた仲間の手と閉幕の合図で掛けてみました。題名は言わずもがなですが、『大悲千禄本』と「かに道楽」を合わせたものです。