30.美しいから好きになるのではない
「ゲイソン!!」
ルネが叫ぶと、我に返ったパオロが首から慌てて手を離した。
茫然とした顔で己の手を見つめる。
駆け寄ったルネはパオロをジュリアから引き離した。
「アリゼ、ソネゴ嬢が呼吸をしているか確認してもらえる?」
指示をするルネの声は僅かに震えていたが、そんな事は気にならなかった。アリゼ自身動揺していたからだ。
呼吸を確認しようと近付いた時、ジュリアが咳き込んだ。ルネとアリゼは安堵の息を漏らす。
しばらくの間むせたように咳をしていたが、パオロの手が気道を止めきっていなかったのか、二人が早く到着したのかは不明だが、ジュリアは回復していっているように見えた。
「……許さないわ……」
ジュリアは唸るように言うと、パオロを睨み付ける。
パオロは項垂れたままだ。
「こんな事、許されないわ。正式に父から抗議していただきますから!」
叫ぶ声は何処かかすれ気味で、好ましく思えない相手であっても、アリゼは心配になる。
「私に危害を加えようだなんて! 感謝こそすれ、ありえない事よ! 貴方は終わりよ、パオロ!」
二人の間に何があったかは分からないが、パオロの様子とジュリアの様子から、彼女が失礼な事を口走り、怒りに我を忘れた彼が暴行を働いたのだろうと想像した。
だからと言ってパオロの行いは許される事ではない。
「とりあえずここを離れてあちらに行こう。ソネゴ嬢は念の為医務室に……」
ルネの言葉にジュリアが困った顔をする。立ち上がるのを手助けしようとしたアリゼの手を叩き、ルネの腕にしがみつく。
「そんな事をしたら私が傷物になったと多くの方に知られてしまいます。ルネ様、私怖いわ。どうか屋敷まで送って下さいませ」
それから座り込んだままのパオロを憎々しげに見下ろす。パオロは茫然としたままだ。
ルネはジュリアの手を自身の腕から離す。
「申し訳ないけど、それは僕の役目ではないと思う。僕とアリゼは校舎までは付き合うけど、出来る事はそこまでです」
「そんな、酷いわ……」
上目遣いでルネに縋るジュリアに、ルネはため息を吐く。
「二人の間に何があったのかは尋ねません。ただ、僕はゲイソンだけが悪いのではないのだろうと考えています」
ルネの真っ直ぐな言葉にジュリアの顔から表情が消える。
「貴方もつまらないわね。私が声をかけてあげているのに、何故そんな態度をするの?」
ちら、とアリゼを軽蔑するような目で見、鼻で笑った。
「彼女と私だったら、私の方が上なのに。
容姿の優れた女性を連れ歩くのは男性にとっても鼻が高い事よ? 家柄だけの女ではなく」
分かっている事でも、他者から改めて言葉にされると胸に刺さる。特にジュリアのような、多くの人間が見返す程に美しい令嬢に言われると余計に。
アリゼの身体が強張った事に気付いたルネは、彼女の横に立ち、手を握りしめた。
「家とか、そんなのはどうでも良い。容姿で彼女を好きになったんじゃない」
無意識に俯いていたアリゼは、顔を上げてルネを見た。
ルネの目が優しく細められる。
「好きになったアリゼが、伯爵家の一人娘だっただけだし、ブリュネットの髪色は優しい色で好きだし、空を映し取る素敵な瞳だと思ってる。
不器用で目の前の事に一生懸命になる、友達思いで、周囲に愛される彼女が、僕は好きだ」
アリゼの手を握りしめるルネの手に力が入る。
「……ルネ……」
ルネはジュリアを見た。冷たい視線にジュリアは眉間に皺を寄せる。
容姿など関係なくアリゼが好きなのだと言われ、ジュリアは鼻白む。
「……なによ……後悔しても遅くってよ。
地味な者同士、仲良くすれば良いわ!」
そう言ってその場から去ってしまった。
「あっ!」
納得させて、医務室に送り届けるつもりでいた。
それなのに行ってしまった。
「しまった……つい、言い過ぎてしまった」
眉尻を下げ、困った顔をするルネ。
こんな時にと思うけれど、アリゼは嬉しかった。
後で礼を言おう。自分の気持ちを伝えよう、そう決意して、ルネに微笑む。
「とりあえず、ゲイソン様を校舎まで連れて行きましょう」
そうだね、と答えてルネも頷く。
二人に促されて立ち上がったパオロは、心ここに在らずと言った様子で、ルネに腕を引かれるままに歩く。
ジュリアは一人、校舎に向かって歩いていた。
パオロに首を絞められていたが、抵抗すると首を絞める手の力が強まる事に気付き、早々に意識を失ったフリをしていた。
予想通りパオロの首を絞める力はそれ以上強められる事もなかったが、どうしたものかと思いあぐねていた時にルネとアリゼがやって来た。
さすがに咽喉を強く押されもしたし、呼吸を止めていたのもあって、喋り出した時にはむせたし、声も掠れたが、ジュリアはさほどダメージを受けていなかった。
とは言え、殺されそうになったのだ。パオロは明確な殺意を持ってジュリアの首を絞めた。それは許される事ではない。
「なによなによ……! あんな事を言っても、どうせすぐに浮気する癖に!」
ジュリアの母は、まぁまぁ美しい女性だった。
彼女の父は初めの頃こそ妻を愛したが、妻より美しい女性と出会い、愛人とした。
さめざめと泣き、父との婚姻を後悔する言葉を口にする母を、ジュリアは見て育った。
美しければ、もし母が父ではなく、ルデュック伯に選ばれていたならば。
幼かったジュリアはその考えを、じっくりと時間をかけて己の中で成長させていった。
夫など妻を記念品としか見ない。政略結婚ならば家柄など、家同士の利益が先行する。そこにあるのは愛のない契約結婚。
義務さえ果たせば望みの相手と愛し合えるようになる。父は初めそうではなかったが、結果としてはそういう事だった。
自分は美しい。そこらの令嬢達よりも。
より良い相手を見つけ、好きに生きるのだと決めた。
この美貌があれば可能だと自信もあった。
美しくなる事に注力し、異性から好意的に見てもらう仕草を優先的に覚えていった。
誰もが見惚れるような美しい容姿、所作、きまぐれな言動をものにした頃、学園に入る。
良い家柄の子息は大抵、婚約者がいた。
残ったのは次男などで、彼らと婚姻した所で慎ましい生活しか出来ない事は明らかだった。ジュリアは誰かの妻になる事を半ば諦めていた。
愛人との間に生まれた子供にしか関心のない父は、ジュリアの婚姻相手を探してもくれなかった。
美しい少年がいた。思わず目を奪われる容姿を持つ彼は、テター伯爵家の次男で頭脳も明晰だった。
美しいマチューは美しい自分に相応しいと思った。
彼には婚約者がおり、いずれ婚姻を結んで爵位を継ぐ。
マチューの婚約者の名を知るや、仄暗い思いが彼女を埋め尽くした。
アリゼ・ルデュック──マチューの婚約者の名。
マチューの愛人になり、アリゼを苦しめてやりたいと思うようになる。
アリゼの姿を目にし、ジュリアはその思いを強めていく。
こんな凡庸な女が家柄だけで私の欲しいものを手に入れる。けれど、愛を得るのは自分だと言う自信があった。
マチューの要求水準を満たせるように努力する姿も当然であり、努力してもマチューの満足する結果を出せないアリゼを心底馬鹿にしていた。
常に唯唯諾諾とマチューの言いなりになっていたアリゼが婚約を破棄した。
腹立たしかった。それではジュリアの目的が果たされない。
間も無くしてアリゼはピジエ家の三男であるルネと婚約を結んだ。またしても良い相手を婚約者とした事に妬み心がドロドロと胸の中で渦巻いたが、アリゼから奪うのなら、より良い男が望ましいと思い直した。
そうして近付いたにもかかわらず素気無くされ、ルネに嫌がらせのつもりでパオロに近付いたが、呆気なく首席から陥落した。
挙句ジュリアを殺そうとした。
「あぁもう、どうしてこう、上手くいかないのかしら」
ジュリアはルネ達、魔術を志す者達だけが踏み入れる建物の前まで戻って来た。
ごろごろと転がる、成果物なのか、資材なのかも分からない物。積み上げられた圧迫感のある物。
「塵ばかりね」
吐き捨てるように言ったジュリアの視界に、なにやら書き込まれた紙が貼られた、化け物の彫刻が飛び込む。
紙に書かれた文字を見て、口角を上げる。
「……面白そうだわ」




