23.心の中に
父親から借り受けた領地の地図をテーブルに広げ、各地に存在する村の名前、領民の数、生産される物などが書かれた資料と照らし合わせていく。
領地の事を知らずに運営など出来る筈もないからだ。かつ、書類だけでは分からぬものも多い。
定期的に領地には訪れてはいたが、それは遊び気分を伴うものであって、目線があまりに違い過ぎた。卒業後には領主としての目線で見なくてはとアリゼは思う。その為にも最低限の事は知らねば話にならないと、地図と資料とにらめっこの日々が続く。
実際の所、領地運営と言っても代行者が領地にいて管理を行っている。大概の貴族は代行者に任せ、自身では運営しない。大抵代行者は当主の親族である事が多い。
ルデュック家ではルデュック伯の弟が妻子と共に領地にいる。
信用していない訳ではないが、領主代行に当主の座を奪われた事例がここ数十年で立て続けに起きた事で、任せきりにするのはあまりよろしくない、という風潮にある。
次の春にアリゼは学園を卒業する。
隣国などは秋に始まり、夏に終わるらしい。この国では春に始まり、冬の過ぎ去るのに合わせて終わる。
春になればアリゼはルネよりひと足先に大人の世界に仲間入りする。
婚姻はルネの卒業を待ってからと言うのは、両家が決めた。アリゼもそれに同意している。
ルネがルデュック家に婿入りし、本格的に領地経営に入るより前に多くの事を学んでおきたいと思っていた。
少しでもルネの役に立ちたい。けれど自分が凡庸である事をアリゼは十分に理解している。こんなところで年上である事が活かされるとは彼女も思っていなかった。
少なくとも二年早く領地経営に携われる。
ドアがノックされる。どうぞと答えると、ワゴンを押した侍女が部屋に入って来た。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、いただくわ」
立ち上がりソファに腰掛ける。
父親が不在の場合は、書斎を使用する許可を得ている。アリゼが知りたい情報はここにある。不在時だけでも利用出来るのはありがたかった。
陶器のカップに注がれた茶は、ゆるりとした湯気を立ち上らせ、それに伴って芳香が辺りに広がる。
紅色の濃い茶は、香りも強く、アリゼの鼻腔をくすぐる。
「良い香りね」
「先日、ルネ様からいただいたものだそうです」
アリゼの婚約者となり、数年後には婿としてルデュック家に入る。その為、ピジエ様ではなくルネ様と屋敷の者には呼ばれている。
侍女は茶を飲んでほっと息を吐くアリゼを見て、僅かに眉を寄せた。
「根を詰め過ぎなのではございませんか? 刺繍もなさっておいでですのに。あまり無理をなさると目が悪くなってしまわれますよ?」
「分かっているわ」
収穫祭は目前に迫っている。提出用の刺繍は完成間近だ。今、アリゼが必死に縫っているのは、灰色のリボンにルネの名を刺繍したものである。自分の瞳の色のリボン以外にも刺繍を施している。その所為で時間がないのだ。
このリボンの存在はルネには知らせていない。喜んでくれるとは思っているが、なんとなく気恥ずかしい。
それに、ルネを自分の物だと主張したい程の強い気持ちを自分の中に見つけきれない。では渡すのを止めるかと問われれば、首肯出来ない。
ルネの事は好きなのだ。それは間違いなく。ただそれが恋情なのかと問われると首を傾げてしまう。
そんな気持ちがなくとも婚約者の色を身に付けるのはよくある事である。それなのに、躊躇いを覚える。
恋などこれまでに経験がない。
もしかしたらこの気持ちが恋なのかも知れない。
流行りの物語の主人公は、明確に恋心を抱いていた。それも、燃えるような想いを。
それと自分は違う。かと言って物語が正解とも言い切れない。人の数だけ恋の形はある、とはこれまでに読んできた本の中の一文だったと記憶している。
アリゼの両親も愛し合ってはいるものの、恋物語のそれとは違う。穏やかに、けれど二人の間に特別な繋がりを感じる。
気にせず渡せば良いのに、間違いなくルネは喜ぶのに、躊躇する。自身の瞳の色と同じリボンに名を刺繍して渡すなど、独占したい程好きだと言っているかのようで。
アリゼの心は前を向いている。俯く事はない。それは目標があるからだ。
けれど、愛情はそれとは別の話だ。
愛そう、愛したい、と思って愛せるものではない。
ルネからの茶は実にアリゼの好みの味だ。豊かな香り、それでいて強すぎない味。美しい紅色。
いくらでも飲めそうだとアリゼは思う。
「あの、お嬢様……マチュー様が、学園にお顔をお見せにならないと耳にしたのですが……」
何処から聞いたのか、侍女が恐る恐ると言った態度で口にした。
「……耳が早いわね」
「その……出入りの者から聞きました」
あちこちの貴族の家に出入りするご用聞きなら、テター家の事を何処かで耳にしたのだろう。
「悪く言っては駄目よ」
アリゼが言うと、侍女は頷いた。
「勿論です。
私が申し上げたかったのは、その事でお嬢様がお心を痛めておいでではないか、それが心配で……」
マチューの不登校の理由に、不名誉な事にアリゼが挙がっているのは知っている。何故なら学園でも言われているからだ。
最初はマチューの態度に婚約解消を当たり前だと口にしていた者達も、あまりのマチューの凋落ぶりに、沈む夕陽のような彼を憐み始めた。
純粋に憐む者、落ちた偶像として憐む者、色々である。
社交の場などではそれが如実に現れる。何も知らない者は遠慮なくアリゼを謗る。
暇つぶしに、好奇心から、理由はそれぞれであっても、そこに善意はない。
そうして面白おかしく尾鰭がついた噂話が回り回って、アリゼの耳に届く頃には稀代の悪女になっていてもおかしくない。
なにかと目立つピジエ家の三男を婿として迎える事を妬んだ者達がやっかみ、そのように誰かを簡単に貶めるのだ。
収穫祭はこれまでのように穏やかに過ごせないかも知れないと、アリゼは思っていた。
けれどそれを乗り越えなければ、社交でなどやっていけない事も分かっている。
「何も知らぬ者達の暇つぶしの悪口になど、耳をお貸しにならないで下さいませ。
お嬢様はマチュー様からの酷い扱いに耐え忍びました。努力も沢山なさったのです。
婚約解消は正しい事でしたし、ルネ様との婚約はルデュック家にとっても、ピジエ家にとっても、利があります。
間違いございません」
子供の頃からアリゼの側にいた侍女は、アリゼの悩みも苦しみも一番近くで見ていた。
身分の違いはあれど姉妹のようにお互いが思っている。
自身を案じて、言葉を尽くしてくれる。言葉に何の責任も持たぬ者の言う事に悪戯に傷ついてはいけないのだとアリゼはしみじみ思う。
傾けるべきは、真にアリゼの為を思って発せられた言葉であり、その思いを大切にすべきである。
「ありがとう。いくらかは傷付くとは思うけれど、大丈夫よ。私にはあなたもいるし、お父様もお母様も、頼もしい味方もいるもの」
一度言葉を区切り、胸に浮かんだ人物の名を口にする。
「ルネが、いるもの」
強い想いではない。
けれど、アリゼの心に、ルネはいる。




