21.後ろから見守る
父親は最初、駄目だと娘に言った。
淑女の身で領主の仕事をするなどとんでもない、そう言って。けれどアリゼは聞かなかった。絶対にやるのだと言い張る。
困ったルデュック伯は、何故そこまでして領主の仕事をしたいのかと尋ねた。
「ルネの助けになりたいの」
ルネと婚約してから、アリゼは少しずつ昔の快活さを取り戻していた。子供の頃そうであったように、領主の仕事に関心を持ったのだろうと。何にでも興味を抱いては直ぐに飽きていた幼いアリゼの姿が思い出される。
最近流行りの茶葉入りの菓子についても、アリゼとルネが思い付いたと言う。それで過剰に自信を持ってしまったのではないかと勘ぐったのだ。
成功体験は必要だが、過信は身を滅ぼす。
確かに領主の仕事と魔術師になる為の勉強の双方を同時に行う事は難しい。
ルネに夢を諦めさせるのではなく、その応援をしたいと言う娘に、伯爵は己の浅慮を恥じた。
「いつかは淑女の身でも爵位を持つ事は可能になるだろう。だがそれは今ではない。たとえおまえが領主の仕事を立派にやり遂げたとして、表向きは全てルネ君の功績になるし、その逆もある。おまえが失敗すればそれはルネ君の評価を下げる事になる。それは分かっているかね?」
勿論よ、そう答えて力強く頷くアリゼ。
「私はルネの助けになりたいのであって、ルネに代わりたい訳ではないの」
悩ましさもある。
ここで最後まで淑女のすべき事ではないとつっぱねるのは簡単である。だがそれではかつての娘の婚約者であるマチューと同じになる。そうして今度は親である自分が娘の心を押し潰すのかと思うと、ルデュック伯は反対しきれなかった。
考えの甘さは十分にあるだろう。娘が領主である自分の行っている事を全て知っている筈はない。ただ、それは時間をかけて覚えていけば良い事でもある。
ルデュック伯はため息を吐いた。
「まずは簡単な所から始めてみなさい。それで自身に向いていないと思ったら素直に言うんだ。変に意地を張ればそれは他でもないルネ君に迷惑がかかる」
ルネの名前を出すと、アリゼはわずかに不安を表情に滲ませはしたものの、頷いた。
「はい、約束します、お父様」
眩しい程に真っ直ぐ前を見つめる娘の姿に、己の昔を思い出す。
かつて自分もそうであった。夢や希望を抱いていた。
叶った夢、諦めた夢。多くのものがあった。
守るものが増え、非情にも捨ててきたものもある。
その度に己の心から清らかなものが失われていくのを感じていた。それでも、家族と領民を守る為に飲み込んできた。それを娘が出来るとは思えない。
思えないが、何もかも一人で抱え込まなければ良いのではないか。アリゼには全て受け入れてくれるであろう婚約者がいるのだから。
「頑張るのは大切な事だ。ルネ君の事を慮る事も。
けれどそれでルネ君の心を置き去りにしてはならないよ」
父親の言葉にアリゼははっとする。
良かれと思ってした事が、ルネの気持ちを無視したとしたなら、それはかつて自身がされたのと同じ事である。
それにルネは、ルネならばきっと反対はしないだろうと思った。
「えぇ、ルネに相談します。ありがとう、お父様」
一人ではなく、二人でなら。協力しあっていけたなら、良い結果にはならずとも、悪い事にはなるまいとルデュック伯は思った。
過去を受け入れ、前を向いて歩き出した若人を支えるのは親であり先人である己の役目だろうと考える。
きっとルネの父親であるピジエ子爵も同じように考えているに違いない。
子の成長を喜び、影に日向に支えつつも、時には叱り、その地に己の足で立てるように、導く手であろうと心に決めた。
娘が去った後、妻であるルデュック夫人は不安を隠し切れない表情で夫の側に腰掛けた。
「大丈夫なのですか?」
「それはやってみない事には分からない。だが、何もアリゼは世の中を変えようとしている訳ではない」
最初こそ反対はしたが、味方になると決めたルデュック伯はアリゼを擁護した。
「それはそうですけれど、知られた時に何と言われるかと思うと……」
アリゼが夫であるルネに代わって領主の務めを果たそうとしているなどと知られたなら、一体どれほど社交界で悪く言われる事か。無関係であるが故に勝手な事を言うだろうし、保守的である彼らは、アリゼをでしゃばりだと否定し、傲慢だと糾弾したマチューを手のひらを返して持ち上げるだろう。ともすれば失敗を望まれるかも知れない。
マチューは正しかった、アリゼは淑女としてあれば良かったのを年下の伴侶を得て調子に乗った──吹聴される内容さえ簡単に思い付いてしまう。
口さがない者達はそうやって簡単に人を扱き下ろす。
「それはきっと、アリゼも分かっているだろう。それでもルネ君の夢を応援したいと言うのだ。親として、過去の償いとして、もうあの子の気持ちを否定したくはない」
夫の言葉に夫人は言葉を返せない。
かつて娘の心を抑圧してしまった。良かれと思った事が仇になって。かと言って、自由にさせた為に徒らに娘が傷つけられるのも望ましくない。
「全ての災いからあの子を守るのは無理なのだ。それならばせめて、失敗をしながらでも前に進んで行けるように、己のような失敗をしないで済むように導いてあげるのが、先に経験した我らの役目だろう」
それに、と伯爵は言葉を続ける。
「無事にルネ君が魔術師になった途端、社交界の奴らはこう言うだろう、さすがは時代の先端を行くピジエ家と縁を結ばれた方は違いますね」
声色を変え、戯けたように言う夫を見て、夫人はたまらずに吹き出した。
「かしましい鳥はいつの世もいるし、我が事でないからこそ言える。そういうものだ」
人に後ろ指を指されるような事はしないように生きてきたとしても、ほんの僅かな事で揚げ足を取られる。
生馬の目を抜くとまでは言わないが、気を抜いて生きていけるほど甘い世界ではない。
夫の声真似をひとしきり笑った後、夫人は息を吐いた。
「本当に、そうですね」
生まれた時はあんなにも小さくて、一生懸命に泣いて、泣く事でしか自己主張が出来なかった娘は、歩けるようになってからは目を見張る早さで大きくなった。
よく動き、よく食べ、よく寝て、よく笑った。
貴族の令嬢とは思えぬ活発さにハラハラした。
婚約者を迎えてからは抑圧される事が多くなり、人形のようになってしまった娘。そうなるように同調してしまったのは自分達であったのに、かつての笑顔が見たいと思うなど、本当に勝手をしたと思う。
我が子を愛しく思えばこそ、娘の将来を憂えて躾けたつもりであったけれど、それは間違いだった。
子を己の思うように育てたいと思う事こそが、失敗の元であったのだろう。
自分達がそのように躾けられたからと言って、全ての子供に効果があるとは言えないのだと、後になって知る。
ルネがいて良かったと、夫妻は心から思った。
本当のアリゼを知っていて、受け入れてくれるルネがいるから、こんなにも順調なのだと分かっている。幸運なのだと言う事も。
他にも優しくアリゼに接してくれるであろう者はいる。誠実な人間もいる。ただ、それではアリゼの心を取り戻せないだろうと思った。
勝手な事ではあるが、ルデュック夫妻もまた、アリゼが笑顔を失って初めて自分達の過ちに立ち返る事が出来た。気付いて取り返そうとしてもアリゼ自身が頑なに受け入れなかった。
ルネの助けを得てようやく取り戻せた娘の心を、もう壊したくない。
娘の思いを尊重したい。何かの枠にはめて否定したくない。けれど自由にさせすぎて傷付けられる姿も見たくない。
守りたい。成長して欲しい。頼られたい。けれど成長して欲しくない。いつか自分達の巣から飛び立ってしまうのは分かっている。その時まで守り愛しみたい。
様々な感情が錯綜するも、最後はいつも同じ所に落ち着く。
幸せになって欲しい。
ずっと守ってあげたくともそれは不可能なのだ。
一人で飛び立てる強さを与えなくてはならない。
一歩後ろに下がって、傷つきながらも自身の翼で飛べるように。
失敗したなら慰め、叱って。
アリゼがやりたい事を応援しようと夫妻は決めた。それによって娘が悪く言われたなら、やり返してやろうと心に決めて。




