02.覚悟を決める
ルネは父親がいる書斎の扉の前で深呼吸をした。三度、深呼吸をして、ドアをノックする。
入りなさい、と、聞き慣れた父親の声がして、ルネはドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。
予想していた人物と違っていたようで、ルネの父親であるピジエ子爵は少し驚いた表情で息子を受け入れた。
「どうした、ルネ。珍しいな」
「お忙しい所を申し訳ありません、父上。お時間を少しいただけませんか」
「勿論、構わない」
ピジエ子爵は立ち上がると、ルネをソファに座らせ、正面に自分も腰掛けた。
話を始めようとしたルネを子爵は手で制した。息子の手が緊張で僅かに震えている事に気付いたからだ。
テーブルの上に置いたベルを持ち上げると、二度鳴らす。間も無くして侍女が姿を見せた。
子爵は茶を二つ、と命じた。よく躾けられた侍女は頭を下げると、そっと部屋を出て行く。
ピジエ子爵家の家督は長男が継ぐ。子に恵まれていたのだろう。長男も次男も商才があった。交易を主産業とするピジエ家を二人の息子によって盛り立てていた。
ルネは三男であり、商才こそなかったが、魔術の才があった。彼は今、選ばれた者のみが入る事が許される魔術師の塔の入門試験に挑戦している。これまでに二度、不合格になっている。合格者は毎年片手で数えられる程しかいない。十年かけてようやく合格する事もざらだった。
狭き門である。
魔術師の塔に入ると言う事は、王家お抱えの魔術師と言う事になる。塔、と表現しているものの、現実にはそんなものは存在しない。籍を置く、と言うのが正しい。
魔術の研究にかかる費用を全て王家が負担する代わりに、その研究にて得た成果を国に捧げる。また、魔術師の塔への入門が許可されれば、爵位も与えられる。
侍女が紅茶の入ったポットとカップをワゴンに載せて入室して来た。子爵は後は自分でやると言って侍女を下がらせると、手慣れた様子で、茶をカップに注いだ。色鮮やかで目にも華やかな紅茶だ。
「隣国から仕入れた新しい茶葉だ」
ルネは頷いた。
「それで、どうかしたのか?」
更に緊張させぬようにと、ルネの顔は見ずに尋ねた。
少しの間を置いて、ルネは紅茶を飲み、顔を上げた。真剣な表情だった。
「父上、お願いがあります」
いつもなら寄り付きもしない自分の部屋に、わざわざやって来た末の息子が何を願うのか、余計な事を考えそうになるのを抑えながら続きを促す。
魔術師を諦めたいとでも言うのだろうか?
「言ってみなさい」
「ルデュック家のアリゼ嬢と結婚をしたいんです。お力を貸していただけませんか」
息子であるルネが、アリゼに恋心を抱いている事は知っていた。もしルネが望むなら、その後押しをしても良いと思っていた。
何故なら、ルデュック夫妻からアリゼの新しい婚約者としてルネに打診が来ていた。幼い頃のアリゼを知るルネなら、アリゼを受け入れてくれると思っての事だった。
「……ルデュック家に婿に入ったとして家を支えていく事が出来るのか?」
いつものルネなら、少し強く言われれば俯く事が多かった。けれど彼は視線を逸らしたりはしなかった。
「分かりません。ですが、努力をします」
かつてない程にはっきりとした物言いに、ピジエ子爵は息子の成長を感じた。許可しよう、そう言おうとした時、ルネが言った。
「今までの僕を見ていた父上に、努力しますと言っても信じてもらえないのは分かっています」
ルネは真っ直ぐに父親であるピジエ子爵を見つめて言った。
「次の入門試験に、必ず合格します」
強い意志が感じられる瞳に、子爵は胸が躍るのを感じた。合格するしないはどうでも良い事だった。これまで自ら積極的に何かをしようとしなかったルネが、自分の思いを口にした。それが純粋に嬉しかった。
「……頑張りなさい」
頷いたルネは、失礼します、と言って部屋を後にした。
扉を閉じ、ルネは息を吐いた。まだ少し緊張が残っていた。
初めてはっきりと、自分の気持ちを口にした。
ずっとアリゼが好きだった。気弱な自分と違って、主張出来る彼女が眩しかった。彼女が二歳年上だと言う事もあって、ルネは気後れしていた。
幼馴染のマチューはルネから見ても、聡明で見目も良く、アリゼにはっきりと思う事を口にしていた。そんな二人の後ろ姿をいつも見ていた。
アリゼとマチューの婚約が決まった時、当然だ、と思うのに、受け入れられない自分がいる事に気付いた。自分の出来ない事が出来るアリゼに憧れを抱いているのだと思っていた。マチューとの婚約を知り、ズキズキと胸が痛み、翌日になっても治まる事はなかった。
二人の姿を目にして痛む心臓に、憧れ以上の想いを抱いていた事に嫌でも気付かされた。
僕はアリゼより年下だし、見た目も凡庸だし、マチューは伯爵家の人間で、僕は子爵家の、それも後継ぎでもなく、三男。そんな僕がアリゼの婚約者に選ばれる筈はない。そうやって自身を納得させようとするのに、頭では分かっているのに、己の心を上手く御せない事にルネは苦心していた。
アリゼから距離を取らねば。もう彼女は婚約者がいる身なのだから。
理解している筈なのに、気が付けばルネの目はアリゼの姿を探し、見つければ目で追っていた。胸が痛んで仕方がないのに、アリゼを見ずにはいられなかった。
アリゼの幸せを願いながら、その逆の気持ちを抱いてしまう。
婚約当初こそ笑顔だったアリゼから、次第に笑顔が消えていく。いつも真っ直ぐ前を見ていたのに、俯きがちになり、足元を見ながら歩くようになったアリゼを見て、ルネは胸を痛めた。
二人の関係に口出しはしなかった。出来なかった。何故なら、他でもないアリゼが受け入れていたからだ。
それでも、アリゼの慰めになりたいと、少しでも辛い気持ちを緩和させられたならと、ルネはアリゼの邪魔にならないように声をかけた。
ずっとずっと歯痒い思いをしていた。自分が婚約者だったなら、こんな顔をさせないのにと思っていた。
もう一度息を吐き、ルネはその場を去った。己がしたい事の為に。なさねばならない事の為に。
自らを追い立てる為に、父に言った。自分に逃げる場所はないのだと追い込んだ。
「ルネ様?」
部屋に戻ろうとしたルネに、執事が声をかけてきた。
丁度良い、とルネは思った。
「ルデュック家に明日、訪れたいと申し入れて欲しい」
「承知しました」
アリゼの顔を思い浮かべる。
彼女は言った。婚約を解消すると。
初めての事だった。ようやくアリゼはルネに弱音を吐いた。
だから、もう逃げないとルネは心に決めた。
自分なら絶対に彼女を幸せに出来るなんて事は言わない。ただ、彼女を愛する事と、マチューのように裏切ったりしないと約束をしようと思っていた。