17.赤猫
いつもより少し長めです。
それからのアリゼとルネの関係は順調と言えた。
二人の婚約はすぐに広まり、アリゼの次の婚約者になろうと目論んでいた少年達は肩を落とし、ルネを狙おうとしていた令嬢達も悔しがった。
なんとかして二人の間に割り込めないかと思ったようだが、あまりの仲の良さに早々に断念せざるを得なかった。
かつてマチューという存在がいた事が嘘のように、アリゼは甲斐甲斐しくルネの世話を焼いたし、ルネもアリゼを優先していた。
ともすれば食事を抜いてしまう婚約者を心配して、アリゼは軽食を詰め込んだバスケットを用意した。抜いてしまう理由は魔術師と領主の双方の勉強をしている為である。
用意しても食べる事を忘れてしまう為、アリゼが毎日ルネの教室に迎えに来て、中庭のベンチで食事をする事にした。
行儀は大変悪いが、本を読みながらでも食べられるようにと用意した具を挟んだパンは、ルネのお気に召したようだった。
勉強をするルネと、そんなルネを眺めながら同じ具を挟んだパンを食べるアリゼは幸せそうだった。
誰から見ても幸せな婚約者同士で、その二人の姿を寂しそうに見つめるマチューの姿があったが、誰もマチューを慰めはしなかった。
以前一緒に勉強会をしていた生徒達もマチューを誘う事はなかった。勉強会の趣旨は如何にして効率良く領地を経営するかと言うものである。彼はもはや未来の領主ではない。呼ばれる理由がないのだ。あれだけ目を輝かせながら未来を語っていたにも拘らず。
傲慢な振る舞いによって友と呼べる者がそもそもいなかったと言う事に、事ここに至ってようやく気付いたが、なにもかも遅い。
新たな婿入り先を見つけようにも、あれだけアリゼに酷い態度を取り続けたマチューを伴侶にしたいと思う令嬢はいなかった。自身の立ち位置を正確に把握出来ない者など、仮令学園での成績が良かったとしてなんにもならない。
学園での成績は一つの揮にはなっても、社会での成功を約束するものではない。
自業自得、全てがこのひと言に尽きた。
もはや約束された未来はないのだ。実力で切り開いていかねばならぬのに、何もかもやる気が起きない。
溢れたミルクは戻らない。溢したのは他でもない自分だと自嘲する。
あれだけ張り付いていた男爵令嬢も、マチューに寄り付きもしない。
なんとも皮肉な事である。
爵位しか見ていなかった彼を、男爵令嬢もまた、爵位でしか見ていなかった。
未来の伯爵たればこそ、恋人にもなろうと思ったのだろう。
不本意ながらではなく、自らの意思でもって再度学び直し始めた淑女教育は、アリゼにとっては辛さを伴うものではあった。けれど、自分が成長すればルネの助けになるかも知れない、ルネの足を引っ張らないのだと思えば耐える事が出来た。
かつてよりも熱心に学ぼうとするアリゼを、講師を務める夫人は応援していた。アリゼが以前とは違う理由はすぐに知れた。彼女にきつく当たっていた少年とは婚約を解消し、新たな婚約者を迎えたと言う。
講習が終わり、馬車を呼ぼうと街路に出た所を、声をかけられた。
「あら、アリゼ様ではなくて?」
振り返ると美しい少女が立っていた。
マチューの恋人と言われていた男爵令嬢だ。
赤毛は艶々として美しく、緑色の瞳は吸い込まれそうな程である。学園でも指折りの美少女であり、あの日、マチューの頬に口付けをしていた彼女である。
そんな人物が自分に何の用なのかと、アリゼの身体は自然と強張る。明らかに自分を警戒している様子のアリゼを見て、少女──ジュリア・ソネゴは笑った。
「そんなに警戒なさらないで。
……と言っても無理ですわね。貴女とマチュー様の婚約解消の理由の一つに、私が入っていると伺っておりますもの」
もはや自分とは関係のない事。そう己に言い聞かせて気持ちを奮い立たせ、アリゼは尋ねた。
「ご用件は何でしょう?」
「ピジエ家の三男 ルネ様との婚約、お祝い申し上げます」
「ありがとう」
まさかそれだけを言う為だけに声をかけたのではあるまいと、アリゼは努めて冷静にジュリアを見返す。
「あの後私、お父様から大変怒られてしまいましたの。婚約者のいる異性に親しくした事について。下手をすればルデュック家から男爵家に不貞に関する慰謝料を請求されてもおかしくないのだから、と」
「そう」
当然でしょう、と返したいのを我慢する。
どういった理由で自分に声をかけたのか分からない上に、何とも苛々させるような、ねっとりとした話し方をする令嬢だ。これまで敬遠していたから、まともに話したのはこれが初めてである。
「皆さん、私の事を人の物に手を出す手癖の悪い赤猫と噂されるのよ、酷いと思わなくて?」
酷いとは思わない。かと言ってそれを口にすれば面倒な事になりそうだとアリゼは思った。
「私は私に相応しいと思うものを手に入れたいだけなのに」
自分のした事を反省する気はないとはっきり言われる。
「ご用事がないのなら、失礼させていただくわ」
ジュリアの相手をするのは時間の無駄だとアリゼは思った。心身にとってもよろしくない、と。
「ルネ様なら、不釣り合いにならなくて良かったですわね。マチュー様とアリゼ様では、爵位こそ同じ。将来的に伴侶に爵位を与えられるとは言え、容姿だけで言えば釣り合ってらっしゃらなかったもの」
うふふ、と笑うようにジュリアが言った。
あまりに無礼な発言にアリゼは固まった。くだらないと切り捨ててしまえば良い事なのに、それが出来なかった。
自分を貶められるのだって嫌な事だが、ルネが悪く言われた事が嫌だった。
「……そうね。容姿と爵位しか見ていない、貴女のような方がマチュー様にはよくお似合いだわ。彼、消沈なさってらっしゃるみたいだもの。慰めて差し上げたらいかが?
今なら婚約者もいないのですもの。お父様にもお叱りを受けずに済むのではなくて?」
怒りのままにジュリアの挑発に乗っていると自分でも分かっていた。けれど許せなかった。
自分の容姿が地味な事なんて何度となく思い知らされた。改めて言われずとも知っている。
己の見た目に絡めてルネを悪く言われた事は許すべきではないと思った。
ジュリアは怯える振りをして、「こわぁい」と言い、「助けて、ルネ様」と、いつの間に来ていたのか、ルネの腕にしがみついた。
「わっ! 触らないで!」
ルネは慌ててジュリアの腕を自分から引き剥がした。
異性からこんなぞんざいな扱いを受けた事がなかったのだろう、ジュリアは目を大きく見開いてルネを見たまま固まっている。
「あの、貴女はマチューの恋人なのでしょう? それなのに、僕の腕にしがみつくなんて……マチューの好みの淑女として、相応しくない行動だと思う」
ジュリアから逃げるようにしてアリゼの横に立つルネに、嬉しいと言う気持ちが湧きつつも、何処から話を聞いてしまったのかと心配になった。
「……ルネ、貴方、どうしてここに?」
「用があってここに来たんだけど、今日はアリゼが講習の日だったって思い出したから、一緒に帰ろうと誘いに来たんだよ」
そう言ってルネは優しい笑みを浮かべた。
「それでね、折角だから、新しく出来たカフェに行ってみない?」
婚約してから知った事だが、ルネは、と言うよりもピジエ家の息子達はよく外出をする。
市場調査だよとルネは言っていた。アリゼからすれば二人で美味しいものを食べたり、可愛らしいものを見られるのだから楽しいデートにしか思えなかったけれども。
「え、えぇ……それは構わないけれど……」
アリゼはジュリアに目を向けた。
ルネの目には彼女が全然入っていない。アリゼだけを見ていた。
しかしと言うべきか、さすがと言うべきか、ジュリアはいつもの調子を取り戻したようだった。
「あら、新しいお店、私も気になっていたの。ご一緒させてもらえるかしら? 流行を追わないと、取り残されてしまうものね」
アリゼは表情を取り繕わなかった。先程醜態は見せているし、ここまではっきり言われているのに厚かましくもついて来ようなどとするのだ。遠慮は要らないと判断した。
なにより、彼女はルネに関心があるようだった。
ルネに限ってとは思うものの、不安は抱くものだ。
「マチュー様と行ったらどうなの?」
アリゼがそう言うと、ジュリアは悪戯を思い付いたように微笑んだ。表情の一つひとつが可愛らしい。
「先程ルネ様に指摘いただいたように、私、淑女として失格だもの。マチュー様の横に立つなんて恐れ多いわ」
なるほど。マチューは捨てられたらしい。
ルネは気にした様子もなく、ルデュック家に帰りが少し遅くなる知らせをやって、アリゼに手を差し出した。
「行こう、アリゼ」
置いてかれそうになったジュリアが背後で声を上げた。
「ちょっと!」
ルネは振り返ると、困ったように言った。
「ごめんね、邪魔しないで」
今度こそジュリアは返す言葉もなかったようで、その場で茫然としていた。
急ごう、とルネに急かされ、アリゼはジュリアに少しだけ同情しながら、少しだけ優越感を覚えた。
「ありがとう、ルネ」
「どういたしまして」
それからルネは、あらかじめ調べておいたらしい、カフェのメニューの説明をしてくれた。
甘いお菓子を食べ、講習の話を聞いてもらい、ルネの話を聞いて、アリゼの心は満ち足りていた。