15.淑女らしさとのしかかる責務
後日、ルネは花束を持ってルデュック家の屋敷を訪れた。
ルデュック夫妻に歓迎されながらサロンに案内される。足を踏み入れると、窓の外を眺めているアリゼがいた。
表情は優れない。
この婚約は、アリゼにとってやっぱり好ましいものではなかったのかと、ルネは不安になる。
「アリゼ」
声をかけると、ゆっくりとルネの方を向き、泣きそうな顔を見せた。
「……ルネ……」
会ったら最初に、自分との婚約を受け入れてくれてありがとうと、ルネは言うつもりだった。けれどアリゼの様子を見て、言えなくなった。
手に持って来た花束も、渡して良いのか渡さない方が良いのか、迷うところである。
ルネは俯いて、目を閉じた。それから一度息を吐いた。その行為にアリゼは不安が増す。
自分でも無茶苦茶だと分かっているが、アリゼはルネに、自分と婚約出来て嬉しい、大切にするだとか、安心して欲しいだとか、要するに自分を安心させてくれる言葉と愛情のある態度を欲していた。その反面で、この結んだばかりの婚約を速やかに解消すべきだと頑なに思っていた。
アリゼの前までやって来たルネはピンク色の薔薇の大きな花束を差し出した。
「まず、僕の気持ちを伝えるね」
優しい眼差しがアリゼを見つめる。それだけでアリゼは泣きそうになってくる。
「僕と婚約してくれてありがとう」
目の前まで差し出された薔薇の花束を、アリゼは抱きしめた。薔薇の芳香が鼻をくすぐる。
「黄色い薔薇にしようかと思ったんだけど、花言葉がね」
黄色い薔薇の花言葉は“友情”“平和”“愛の告白”である。最後の意味合いでなら、間違ってはいないのではとアリゼは思った。
「ピンクの薔薇に“愛の誓い”って花言葉があるって教えてもらって、ピンクにしたんだ」
愛の告白は既にもらっているのだから、誓いなのだと納得する。
これから咲こうとする蕾が半分。花開いたものが半分。少し落ち着きのあるピンクであるからか、大量にあっても激しく誇張はして来ない。百本はあるのではないだろうか。
困った顔をしながらルネは話を続ける。
「これまで、ぼんやりと生きてきたから、貴族だったら当たり前に知ってる事とか分かってなくて、アリゼを不快にさせる事もあると思うんだけど、覚えるから待ってて。あと、良かったら教えてもらえると嬉しい」
申し訳なさそうな顔をする婚約者の顔に、アリゼは思わず笑ってしまった。
「アリゼ嬢、頼りない僕では不安は尽きないと思います。でも、僕は君を裏切らないし、君を大切にします」
言いながら赤く染まっていくルネの顔。婚約は決まっているのに、それでもこうして言葉にしてくれる。その優しさと誠実さにアリゼはまた、泣きそうになる。
「アリゼ? やっぱり、僕との婚約は嫌だった?」
慌てるルネに、アリゼは首を横に振る。
「違うの」
ルネの顔が見られない。アリゼは思わずもらった花束に顔を埋めた。棘は全て取ってあるとは言え、肌を傷付けるのではと、ルネは狼狽る。
「アリゼ?」
「この婚約は駄目なの」
「どうして?」
「だって、ルネが、ルネだけが大変なのは駄目よ」
涙がこぼれる。顔を隠しているから見えないだろうと言う安心感からか、泣く事を我慢出来なかった。
顔は見えなくても、きっと声で分かってる。アリゼが泣いていると。
「父上にも、兄上にも言われた」
自分から薔薇の中に顔を埋めてしまったのに、だからルネの顔が見えないのに、今ルネがどんな顔をしているのか知りたい。でも、知りたくない。
「魔術師になる事を諦めろって」
アリゼの身体が強張る。
父親であるピジエ子爵も、後を継ぐ兄達も、ルネが魔術師を諦める事に頓着はないようだった。むしろ二兎追う事でルネの心身が磨耗して、アリゼとの関係が悪くなる事を懸念していた。
「僕は不器用だし、アリゼもよく知っているように鈍いから、アリゼの事をやきもきさせてしまうと思う」
アリゼの花束を握る手に力が入る。
「魔術師になる為の努力は続けるよ。なれなかったとしても、努力しない理由にはならないし、有り難い事に年齢の制限がないから」
恐る恐る薔薇の中から顔を上げたアリゼを見て、ルネは笑ってハンカチでアリゼの涙を拭った。アリゼは嫌がらずにされるままにしていた。
「ルデュック家を継ぐ為の勉強もしなくちゃいけないけど、教えてくれる人が何人もいるから、安心してる。僕は本当に恵まれてるなって、思う」
そう言って微笑むルネを見て、アリゼは複雑な気持ちになってきた。これもまた勝手ではあるが、自分がこんなにルネの事でやきもきしていたのに、何故当の本人がこんなにものほほんとしているのだろうと。
「貴方って、昔から変わらないわね」
「そうかな?」
「そうよ。なんとかなるかなぁ、なんて言って。なんとかならなかったらどうするの?」
思わず子供の頃と同じようにキツイ口調で詰めてしまった。アリゼは我に返って慌てて謝罪しようとして、固まった。ルネが破顔一笑したからだ。何故そんな笑顔を浮かべるのだろうと不思議に思っていると、ルネが言った。
「昔のアリゼみたいだ」
マチューに散々否定されてきたアリゼ。
「ルネは、嫌じゃないの?」
「何を?」
「本当の私は、淑女らしくないわ。大人しく隣に座って微笑むとか、出来なくはないけれど……疲れるの」
「知ってる」
ルネが知ってる事は知っているけれど、なんと言うかもっと、婚約者なのだから、優しい言い方をして欲しいとアリゼは思った。
「本当のアリゼも、頑張って淑女らしくしてるアリゼも、どちらも好きだよ」
胸をぎゅっと掴まれたような気持ちがした。
恋物語を綴った本はいくつも読んできた。出て来る主人公はみんな、愛の言葉を捧げられて幸せになった。
でも主人公たちはみんな自分とは違って大人しい女性ばかりで、こんな風にはなれないと思ってしまって、アリゼの胸は少し切なかった。
たとえ淑女としての振る舞いが完璧だとしても、夫婦仲が芳しくない家などいくつもある。
貴族の家に生まれた娘としての義務は理解している。
それでも、愛されて育ち、夫婦仲の良い両親を見て育ったアリゼは愛し愛されたかった。その為に将来の伴侶となるマチューの意に沿うよう努力した。努力そのものが無駄だと知って、アリゼの心は砕けたのだ。
「アリゼはもう、そうしなくてはいけない場所で淑女になれるでしょう? 領主の仕事や魔術師の勉強も大変だろうけど、紳士らしく出来るかが自信ないよ」
急に弱気な事を言い出す。
紳士として振る舞おうと意識しなくとも、先日の夜会でマチューから守ってくれた。紳士に求められる事をルネは既に持っているのに。
不意に、淑女とは何なのかとアリゼは思った。
「大丈夫よ」
アリゼは自然にルネに笑いかける事が出来た。
「私も応援するわ」
私も私に出来る事をすれば良い。
ルネはありのままの私でも良いと言ってくれているのだから。