13.婚約
父 ピジエ子爵の言葉に、ルネは戸惑いを隠せない。
息子が喜ぶと思っていた子爵もまた、ルネの反応に戸惑いを覚えたが、そこは年の功と言うもので、表には出さなかった。
「気に入らないのなら、断りを返しておくが?」
「ちがっ! 断らないで下さい!」
慌てて否定するルネに、子爵は尋ねる。
「何を気にかけているのか、言ってみなさい」
アリゼとの婚姻を願い、あれほど苦手な夜会にまで行ったのだ。婚約したくないのではあるまい。それなのにこの反応は別の理由があるのだろう。子爵はそう考えた。
「ルデュック伯が婚約を打診して下さるのは、ピジエ家を評価されての事だと思います」
ルネの視線は話しながら下がって行き、途中から完全に俯いていた。
「その、僕は、嬉しいです。でも、アリゼは、アリゼ嬢は了解してくれてるのかと……」
なんだそんな事かと心の中で答えると、子爵は声に出して息子に答えを返す。
「貴族同士の結婚だからな、利点がなければそもそも声もかけない。あちらは総領娘なのだから」
はい、とルネは俯いたまま頷く。
「実は以前からこの話はいただいていた」
「えっ!」
思いもよらない言葉に驚いて、ルネは顔を上げて父親を見た。
「どの道、テター家次男と愛娘の婚約を解消させるつもりでいたのだ、ルデュック伯は。
娘の新しい婚約者としてどうかと持ちかけられていた。ただ、それに対して私が回答をしていなかった」
ルネ自身、自分のアリゼへの想いは家族に知られているだろうと思っていた。もしそのような申し出があったなら、了承してくれるだろうと。けれど、留めていた、と父親は言う。
真意を測りかねて、ルネは父親の表情を窺う。
「打診はされていたが、双方ともに条件が合えば、ぐらいの軽いものだったのだよ」
正式な婚約の申し込みではなく、可能であればと言った意味合いのものだった。その時点ではマチューと婚約しているのだから当然である。
ルデュック家からすればピジエ家との繋がりは利しかない。ルネが娘の気質を受け入れてくれるだろう事は分かっている。
子爵は爵位に関心がなく、貴族の面々を顧客としか見ていないフシがあった。
ルデュック家としての利点は、ピジエ家に通用しない。
無論ピジエ家にとっても爵位が上の貴族との婚姻に利点がない訳ではないが、彼らの目的はピジエ家と繋がる事で得られる富、名声。その先に求めるのは利権にいかに自分の家が食い込めるかにかかっている。
ピジエ家からすれば、利点は僅かであり、骨までしゃぶられる事が見えている。望んでしたいとも思わないものばかりである。しかも上と真ん中の息子ならばやり返す事も可能だろうが、婚約者がいないのはルネだけだ。
気弱な三男など老獪な者達の手にかかれば赤子の手を捻るようなものだ。
そのような婚姻を、家族を大切に思っている家長として容認出来る筈もなかった。子爵としての立場から見ても、家を守ると言う意味で受け入れられないものだった。
故に、断り続けた。
心に決めた相手が、と言うのは断りの常套句である。相手にはなんの不満も落ち度もないと伝え、かつ穏便に断る為の。
「伯はね、アリゼ嬢の気持ちを尊重したいと言ったのだ。テター家との婚約はアリゼ嬢の気持ちとは関係なく結んだものだ。優秀な婿を取り、娘と家を守る為に。
まぁ、普通の事だが、相手が悪かったな」
そう言って子爵は紅茶を口にする。眉間に皺を寄せ、これは駄目だな、とひとりごちる。
「結果として愛娘の自尊心を酷く傷付けるだけとなり、彼らは娘本来の性質を受け止めてくれるだろう人物を求め、当家に打診してきた」
なるほど、とルネは納得がいった。
ルデュック家はピジエ家そのものに対しても魅力を感じていただろうが、一番はそこだったのだ。
ルネはアリゼの性格を好ましく思っている。だからこそマチューに抑圧された状況を憂いていた。あれでは彼女の心が死んでしまう、と。
「今回のは打診ではなく、正式な申し込みだ。アリゼ嬢の希望だそうだぞ。おまえの申し出を受けたいと」
ルネの胸がひときわ大きく高鳴り、耳まで赤くなる。
その様子に、若いな、と子爵は苦笑いを浮かべつつも、息子の望みが叶おうとしている事は喜ばしかった。
「本当ですか?」
「嘘を吐いてどうする」
嬉しくてたまらないだろうに、必死に気持ちを抑えている息子に、子爵は笑った。
ルネも笑顔になったが、すぐに真面目な表情を見せた。顔の赤みも落ち着いている。
おや、と、子爵は息子の表情を観察する。
「頑張ります。
僕を選んだ事を、後悔させないで済むように」
マチューによって傷付けられて、アリゼからすれば次の相手を見つけるのに時間を空けたかっただろうに、総領娘と言う立場がそれを許さない。
自分が選ばれたのは、彼女を傷付ける可能性が低い事と、ピジエ家との繋がり。それから魔術師候補と言う立場。
ルネ自身を求めての婚約ではない、とルネは分かっていた。それでも良いから彼女の夫になりたいと思ってしまう自分の狡さに、アリゼに申し訳ないと思ってしまう。
でも、彼女が好きで、好きで、好きで。何度諦めようと思っても諦められなかった。
最初は打算で良いから、いつか、自分と結婚して良かったと思ってもらえるように努力しよう。
人の気持ちは変えられない。
自分に出来る事は努力するだけなのだ、ルネはそう決意する。
「頑張りなさい」
長く続いた片想いが叶おうとしているにも拘らず、存外冷静な態度を見せた三男に、子爵は満足げに微笑んだ。
先日の夜会でも、マチューからアリゼを守る為に立ち回った事は、参加者からお褒めの言葉として耳にしている。
いつまでもねんねだと思っていたのに、着実に育ってきている事が喜ばしい。
「ルデュック家には快諾の返事を返しておくが、構わんな?」
はい、とルネは頷いた。
「アリゼ嬢には、改めて婚約してくれた事に対するお礼に伺います」
「そうしなさい。立場を得たからと言って、決して気を抜いてはいけない。
彼女に心を向けてもらえるかどうかは、おまえの言動にかかっている」
婚約者となったからと言って、絶対など無いと言う事は、幼馴染みを見て痛感している。そこに自分がつけ込んだ事も分かっている。
会話がひと段落して、ルネはぬるくなった紅茶を口にする。苦味がある。
陶器のカップに注がれた紅茶は、美しい紅色だが、いつもよりも濃く感じる。
「父上、この茶葉は新しいものですか?」
ピジエ家には目新しいものが多い。
嗜好品である紅茶は特に人気がある為、あちこちから取り寄せては試飲をし、品質の良いものを見極め、売り出す。
「そうだ。淹れてみたのだが、どうも渋味ばかり出てしまって使えそうにない。日頃のものより茶葉が小さいからな、量を減らしてみようかと考えている」
仕入れたは良いものの、使用に耐えない茶葉は廃棄される事が殆どである。勿体無いからと安く売りに出すとピジエ家としての商品価値が下がってしまう。
商品の見極めは大変難しい。
幼い頃から見ているルネはその事を良く分かっている為、なんとか出来ないものかと考えるのだが、そうそう上手くはいかないものである。
いずれは、と思いながらも、今は目の前の自分に課された事に全力を傾けよう、と思うのだった。