12.船は出航してしまった
侯爵家主宰の夜会での事は、すぐさま社交界に広がった。刺激に飢え、自身にとって利のある事はないかと油断なく目を光らせている者達ばかりである。邪魔者は容赦なく蹴落とす。隙を見せる者が悪いのだ。
とは言え、テター家次男の醜聞は有難い事にさほど話題には上らなかった。関心がないのである。マチュー如きでは食指が動かぬと言う事だろう。それよりもルネに対する関心の方が高かった。
さりとてマチューの失態はテター家からすれば醜聞である事に変わりはなく。今は騒がれずとも、後から掘り返される事もある。
学園から屋敷に戻ったマチューは、着替える間もなく兄 ディエゴに呼び出された。
夜会の事を言われるのは分かっている。上手くやれなかった事を詫びねば。そう思いながらサロンの扉を開けると、ディエゴは腕を組みながら部屋の中を行きつ戻りつしていた。苛立っている時に見せる行動だ。
「兄さん」
マチューが声をかけると、早歩きでマチューのすぐ前までやって来た。
「おまえは何を考えている」
低く唸るような声がディエゴの口から出た。失敗した自覚があるマチューは素直に謝罪する。
「申し訳ない。次は上手く」
マチューが言い終わるより前にディエゴの腕が伸び、弟の胸倉を掴んだ。
「次など無い」
声の音量は抑えられているものの、怒りが含まれており、マチューを怯ませるには十分だった。
「何故父上の言う通りにしない。おまえは自分の意思でアリゼ嬢に婚約を解消されて当然の仕打ちをしていた。
あのような事をし続けて解消されない自信は何処からきていた? 仮令それが愛情であったとしても、誠意のない対応をされ続ければ、愛のような形のないものは跡形も無く消えるだけだ!」
突き飛ばすようにして胸倉から手を離されたが、その勢いにマチューはその場に尻もちをつく形になった。
怒り冷めやらぬディエゴは冷え冷えとした目を弟に向ける。
「幼い頃から聡明だと褒めそやされて調子に乗り、周囲の言葉も耳に届かぬおまえには、今更何を言っても無駄だろうが、これだけは覚えておけ。
テター家にとって害悪にしかならぬ事を次にしたら、当家の籍から抜く。平民として生きるのが嫌なら大人しくしていろ」
自分が失敗続きであり、夜会のアリゼへの態度もすべきではなかったと、冷静になった今なら分かるが、貴族籍の剥奪まで言われる理由が分からない。
マチューの頭は理解が追い付かない。
ディエゴは息を吐いた。
言うだけ言って気持ちが少し落ち着いたのか、先程よりは声が柔らかくなっていた。
「ピジエ子爵は全て分かっていて、侯爵家主宰の夜会に参加させたと言う事だ」
子爵には幼い頃に数回しか会った事がないが、頭の良い人物と言う印象がある。子爵も上の兄二人も目に見えて賢いのが分かるのに、三男のルネは鈍感で己の考えを言語化するのにすら手間取っている、と言うのがマチューの認識だ。
その印象がいくらか変わったのは、ルネに魔術の才能があると言われてからだった。
魔術書は難しいものが多い。それが読めるのだ。魔術は才能と努力が必要とされる。
だが、学園でのルネの成績は奮わず、マチューはがっかりした。これでは到底魔術師になどなれまい、と。
歯牙にも掛けない存在と認識していたルネをマチューが恐れるのは、難関であるが故に魔術師になるのに何年かかっても良いとされる風潮にある。魔術師を目指している。それだけで箔がつく。たとえ画期的な発見をせずとも、物珍しさが受ける事もある。
「三男のルネはアリゼ嬢との婚姻を望んでいる。ルデュック家は伯爵位を持つ。婿に入れば貴族社会に首まで浸かる事だろう。縁戚になるピジエ家もその影響からは逃れられまい。
これまでそう言った煩わしさから体よく逃げていたが、三男の為に重い腰を上げたと言う訳だ。
どうせ釣り上げるなら大物をと侯爵に接近させたのだろう」
それも、ただの防波堤ぐらいにしか思っていないだろうが、と言ってディエゴは眉間にしわを寄せる。
「おまえが余計な事をすればテター家は侯爵家に目を付けられると言う事だ。分かるな?」
マチューはぎこちなく頷く。
「分かったらもうアリゼ嬢に近付くな。夜会が終わってすぐにルデュック家から正式な抗議の手紙が父上宛に届いている」
そう言ってディエゴは胸ポケットから封筒を取り出し、マチューに差し出した。恐る恐るといった様子で封筒を手にする。
ルデュック家の家紋の封蝋がされた封筒だ。
「命令だ。どんな理由があろうともアリゼ嬢に近付くな。絶対にだ」
ディエゴが去って行った後、マチューは封筒から手紙を取り出した。
そこには夜会での子息の行いは脅迫行為と見做す。
このような行為をする子息と娘を再度婚約させる事は絶対にありえない。
次に娘に近付いた場合にはそれ相応の対応をさせてもらう。
そう書かれていた。
頭の中でこれまでの記憶が次々と浮かび上がってくる。
いつから自分はアリゼへの対応を間違えた?
いや、良くないとは思っていた。
でもアリゼは勝気すぎる。伯爵夫人としてあれは褒められたものじゃない。
そもそも最初の茶会で失敗した時にオレが注意して、アリゼは反発して、だがアリゼの両親だってオレが正しいと言ったのだ。オレは間違ってない。
オレが正しいと両家の親だって言ってくれていたじゃないか。……いや、違う。オレのやり方に非難をするようになった。もっと言い方がある筈だと言って。
アリゼの勝気は男勝りだ。そんな事を言っていたらオレが恥をかく。家名にだって泥を塗るだろう。
間違ってない。
オレは間違ってないだろう。
ルネの言葉が蘇る。
『マチューの思いがアリゼにとっては重荷だったから、婚約は解消されたんでしょう?』
オレは爵位が欲しかった。父が唯一持ってる伯爵位は兄が継ぐ。
こんなにもオレは頭脳も容姿も優れているのに、次男と言うだけで、他に爵位がない所為で、貴族籍があるだけの人間になる。
それなのに、アリゼは容姿も頭脳も平凡なのに、オレが欲しくてたまらないものを持ってた。
オレなら活かせる。そう思った。だからはっきりとこうあるべきだと言った。認めてもらいたくて。
もっともだと、はっきりと思う事を言えるのは偉いと褒められた。
だからそうやってきた。
でもそうじゃない。
大事なのはアリゼの気持ちだった。
だって、オレがどんなに聡明だろうと、容姿が優れていようと、正論を口にしようと、伴侶を決めるのはアリゼだったんだから。
選択権はオレになかったんだ。
オレにあったのは、オレがすべきだったのは、アリゼの気持ちを大切にする事で、オレの言いなりにさせるべきじゃなかった。
船は出航してしまった──……。