桶狭間のわな
桶狭間の合戦。
その結末を私は帰蝶様の部屋で、帰蝶様と二人で待っていた。普通に考えて勝てる相手ではない今川義元との戦いだけに、帰蝶様は不安そうだ。
「ねね。本当に勝てるのであろうか。
確かに、出来る限りの手は打った。
が、あまりにも戦力に差があり過ぎる」
「帰蝶様が信長様を信じないで、どうなされるのですか」
「そうじゃな」
帰蝶様はそう言った後は黙り込んだままで、きっと込み上げてくる不安をぐっと抑え込んでいるに違いない。
そして、長く感じられる時の流れの中、桶狭間の戦いの第一報をもたらしたのは、あかめさんだった。
「帰蝶様。信長様の勝ち戦でございます。
今川義元は首をとられ、今川勢は駿河に向け敗走中」
「まことか。それは」
あまりの嬉しさからか、帰蝶様は勢いよく立ち上がった。
「ねね。やったのう」
「はい。帰蝶様」
暗く沈んだ雰囲気から、帰蝶様の部屋の中の雰囲気は一転して明るくなった時、続けて藤吉郎がやって来た。
「勝った、勝ったぞぅ」
藤吉郎の最初の言葉はそれだった。
そして、藤吉郎を歓迎する帰蝶様に、戦の様子を得意げに喋り出したのは藤吉郎だ。
「わしはだなぁ。
買い溜めておいた米や酒などを桶狭間一帯の百姓たちの下に運び込んだ訳だ」
と言って、自分の武勇、いや影の功績を語り始めた。
何日か前、簗田政綱と藤吉郎は城下の商家の主たちから奉公人たちを借り受け、簗田の指揮の下、桶狭間一帯の村の長の下に買い溜めていた米や酒を運び入れると、各村の長達に次のように命じた。
「すでに知っていると思うが、近い内に今川義元は尾張に攻め入る。
今川義元は沓掛城に入った後、軍勢を引き連れ、桶狭間を通って大高城に向かう。
ここに運び入れた米や酒の一部をお前たちに報酬として分け与えるゆえ、その際には米を炊きだし、握り飯や粽を大量に作り、今川の軍勢に酒と共に差し出せ。
そして、その際はこう口上を述べよ。
『織田の乱暴でうつけの殿様とは違い、今川のお殿様はお情け深いご領主様とうかがっており、われら尾張の民は今川様の勝ち戦を心より喜んでおります。つきましては、ささやかな祝いの品をご用意した次第。ぜひ、ご休息いただき、我らの心ばかりの品を召し上がっていただければ、この上ない幸いでございます』とな」
合戦当日、簗田と藤吉郎の話どおり、今川義元が沓掛城に入り、織田方の砦を落としていく。
簗田と藤吉郎は村の長たちの下に向かい、握り飯や粽の準備を指示した。大量の米や酒のいくらかを貰えるとあって、村人たちは労苦を惜しまず働き、大量の握り飯に粽、酒と肴の準備を終えた頃、桶狭間に今川の軍勢が通りかかった。
大高城を目指して街道を進む今川の軍勢の前に村の長達が進み出た。
「今川義元様の軍列とお見受けいたします。
われらはこの近在の村の者にござりまする」
「何事じゃあ」
今川の軍列の中から、騎馬武者が進み出て来た。
村の長達はその前で一度土下座してから、頭を上げた。
「われらはこの近在の村の者にござりまする。
すでに織田の砦を落とされたとうかがい、この戦、今川様の勝ち間違いなしとわれらは確信いたしております。
織田の乱暴でうつけの殿様とは違い、今川のお殿様はお情け深いご領主様とうかがっており、われら尾張の民は今川様の勝ち戦を心より喜んでおります。つきましては、ささやかな祝いの品をご用意した次第。ぜひ、ご休息いただき、我らの心ばかりの品を召し上がっていただければ、この上ない幸いでございます」
「その心根、殊勝なり。
されど、われらは戦の最中。
そのような気づかいは無用」
「すでに我ら、皆様方に召し上がっていただきたく、あのように準備を済ませてしまっておりまする」
そう言って、握り飯や粽、酒に肴を持って居並ぶ数百人は下らない村人たちを指し示した。
「確かに、よい香りがするが……」
そこに異変に気付いたもう一人の騎馬武者が駆けつけて来た。
「どうした?」
「これは松井様。
近在の村の者たちが、われらに馳走したいと申しております」
その言葉に今川家の重臣の一人松井宗信が、辺りを見渡した。
「これはすごい数ではないか」
「はい。今川様のご家来衆の数はうつけの殿とは違い、数万に及ぶとうかがっており、出来うる限りの食べ物を用意させていただきました」
「その方たち、殊勝なり。
その気持ち、しかとお館様に伝えようぞ」
松井はそう言い残すと、義元の下に馬を走らせた。
松井はすでにあかめの策にはまっており、新たな領国を滞りなく運営するためには、民の心を掌握する事が一番であり、民の善意は快く受け入れるべきと考えていた。
今川義元は昼近くであった事もあり、松井の進言を聞き入れ、その場で軍を止め、休息をとる事に命じた。
桶狭間。その中でも一番小高い丘の頂に今川義元は陣を構えた。
あかめさんが藤吉郎の話に割って入って来た。
「一番見晴らしのきく場所に陣を構え、周囲への警戒に気を配りはしたものの、そもそも兵数の劣る信長様の軍が戦線の中ほどに位置する本陣に直接襲い掛かって来れるなんて考えておらず、軍を休める事を拒まなかったようです」
「そうでしょうね。
この策はその過信と油断を突くものだったのですから」
帰蝶様がそう言って、微笑んだ。
ブクマ入れて下さり、ありがとうございます。
次話で桶狭間の戦いに決着が付きます。
毛利新介が飛び上がって、義元を討つことはありませんが、楽しんでいただけるとうれしいです。
これからも、よろしくお願いいたします。




