決して幸福では無い婚儀
オルテナ暦1361年――
世界の最南に位置するバレバ島と、それに連なる複数の島々の一帯を保有地とする国家フォルドナ、穏やかな気候に恵まれ、商業国家として発展したこの国の王都、アルデアの荘厳なる聖堂で数多くの兵士や、大臣達に見守られる中……純白の花嫁衣装を纏った長い黒髪の美しい少女が、赤い絨毯の上を己の父に手を引かれ、ゆっくりと歩いていた。
先にいる純白のタキシードに身を包んだ端正な顔立ちの男は、笑みを浮かべ、花嫁の姿を見つめている。だが、本来ならば、幸せの最中にいる筈の花嫁の表情は、幸せの絶頂とは程遠い無表情であった。手を引く花嫁の父―フォルドナの国王―もまた、何かを耐えるような表情を浮かべている。
しかし、それは国王だけではない。
傍らに並ぶ兵士達や、大臣達もまた、耐え忍ぶような表情をしており、中には悔しげに唇を噛む者さえいた。
その中に、殊更怒りと悔しさをエバーグリーンの瞳に滲ませた金髪の少年がいた。少年の名前はジェン、年齢は17歳、身長は173cm、美少年といった容貌ではないが、可愛らしい顔立ちをしており、やや癖のある短髪と、小麦色に焼けた健康的な肌に白い歯が印象的な少年である。
簡素な鎧を身につけた少年の立ち位置は数多くいる兵士達の中でも後方な為、その表情に気付く者は殆どいない。唯一気付いているのはジェンの隣に立つレバンスという名の青年だけであった。彼は茶髪に赤茶の瞳の青年で、ジェンより三つ程年上であった。垂れ目気味の瞳が年齢よりもやや下に見られがちなだけの普通の青年である。
そんなレバンスは花嫁や花婿には目もくれず、ジェンが悔しげに唇を噛む姿を不安げな面持ちで見つめていた。
ジェンは己を心配するレバンスにも気付かず、人生の無情さを呪っていた。人生の無情さを呪い、怒り、悲しみ、そして……それは花嫁が花婿の元へと辿り着き、手を取った瞬間に爆発した。
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
突如叫び声を上げ、聖堂を飛び出す少年に誰もが振り返る。唐突に起こった出来事に皆が皆呆然とし、聖堂内は奇妙な静寂に包まれた。
しかし、ジェンを追い掛け、レバンスまでもが飛び出して行った事で、静まり返っていた聖堂内がざわめき始める。無表情を保っていた花嫁さえ、開かれた扉を不安げな面持ちで見ていた。その状況に不満を持ったのは、他でもない花婿である。花婿は花嫁の手を引き、自らの腕の中に閉じ込めた。
「静粛に!!」
表情をキリリと引き締めた花婿が放った、耳触りの良いテノールの声が、響き渡る。途端再び静まり返る聖堂内を、悠然と見回し、花婿は満足げに微笑んだ。
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聖堂を飛び出し、全速力で駆けるジェンをレバンスが追い掛ける。レバンスが幾度となく呼び止めるが、ジェンが動きを止める事はない。それどころか複雑に入り組んだ路地に入り込み、振り切ろうとする始末だ。まるで鬼ごっこのようである。
最初の方こそ走りながら声を掛けていたレバンスだったが、ジェンが止まる気がない事を悟った後は、体力の温存の為に走る事に集中し、声を出さなくなった。何故なら、いくら簡素とはいえ、レバンスも鎧を着ている。鎧を着用している状態での全力疾走は、著しく体力を削られるのだ。
しかし、それはジェンも同じであろうに、ジェンは疲れを知らぬかの如く、ハイペースで走り続けている。
(ヤバいな……こりゃ振り切られるか……?)
レバンスが諦めかけたその時……意外な形でその鬼ごっこは終結を迎えた。
「…………っ、もう逃げられないぞっ」
レバンスが息も絶え絶えに声を絞り出す。立ち止まったジェンの眼前には、2mを越える壁が立ち塞がっていた。これを簡単に飛び越える事は不可能であろう。
ジェンは諦めたかのように、地面へと膝をついた。路地裏に二人の荒い吐息が響く。
「おっ、……ゲホッ、ゲッ、ハッ」
疲れ知らずな走りを見せていたジェンであったが、やはりかなり無理をしていたようだ。何度も声を出そうとしては、噎せている。
「おい……大丈夫か……?」
そんなジェンの姿に先に息を整えたレバンスが後ろから声を掛け、肩に手を置く。
「お前の辛い気持ちは分かるけど……」
「…………っ、お前に分かってたまるかよっ!!」
肩に置かれたその手を振り払い、ジェンは勢いよく立ち上がった。
「お前に……お前に分かる訳……」
振り絞るような声を出すジェンの瞳には、涙が溜まっている。余りにも痛ましいその姿に、掛ける言葉を失う。
「なんで……なんであいつなんだよ……」
ジェンは俯きながら、拳を握り締めた。
「なんであいつが犠牲にならなきゃならないんだよ……どうして……」
言わせるがままになっていたレバンスだったが、ジェンの犠牲という言葉を耳にし、意を決したように重い口を開いた。
「それは……アーシャファルナ様が……王女だからだ……」
アーシャファルナとはフォルドナ王国の第一王女、件の花嫁の名だ。腰まで伸びた長い黒髪に、ホリゾンブルーの瞳を持ち、外見は如何にもおしとやかな美少女といった風だが、国政に関わり意見を纏め上げたり、一般兵と共に剣の稽古をする等、外見にそぐわぬ利発で活発な少女である。
彼女の名前が出た瞬間、ジェンの瞳が目に見えて分かる程に揺らいだ。それにも構わず、レバンスは尚も言葉を続ける。
「半年前ダルナシアに攻め込まれた事で、この国は酷く疲弊した」
ダルナシアはフォルドナより遥か西の海の向こうにある軍事国家だ。国としての規模はフォルドナと同等ながらも、国民の大半が軍隊に所属している程、軍事的に力を入れている。その反面、農業や商業は殆ど発展しておらず、だからこそ小国ながらも商業国家として発展しており、穏やかな気候により、農業にも盛んなフォルドナを狙っているのだ。実に半年程前にも戦争を仕掛けられており、勝利はしたが、国力の低下は免れなかった。国力の早期回復の為にもバディスと手を組まなければ、次にダルナシアに攻め込まれた時、フォルドナは恐らく耐えられないだろう。
「またいつダルナシアが攻めてくるか分からない……国力が回復するまでバディスに守って貰うしかこの国に生き残る道は……」
「分かってる!!」
レバンスの科白を遮り、ジェンは声を張り上げた。
「アーシャは一人娘だから、いずれ他国から婿を向かいいれる。そんな事は分かってた……」
やるせなさからなのか、ジェンの言葉から先程の勢いがなくなる。
「けど……なんで……なんで、よりにもよってグレヴァルドなんだ……なんで……」
――グレヴァルド・アルム・バディス――
バディス帝国皇帝ダノスギリア・ガイン・バディスの息子にして、第三皇子。金髪赤目の細身の美男子で、智謀にも武勇にも長けた勇士である。それでいて人柄も温厚且つ誠実、と、皇族として出来すぎている位の好人物である為、民からも絶大な支持を得ている。だが、ジェンは知っていた。その姿はあくまでもグレヴァルドの表面上の姿、仮の姿に過ぎない事を。実際は他者を踏みつける事すら厭わない、冷酷な本性を持つ男だという事を、ジェンは知っていたのだ。
「大体手を組むならユージェルだって、ゲルカトだって良かった筈だ……どうしてわざわざ帝国なんかと……」
心底憎々しいと言わんばかりに、顔を歪めるジェン。そんなジェンの姿を見て、レバンスの胸も痛んだ。
レバンスはジェンがグレヴァルドを憎む理由を知っていた。その理由を知っているからこそ、何も力になれない自分が歯痒かった。しかし、それと同時に今のジェンを諭してやる事が出来るのは、自分だけだとも思っている。
軽く息を吸い込み、レバンスは会話を続ける。
「ユージェルは現在後継である王子が行方知れずでゴタゴタしてるし、ゲルカトはあの風潮だ。今のフォルドナとの同盟を受け入れるとは思えない。それに……」
「それに……? それになんだよ?」
半端なところで話を切ったレバンスに、続きを話すようジェンは促した。
「…………………………」
「なぁ、何が言いたいんだよ?」
尚も答えないレバンスに、ジェンは苛立ったように言葉を投げかける。
「言いたい事があるならはっきり……」
「そうでなかったとしても、フォルドナはバディスと組むしかなかった筈だ」
レバンスの言葉に応えるかの如く、路地裏に一陣の風が吹き抜けた。
「それは…………どういう意味だ……?」
ジェンの訝しげに問う声が震えている。動揺するジェンに対し、レバンスは至極落ち着いた様子であった。
「バディスは諸国で随一の大国、他のどの国と手を組むよりも安全だ……寧ろ他の国と手を組んで何か画策していると疑われる方が怖い……」
そこで一度言葉を切り、レバンスはジェンの様子をチラリと窺うが、ジェンは静寂を保っており、その表情からは感情は読めなかった。先程までとは様子が違うジェンに、内心で首を傾げつつも、話を続ける。
「ましてユージェルとゲルカトは同盟を結んでいる。フォルドナまで同盟を結んだら…………帝国からしてみれば面白くない筈だ……」
首を緩く横に振り、レバンスは溜め息を吐いた。
「ダルナシアへの牽制だとしても、バディスから睨まれたら意味ないだろ? どうしようもないんだよ……」
話し終えたレバンスはジェンの反応を見る。ジェンは激昂していたのが、嘘かのように落ち着きを払っていた。
「随分……落ち着いてるんだな……」
先程抱いた疑問をレバンスは、口にする。そんなレバンスにジェンは自嘲の笑みを漏らした。
「なんか…………落ち着いたってか、少し冷静になった……」
ジェンは天を仰いだ。路地に差し込む日の光を眺め、眩しさから目を細めれば、なんとも言えない苦い気持ちが胸にこみ上げる。
「昨日の夜さ、アーシャと話したんだ」
「!」
「全部捨ててどこか遠くへ逃げようって言ったけど、断られたよ」
ゆっくりと壁へともたれかかり、ジェンは目元を手の甲で覆う。その頬に隠し切れない涙が伝った。
「当たり前だよな……アーシャとおれじゃ背負うものの重さが違う」
「ジェン…………」
語るジェンを、レバンスが切なげに呼んだ瞬間……
カーン……カーン……
聖堂の鐘が鳴り響いた。
「あ…………」
「終わった……みたいだな……」
それは婚姻式の終わりの合図だった。その瞬間、堰を切ったようにジェンの瞳から大粒の涙が、ボロボロと零れ落ちる。
「好きだった……大好きだったんだ……」
嗚咽を漏らしながら、ジェンは己の思いを訴える。
「身分違いだって分かってても……それでも……好きだった……」
ジェンの話をレバンスは黙ったまま聞いていた。路地裏には暫くの間、少年の嗚咽混じりの声だけが、響いていた。
ジェンとて本当は気付いていた。憤っても仕方の無い事を。けれど、達観して全てを諦められる程、大人では無かった。唯、それだけの話なのだ。
思いの丈を全て告げ、一頻り泣いた後、ジェンは乱暴に涙を拭った。
「ごめんな……レバンス……」
レバンスを見遣り、ジェンは謝罪を口にする。
「酷い八つ当たりだった……お前は心配してくれたのに……」
それはジェンの素直な気持ちだった。その言葉にレバンスは一瞬だけ目を瞠った後、苦笑を浮かべる。
「お前が八つ当たりしたくなる気持ちは分かるからな…………気にするな」
「レバンス…………」
「それに、吐き出してすっきりしただろ?」
「それは…………」
レバンスの問いにジェンは、思考を巡らせる。確かにレバンスの言う通り、溜め込んでいた時の鬱々とした感情が完全とは言えないが、消え去っていた。
「おれ…………」
「色々溜め込んでるとさ、苦しいだろ? お前はそれが爆発しただけだ。だから気にする事ないんだよ」
レバンスはぐしゃぐしゃと、ジェンの頭を乱暴に撫ぜる。
「レバンス…………」
「ん?」
「ありがとうな…………」
ジェンが口にした感謝の言葉に、レバンスは一瞬静止し、そして………………腹を抱えて笑い始めた。
「レ、レバンス……?」
突然レバンスが笑い出した事に、ジェンは困惑の声を上げる。
「ぶっぶふふ……わ、悪い……でも、お前……」
「なんだよ?」
「か、髪の毛、爆発してるっ」
「!!!!!!!!!!!!」
ジェンは慌てて頭を抑えた。
「んなっ、髪の毛爆発って……レバンスがやったんだろっ!」
髪の毛を手櫛で整えつつ、ジェンはレバンスを責める。
「いや~、悪い悪い……ぷぷぷっ」
「笑うなよ! あ~もう、なかなか直んないし……」
元々やや癖毛なせいで、一房だけ妙な方向に跳ねた髪の毛が上手く纏まらず、ジェンは辟易する。
「くくく……」
「笑ってないで直すの手伝えよっ」
「分かった分かった、手伝ってやるよ」
ニヤニヤとにやついたレバンスは、更にジェンの髪の毛をグチャグチャにかき混ぜた。
「あっ~!!!!!!!!!!」
「あははははっ!!」
レバンスは大きな声で笑いながら、怒るジェンから逃げ出した。
ジェンは分かっていた。レバンスがわざと己を怒らせた事を。胸に残る痛みはまだ消えてはいない。けれど、ふざけあっている時は忘れる事が出来る。だからこそレバンスは、わざとふざけてジェンを怒らせたのだ。
逃げるレバンスを追い掛け回すジェンは、そんな優しさに胸を打たれながら、最後に一滴だけ涙を流した。
空に浮かぶ燃えるような夕日が、流した涙をキラキラと反射させた……。