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2.第四章 サーレン②

 2.第四章 サーレン②



「ここだ……」

 サーレンは村に戻り、寺の住職リーが夜中寝泊まりしている部屋の近く、本堂の裏手玄関の扉をたたいた。

「はい。どなたでしょうか」

 ほどなくして中からリーの声が聞こえる。よかった。まだ起きていたらしい。

「サーレンです。ここを開けてください」

「え? サーレンくん? わかりました。少し待ってください」

 ほどなくして玄関の引き戸が開かれる。中から、今日の夕方と同じ格好をしたリーが現れた。

「こんな夜中に訪問してすみません……。けど、他に頼れる人がいなくて」

「いえ、ぼくはまだこれから眠ろうとしていたところですから、問題ありませんよ」

 リーはサーレンの後ろにいるメイファンに視線を向ける。そしてその姿を見て、何かを察した様子で「わかりました。二人とも中に入ってください」と二人を招き入れる。

「で、どういった要件ですか」

「この子に合う靴をもらえませんか」

 ここまでの砂利道を歩く途中、メイファンはずっと苦悶の表情を見せていた。これからの逃亡生活において、素足でメイファンを歩かせ続けるというのは無茶な話だ。家に取りに帰るというのも考えたが、万が一にでも家族に目撃されるリスクを冒したくはない。

「わかりました。そこの箱にたくさん入っているので、一番合ったものを持っていって構いませんよ。それと、サーレンくん。その間にちょっとぼくと話をしましょう」

 そしてサーレンはわきの部屋へと連れて行かれる。そこは机と布団だけが置かれた簡素な部屋だ。リーの自室なのだろうか。

 サーレンとリーは向かい合って正座する。夕方とは比べ物にならない居心地の悪さだ。

「君が何をしたかは大体想像がつきますし、具体的なところは聞きません。とりあえず言っておきたいのは、ここの寺はチャン家から多くの金を出資してもらっている以上、君たちをかくまうことはできないということです。もちろん今君たちがやってきたことはチャンにも言いませんが、夜明けより前には出て行ってもらいます。君も、もし捕まってもぼくの協力に関してはほんの少しでもほのめかしてはいけませんよ」

 サーレンは黙ってうなずく。どうやらリーは今の状況に概ね察しがついているらしい。

朝になって事がしれれば、チャンは確実に徹底的に村中を調べ上げるだろう。隠れられる場所なんてないと思ったほうがいい。朝までには、この村から逃げ出すのは最低条件だ。

この寺を頼ったことがばれれば、リーだって無事では済まない。サーレンとしては、なるべく他人に迷惑はかけたくない。

「この村には、もう二度と帰ってこないつもりですか」

サーレンはまたもうなずく。僕はメイファンと生きることを決めた。そのためにこれまで持っていたすべてを捨てる決意は、すでにしているのだ。

「そう、ですか……」

 リーは立ち上がり、向こうの部屋から何やら巾着袋を持ってきた。

 中にはたくさんの金が入っていた。数えてはいないが、サーレンの家族全員が一か月暮らせるほどはあるだろう。

「これは……?」

「君のご両親が、もし君に危機が迫った時のために貯めておいたお金です。君があの家を継ぐか、結婚して家を出ることになった時に渡すつもりだったようです。もう村に帰ってこないのであれば、このお金を持って出るべきでしょう」

 サーレンは手に持った金の重さとともに、とてつもない罪悪感を感じる。両親は苦しい生活の中切り詰めて、自分のために金を作ってくれていたのだ。なのにこんな裏切る形で生活を終わらせてしまった。

「ありがとう、ございます」

「お礼ならぼくじゃなくて君のご両親に言ってください。最後に、確認しておきたいのですが、あの子が万が一死んでしまった場合、君のもとには何も残りません。それでも、後悔しないと断言できますか」

「はい。後悔しません。僕はそんなことよりも、あの子を見捨てて一生後悔するほうが、よほど辛いと思います」

 もしも彼女を放置して、これまで通りの暮らしを送っていたら。きっと自分は永遠にメイファンのことを忘れられず、一生後悔し続けていたことだろう。

 たとえメイファンが死んですべてを失った後も、あのまま見殺しにするよりはましだったと、そう思えるに違いない。

「わかりました。いちおう言っておくと、あの子には、なるべく甘いものや米や麦などを食べさせないようにしたほうがいいと思います。それともし彼女の体調があまりにも悪くなったら、薬屋でガレガソウという花を買って飲ませてください」

 よくわからないが、リーは何やら真剣そうな表情でいうので、サーレンは今リーが言ったことをしっかりと心にとどめておくことに決めた。

「これ以上ぼくからはこれ以上何も言いません。最後に、くれぐれもお気をつけて」

 そうしてリーは目を閉じる。サーレンは何も言わずに立ち上がって、リーに向かって一礼したのち、部屋を出た。

「メイファン。靴選べた?」

「うん。大丈夫」

 サーレンが問うとメイファンは足にはいた靴を見せてきた。どうやらサイズがぴったり合うものがあったらしい。

「じゃあ、行こうか」

 朝になるまではまだまだ時間があるが、それまでに少しでも遠くに逃げてしまいたい。サーレンはメイファンの手を引いて、リーの家を出た。

「どこへ向かうの?」

「とりあえず、町に出ようと思う」

 西へいくつかの山を超えながら半日ほど歩いたところに、そこそこ大きな町がある。サーレンはかつて父に一度だけ連れていたことがあり、その場所は今もはっきりと覚えていた。そこに行けば隠れるのも容易だし、なによりほかの町に行く選択肢も出てくる。

 そうしてサーレンはメイファンを連れて歩き出す。メイファンは驚くほど体力がなく、歩いているだけですぐに息を切らせてしまっていた。

「サーレン。疲れた」

 メイファンがいう。仕方ない。できれば最初の夜のうちになるべく離れたかったのだが、メイファンの体調が一番大事なのだ。ここはいったん休もう。

 メイファンを倒れた樹に座らせ、水を飲ませる。メイファンの額や腕には、汗が多量に流れていた。しかし暑くて汗をかいたという様子ではない。冷や汗といったほうが正確だろうか。

 せっかくなので、サーレンはメイファンと話すことにした。

「メイファンは、いつからあの牢の中にいたの?」

「はっきりとは覚えてないけれど、五つくらいかな……。外に出るのはそれから初めて」

「え、君今いくつ?」

「たぶん十五」

 ずっと地下にいたから正確な日付がわからないらしい。十年以上もの間ずっとあの暗くて狭い地下室で過ごしてきたというのか。

「それ以来、一度も外には出てないの?」

「そう。私たちはずっと、あの地下で出荷される時を待ってたの」

 なんてことだ。自分たちの住んでいた村の隅で、そんなひどいことが行われていたとは。

「昨日、あなたたちが私の牢の前に来たときは、あなたたちの姿が輝いて見えた。悪そうなチャンとも、それにこき使われている人たちとも違う。私が初めてであった人。その中でも、あなたは一番輝いてた。……あなたは、何者なの? どうして私を連れだしたりしたの?」

 メイファンが真摯な目でサーレンをじっと見つめてくる。サーレンはそれにどう答えたものか迷った末、飾らず素直な言葉を投げかけることに決めた。

「別に。僕はただのあの村の人間だよ。あの日、僕は君の姿を見て、助けなくちゃって思った。だから助けた。変、かな……?」

「変よ。そんな人これまで一度も見たことも聞いたこともないわ」

「そうだよね」

 サーレンは苦く笑う。メイファンは「けど……」と切り出す。

「だけど、うれしかった。さっきあなたが私を迎えにきたと言ったとき、やっぱり私の目に狂いはなくて、あなたは私の光なんだって思った」

「それはありがたいね。怪しんだりはしなかったの? 僕に変なことされるんじゃないかって」

「あなたの目をみて、この人はそんなことしないって、そう思ったの。それに、どうせ私は明後日には売られていくんだから、この人について行って死んだって後悔しないって。だから私はあなたの手を握ったの。……サーレン、どうしたの?」

 サーレンは伏せた顔を上げることができなかった。上げれば月明かりのしたでもはっきりわかるほどの、真っ赤になった顔を見られてしまうから

 嬉しかった。

 自分のすべてを捧げたメイファンに、こうして肯定されているのが。

 それはサーレンにとって、これまで生きてきてもっとも幸福な瞬間と断言できるものだった。

 サーレンはこの子と逃げてきてよかったと、心から思った。

 もう弟妹たちの笑顔を見ることもない、ヤーイーやリャンとばか騒ぎすることも二度とできないに違いない。

 けど、それでもかまわない。

 メイファンさえいれば、それでいい。

 かつて持っていた微かな幸せなど、メイファンと居られることによる幸福に比べれば、あっという間に消し飛ぶほど些細なものなのだ。

 それからもしばらく休んだのち、二人は再び歩き出す。途中で小さな洞窟を見つけて、二人はここで夜を明かすことに決めた。

 熊や虎が住んでいたら一大事なので、とりあえずサーレンは銃を持って穴の奥を調べてみて、どうやら何もいなさそうだということを確認し、サーレンは持参した鞄から大き目の布二枚を取り出して重ねて地面に敷く。布団とは呼べないほど簡素なものだが、ないよりはましだろう。

「メイファン。ごめんねこんなのしか用意できなくて」

「十分よ。これでもあの牢で使っていたものよりは寝心地よさそうだし」

 確かに、メイファンの牢の中にあった布団はかなり薄っぺらいものだった記憶がある。あんな布団を毎日毎日使っていたらどこか悪くしてしまいそうだ。

「まあなんかあったら呼んで。僕洞窟の前にいるから」

 洞窟の入り口横に座り心地のよさそうな岩があった。自分はそこで眠ることにしよう。

「待って。サーレンはここで寝ないの」

「うん。それは君が使っていいよ」

 サーレンはふわあとあくびをしながら洞窟の外に出ようとする。直後、袖に少しばかり抵抗を感じた。

 メイファンが指でサーレンの袖をつまんでいた。

 下手すれば気づかないうちに振り払ってしまいそうなほどの弱い力。顔を伏せたメイファンは、とても遠慮がちにサーレンに向かって「い、一緒にいて……」とつぶやく。

 サーレンはその様子を見て、一瞬で顔が真っ赤になる。

「え、でもそんなに大きな寝床じゃないし」

「私は狭くてもいいから」

 消え入りそうな声で言うメイファン。そのまま何も言わず、サーレンの用意した寝床へと寝転がる。右半分を丸ごと空けたまま。

 サーレンにここに寝ろと言わんばかりの配置だ。サーレンは鼓動を高鳴らせながらメイファンの隣に寝転がり、もう一枚の大きな布を上布団としてかぶった。

 ふわりと甘い桃のような匂いがした。やはりこれはメイファンの体臭らしい。あまりの美しさに加えて、こんなにもいい匂いを発するメイファンは、およそ奇跡の存在としか表現しようがない。

 そんなメイファンの隣で、こんな体が今にも密着しそうな場所で眠るなど、サーレンは喜びを通り越して畏れ多さすら感じた。

 同年代の女の子とこんなに近くで寝た経験など、もちろんサーレンにはない。妹や姉が近くで寝ていて、うざったいと思うことはあっても緊張感など微塵も感じるはずがない。

 普通に考えれば、こんな状況で眠りにつけるはずなどない。しかしサーレンは昼間の畑仕事に加えて、メイファンを連れ出す過程であまりにも疲弊してしまっており、眠気がやってくるまでにそう時間はかからなかった。

 サーレンは薄れゆく意識のなかで、寝返りをうったメイファンの寝顔を見る。

 目を閉じた姿も、この世のものとは思えないほど可憐で。サーレンはメイファンが今自分の隣で寝ていることが、まだほんの少しだけ信じられずにいた。

 しかしこのメイファンの体から発される熱は間違いなく人間のそれで、サーレンは夢ならどうか冷めないでほしいと願いながら眠りについた。

 


 朝日の差し込む洞窟。サーレンは鳥の鳴き声で目を覚ました。

「おはよう」

 メイファンはすでに布団から出ていて、そこに座りじっとサーレンのほうを見ていた。ずっと寝顔を見ていたのだろうか。僕の寝顔なんて見て何が楽しいのか。

 ぐっすりと眠ってはっきりした頭で、もう一度サーレンはメイファンの姿を見る。

 その美しすぎる姿は紛れもなくサーレンの目の前にあって、昨夜の出来事が夢ではなかったことを思い知る。

「さっそくだけど、行こうか」

 そのサーレンの言葉に、メイファンはにっこりと笑って「うん」と呟いた。

 洞窟から出たメイファンは、そのまぶしさに顔を曇らせる。十年以上日光に当たっていなかったらしいから当然か。いきなりこんな強い日差しを浴びるのは確かに辛いだろう。サーレンは一枚頭巾を渡して、メイファンにかぶらせた

 二人は道を歩きながら持っていた食料を食べる。どういうわけか甘いものや穀物の類はだめだとリーに言われていたので、それらは避けてメイファンに手渡す。

 食料はもうすぐ尽きるが、この調子なら夕方には町にたどり着けそうだ。

 メイファンがすぐにばててしまったときはどうなるかと危惧したが、案外頑張ってくれているようだった。馬を連れて来れば楽だったのかもしれないが、あまりにも痕跡を残しすぎるのでそれはできない。

 今考えなければならないのは、町にたどり着いた後のことだ。チャン家の連中はどんなに遅く見積もっても、すでにメイファンがいないことに気付いているだろう。まず村を捜索して、それから今から自分たちが向かおうとしている町にも追手が来るはずだ。そう考えると、村にたどり着いてもあまり長居はできない。メイファンはその容姿からあまりにも目立つので、うまく隠していかないと町から逃げ出したあとも簡単に追跡されてしまう。

 チャン家の力が及ばないほど遠くまで逃げ切ったら、メイファンと一緒に暮らしたい。

 けど、どうやって。

家から持ち出してきた金と、リーからもらった金を合わせればそれなりの額にはなる。逃亡資金としては十分だろう。しかし、当然その金もすぐに尽きる。サーレンとしてはメイファンのためなら身を粉にして働く気でいるが、果たしてそんなにうまくいくだろうか。

 また小作農に戻るのだけは嫌だ。メイファンにあんな生活をさせるわけにはいかない。

 正直なところ、見通しが甘かったのは事実だ。それよりも一刻も早くメイファンを連れ出さなければという想いのほうが先行してしまった。とは言ったものの、あと二日メイファンを連れ出すのが遅れていれば手遅れだったこともまた事実なのである。サーレンは頭を悩ませる。

「サーレン。サーレン! 聞いてるの?」

 メイファンが大きな声で呼びかけてくる。しまった。つい考え事をしていてメイファンに呼びかけられたことに気付かなかった。

「ああ、ごめんね。どうしたの?」

「サーレンの村の話、もっと聞かせて」

「うん。わかったよ」

 そしてサーレンはかつての暮らしのことを、今はもう捨ててしまったあの暮らしのことを、もう戻れないあの暮らしのことをメイファンに語った。

 家族のこと、農作業のこと、そして悪友二人のこと。

 メイファンは特にリャンとヤーイーの話に興味を持った。メイファンには当然友達など一人もいたことはなく、遊ぶという感覚もいまひとつ理解できないらしい。

 そして自分は二人に連れられてチャンの屋敷に行き、メイファンと出会った話をする。

「あ……。じゃああの顔を隠していた二人が」

「そう。あれがリャンとヤーイーだよ」

「すっごく仲よさそうだった。あんな友達がいたら楽しいだろうなあって」

「まあね。楽しかったよ。なかなか」

 サーレンは二人の特徴を語る。

 リャンはみんなのまとめ役で、頭脳明晰。知識も豊富だ。どんな時も冷静に僕らのことを助けてくれる。

 ヤーイーは盛り上げ役かな。僕らが落ち込んでいるときも、熱心に元気づけてくれるんだ。そしてとっても強い面もあって、大切な人のために苦しい思いだってしてみせる、そういう子なんだよ。

 二人のことを語り終えたとき、サーレンは自分の頬を涙が伝っていることに気付いた。

「あれ……? なんだろ。ごめんね」

 慌ててサーレンは涙をぬぐう。メイファンは「サーレン……」と何やら少しばかり悲しそうに呟いた。

「ごめんごめん。行こうか」

「……サーレンは、やっぱりその二人と一緒にいたかった?」

「それはそうだけど、けど僕にとってはメイファンと一緒にいることのほうが大事なんだよ」

「じゃあ、私がその二人の代わりになる。だから」

 メイファンはサーレンの顔に触れ、少しばかり残った涙の痕を拭き取った。

「だから、泣かないで」

 その言葉を聞いて、サーレンは気まずさと嬉しさが入り混じった笑顔を作る。

「ありがとう。けど無理しなくていいよ。君はあの二人の代わりにはなれないけど、あの二人も君の代わりにはなれない。僕はそんな中で君を選んだ。だからそれでいいんだよ。メイファンが気負う必要なんてない」

 サーレンは気を取り直して、一生懸命元気な声で「さあ! 行くよ!」と叫んだ。

 まったく。僕はメイファンを守るために連れ出してきたのに、これじゃあメイファンに助けられてどうするんだよ。

 そこから先はあまり言葉を交わすことなく二人は歩く。そして何度も休憩をはさみながら歩き続け、陽が傾き始めたころ、ようやくそれがサーレンの視界に飛び込んできた。

「あれだ……っ!」

 この山を下ったところに広がる町。あれこそがサーレンが最初の目的地としていた場所だ。

 さらにしばらく歩いて、ようやく二人は町へと到着する。サーレンの予想通り、陽はすでに傾き始めていた。

 サーレンもそれなりに疲れたが、メイファンはそれ以上にかなり疲弊してしまってるようだった。無理もない。ずっとろくに運動してこなかった子がこんな長い距離歩かされたのだから。

「ごめんね。たぶんこれからはそんなつらい思いさせずに済むと思うから」

 ここからさらに逃げる時には馬を買いたい。そうすればメイファンをここまで疲弊させてしまうことはないだろう。

「とりあえず、ごはん食べよう」

 サーレンは人通りの多い中央の大通りを避けて町に入る。しかしそれでもすれ違う人たちの目にメイファンの姿は止まってしまうらしく、皆が振り返って二度見していた。

 やはりメイファンほどの容姿であれば道行く人たちの記憶に留まってしまう。この町に追っ手が来るのはそう先のことではないと思われる以上、なるべく目につくわけにはいかない。

 サーレンは近くにあった、あまり人気のない飲食店に入る。中は普通の家屋を改装して食堂を作ったかのような内装だ。なるべくほかの客から見えないテーブルの、奥の席にメイファンを座らせ、自分はその向かいに座る。店の中が薄暗いのは幸いだ。

 学校に行っていないサーレンは品書きを読むのにも苦労したが、なんとか店主からの高騰の説明にも助けられ、無事注文を済ませることができた。

 この店の商品はどれも驚くほど高かった。しかしこれ以上町をうろついて安い店を探すのは危険なような気もする。それに、別段この店の値段設定がおかしいのではなく、これまで赤品生活を送ってきたサーレンだから高いと感じるのかもしれない。もしそうだとしたら、思っていたより早く金が尽きそうだ。

 運ばれてきた料理を食べていると、後ろの机に座る男たちの会話がサーレンの耳に入ってきた。

「お前さ、あっちの村の、チャンっていう地主知ってるか?」

「ああ、わかるけど。それがどうかしたのか?」

 何気なく耳に入れただけの会話だったが、サーレンはこれを注意深く聞くことに決めた。

「昨日の夜、あの家が売っていた商品が盗まれたらしいんだよ」

 サーレンはそれを聞いて鼓動が恐怖で高鳴るのを感じる。もしかしてこの男たちは追っ手で、あえてサーレン達を怖がらせて楽しむために今こんな会話をしているのではないかなどという、悪い想像が頭をもたげてくる。

「へえ。商品ってなに」

桃娘トウニャンって聞いたことがあるか?」

 桃娘。その聞きなれないワードが聞こえた瞬間、メイファンの顔がこわばる。かたかたと手を震わせ始めた。

「知らん。なんだそれ」

「裏で売られている娼婦のことだ。幼い頃から桃だけを食べさせて育てるんだ。すると体臭や尿に汗なんかも、すべて桃の甘い香りがするようになるらしい。で、ある程度育てたらそいつを売り払う」

「へえ。だけど桃だけ食べて育ったような子供が生きていられるのか?」

「もちろん無理だ。なんでもディアベテス? そう西洋で呼ばれている病気になるらしい。売られる頃にはもう長くなく、ほとんどが初めての性交に耐えられず息絶えるんだそうだ」

「おいおい。使い捨てかよ。そんなのが売れるのか?」

「そりゃあもう。死んだあとはその肉を食べるんだそうだ。普通の性の悦びは味わい尽くした大金持ちの年寄りが主な客で、普通の娼婦が何千人も買えるくらいの値段らしい。それを売り始めて以来、チャン家はかなり大きくなった。だけど、史上最も高い値のついた桃娘が、明日出荷というところで連れ去られて、チャンも大損したと聞いている」

「ははっ。自業自得じゃねえの。けど羨ましい話だ。おれも一度桃娘ってやつとヤってみたいもんだぜ」

「そのためには大金持ちにならないとな」

「そうだな。けど夢くらい見てもいいじゃねえかよ。あ、そうだ。お前今日もう一軒いかねえか。向こうの店で新しい酒が入ったらしいぞ」

「いいな。行くか」

 そして男たちはガハハと笑い声をあげながら、店を出て行った。

「…………」

「…………」

 サーレンとメイファンは、お互い何も言えずにただ固まる。

 メイファンはその目を闇に染めて、ただ何もせず自分の手を凝視していた。

「……メイファン。食べないの?」

「ごめんなさい。もう喉を通りそうになくて」

 メイファンがこれ以上食べられないというなら仕方ない。サーレンは勘定を済ませて、メイファンを連れて店を出た。

「宿を探そう。今日は、もう疲れた」

 そして近くにある宿に入った。これも少々値が張ったが仕方がない。

 二階建ての大き目の屋敷の二階、その一角。それがサーレンの借りた部屋だった。

 中は横はサーレンの身長二つ分、奥行きはサーレンの身長三つ分程度の手狭な部屋。しかし二人なら問題ないだろう。いつか、メイファンにはもっと広い部屋に住ませてあげたい。そう思っていたのだが。

 しかし、それはどうやら叶わぬ夢らしい。

 部屋に先に入ったメイファンは、サーレンと目を合わさずじっと外の景色を眺めていた。サーレンは何も言えずに、ただそんなメイファンを見つめることしかできない。

 どのくらいの時間が経っただろうか。陽がすっかり沈み、微かな部屋の明かりでしか周囲を見ることができなくなった頃、メイファンこちらに向き直り、大きく息を吸った。

「さっきの人たちが言ってたのは、全部本当のことよ。私は桃娘。あの地下牢にいる間、毎日桃だけを食べて育てられてきたの」

 メイファンは、はっきりとそういった。

 信じられなかった。信じたくなかった。ほんの少し前まで、サーレンの思い過ごしであり、桃娘の話とメイファンは何の関係もないと思いたかった。

 だが、その幻想はたった今、メイファンの言葉によって打ち砕かれる。

 そうだったのだ。リャンの推測は正しかった。あの地下では少女たちに桃娘という付加価値をつけて相当高い値段で金持ちに売っていた。それ故にチャン家はあそこまで金持ちになることができたのだ。

「サーレンは、気づいた? 周りの牢屋にいる子が、私よりみんな幼かったことに」

「うん……。それはそうだなあと思ってた」

「あれはね。私は桃娘として『熟す』のがとても遅かったから。桃娘は、汗も、体のにおいも、そして尿もすべて桃の香りになったら、『熟した』と判断されて出荷されるの。そうなったら急いで売らないと、死んじゃうから」

 その言葉に、サーレンは経っていることができないほどの衝撃を受け、思わず床に膝をついてしまう。

「つまり、それはつまり……」

「そう。今サーレンの思ってる通りだと思う」

 ただ茫然とメイファンの顔を見上げるサーレン。メイファンは真実を、現実を告げた。

 それは知りたかったことで、だけどもそれ以外の思考の逃げ道はなくて。

 これを聞いたら、僕はおかしくなる。そう確信しながらも、サーレンは耳をふさぐことすらできなかった。


「私はもうすぐ死ぬの」


 静かな部屋にメイファンの発した音がはなたれ、そして消える。

 しかしその言葉がサーレンの中で反響し、ひたすらにサーレンの心を抉っていく。

「そんな……。そんな……」

 僕はもっとメイファンと過ごしたかった。

 ずっと一緒にいて、いろんなことをしたかった。

 なのに、そんなささやかな願いすら叶いそうにないのだ。

 別れなんて、ずっとずっと先のことだと思っていた。

 だけどそれは、そう遠くない未来に迫っているのだ。

「黙っててごめんなさい。言う機会がなくて……」

「メイファンが謝ることなんてないよ。その結果、僕が悲しんだって、それは僕の責任なんだから。メイファンを責めることなんてできない」

 そうか。サーレンはリーの言葉を思い出す。

『最後に、確認しておきたいのですが、あの子が万が一死んでしまった場合、君のもとには何も残りません。それでも、後悔しないと断言できますか』

 きっと、リーはチャン家の事情を知っていたのだ。昨夜家の玄関でメイファンを見た段階で、リーはおそらくメイファンが先長くないことを知っていたんだ。

 そしてサーレンは後悔しないと言い切った。あの時はまさかメイファンがすぐに死んでしまう可能性なんて、頭の片隅にもなかったのだ。

 だが。

「それでも、僕は君を連れて出たことを後悔はしない」

 あのチャン家を出てから今までの間だけでも、サーレンは沢山の幸せをメイファンからもらっている。これだけでも、あの生活を捨てるだけの価値はあったと思ってる。

「メイファン……っ」

 サーレンは立ち上がってメイファンの体を抱きしめる。

 もうすぐこの体のぬくもりは失われ、冷たくなってしまう。そう思うと、サーレンは頭がおかしくなりそうになる。この桃の香りはこの子の体の悲鳴なんだ。そう思うと、とてもじゃないがいいにおいなどと思うことはできなかった。

 そう。僕はこの子のためにすべてを捨てた。そしてこの子を失った僕には何も残らない。

 だったら、この思い出が褪せてしまう前に、僕も死のう。

 そう、思った。

 このまま役人などに顔を見られることなくメイファンの最期まで逃げ切れば、平然と村に戻ることはできるかもしれない。チャン家や近所の人間には、適当に道に迷っただの穴に落ちていただの言い訳すればいい。リーも黙っていてくれるだろうし、またあのそこそこ幸せな暮らしに戻ることはできるはずだ。

 だが、それではだめなのだ。

 この子との思い出を永遠にしたい。それを別の小さな幸せで汚すなど、とんでもない。

 メイファンのいない世界など、僕にとっては価値なんてない。

 サーレンはずっと抱きしめ続けていたメイファンの体を解放したのち、ふとリーの言葉を思い出す。

『いちおう言っておくと、あの子には、なるべく甘いものや米や麦などを食べさせないようにしたほうがいいと思います。それともし彼女の体調があまりにも悪くなったら、薬屋でガレガソウという花を買って飲ませてください』

 リーがメイファンの病状を知っていたのだとすれば、この言葉にはまず間違いなくしたがったほうがいいだろう。今日は遅いから、明日になったらガレガソウとやらを買いに行こう。

 そのあとは、悲しむのをやめて、二人で明るく会話を交わした。

 メイファンは、サーレンにひとつの歌を教えてくれた。

 題は「孟姜女もうきじょ」というそうだ。

 この国が秦という名前だったころ、万里の長城という巨大な塀を建てるにあたって、人柱にされた始皇帝の妻の悲哀を描いた歌らしい。


  秦の始皇帝が築いた長城

  城壁が低く通路は狭く

  韃靼だったんの侵入を防ぎはしたが

  その後かわいい一人の夫人が

  千里の果てから夫を訪ねて

  城壁の前で泣いている

  神様と一声高く怨む涙は哀れで哀れで

  長城の端が崩れ落ちた


 メイファンはその美しい声で見事な歌を披露する。これは、母親がメイファンをチャン家に売り渡すより少し前、まだ母親と二人で暮らすことができていた時期に教えてもらった歌だそうだ。もう母親のことはほとんど記憶にないが、この歌だけは今もはっきりと覚えてる。

 メイファンの父親も嵐を鎮める人柱として娘が生まれる前に生贄にされたらしく、母親はメイファンの前でよくこの歌を歌っていたらしい。

 その後、サーレンは用を足そうと部屋を出たところで、部屋の入口付近に何やら黒い花が生けられていることに気づいた。

 ちょうど通りかかった宿の主人に訪ねてみると、これはバラという西洋の花なのだそうだ。本来は鮮やかな朱色をしているが、黒いものはかなり珍しいらしい。偶然手に入ったので、客室に置いてみたと。どうせすぐ枯れるから好きにしていいと言ってくれた。

 サーレンはメイファンの髪にその黒バラの茎を差す。メイファンの白い肌との差によって、お互いの美しさを引き立てていた。

 その後、今度こそ用を足してきたサーレンは、メイファンとともに布団にもぐる。

 布団に寝転がりながら窓の外の夜空を眺めると。そこには満月が光り輝いていた。

 自分のすぐ近くにいるメイファンの体は、今確かに温かみを持っている。

 そう遠くない未来、この体は冷たくなる。メイファンと居られる幸せも、長くは続かない。

 わかってる。

 けど、今は確かに僕は幸せだ。後の不幸を恐れるあまり、今の幸せをかみしめられなくなっていては大損である。

 サーレンはそんなことをかんがえながら、静かに目を閉じた。

 次の朝、サーレンは何やら隣でメイファンががさごそと動く音で目を覚ました。

 メイファンは布団から体を起こしており、何やら焦った様子で両目に交互に手を当てている。

「どうしたの?」

「サーレン……。どうしよう」

 メイファンは絶望しきった表情で言う。

「私の右目、見えなくなっちゃった」



 どうやら、メイファンの右目はかなりぼやけてしまっており、ろくにモノを判別できる状態ではないらしい。町医者に見せても原因はわからず、どうすることもできないといわれた。薬屋でリーの言っていたガレガソウという花の茎を使った薬を買って、メイファンに飲ませる。

 なんでも、右目がぼやけるのは何日か前から起こっていたことらしい。しかしいたのがもともと視界の悪い地下室であったため、あまりに気にならず、地下から出た後も生活に支障が出るほどではなかったので特に気にしていなかったようだ。それが、今朝になって急激に悪化した。

 部屋に帰ってきた二人。メイファンがせき込むと、何やらその口から白い塊が飛び出してくる。サーレンが拾い上げると、どうやらそれは歯らしいことが分かった。

「メイファン。口の中見せて」

 メイファンは一度拒んだが、それでも口を開かせる。メイファンの腔内はきれいな赤紫ではなく、黒ずんでおり、歯は四本もなくなっていた。

 これはひと月ほど前から出た症状らしい。週に一度ほどの間隔で、歯が抜けていく。

 長年、桃しか与えられなかったメイファンの体は、すでに限界にきているのだ。医術の知識などないサーレンにも、それははっきりとわかった。

 チャン家は少女たちにこんなにも残酷なことをしていたのだ。しかもこれはメイファンだけではない。あの牢には数十人の少女がいた。これまで出荷された子たちも含めると、かなりの人数になるはずだ。

「これ、私だけに限った話じゃないのよ。買い手がなかなか見つからなくて、ずっと檻にいたままの子は、まず歯が抜けて、目が見えなくなって、足がむくんで。ここまでは私もすでになってるけど、これからは足が腐っていって、それから……」

「もうやめて!」

 サーレンは思わず声を荒げる。

「聞きたくない……。メイファンのその先なんて、聞きたくない……」

 そのままサーレンは涙を流して崩れ落ちる。メイファンの足元で涙をこぼす。

「ご、ごめんなさい……」

 メイファンがかがみ、サーレンに向かって謝ってくる。

「いいよ。僕のほうこそ、どなってごめん」

 なんてことをしてしまったのだ。メイファンと楽しく過ごせる時間は長くない。

 なのに、メイファンに向かって声を荒げるなど問題外だ。

 夜、サーレンはメイファンが寝静まってから、残った金を数える。

 思ったよりかなり早く減ってしまっている。もう半分余りしかない。今日医者に見せるのと、薬草をかったときにかなり減ってしまった。この町で過ごせるのも、あと数日といったところか。とてもじゃないがこの金で逃亡などできそうにない。なんとかこの町で仕事を探さなければならない。身元も明かせない少年を雇ってくれるところは少ないだろうが、町の中の仕事であればそれなりに給料も高いだろう。

 明日から仕事を探しに行ったほうがよさそうだ。サーレンはそう考えながら、欠け始めた月を眺めながら眠りについた。

 次の日、メイファンの様態はかなり悪化していた。

 右目にはぼやけに加えて黒い幕のようなものが見えるようになっているらしく、さらに歯がもう一本抜けた。加えてかなりの倦怠感があるようだ。

 中でも、一番サーレンがショックを受けたのは、かかとが少し黒ずんでいることだった。メイファンの肌は白いので、黒ずみ自体は小さいもののかなり目立つ。

 メイファンの言っていることが正しいならば、これはメイファンの足が腐り始めているということだ。さらに歩くと痛むらしく、足を引きずるようになってしまった。

 メイファンの横に少しでもいたい。しかし、このままだと金が尽きてどうしようもなくなってしまう。サーレンはメイファンを置いて、町に出るべく階段を下りようとした。

「こちら、保安部の者です。実は協力していただきたいことがあって」

「あーお疲れさん。どうかしたのかい?」

 サーレンが階段と二階床の隙間から下をのぞくと、何やら宿の主人が役人らしき男二人と話しをしていた。

「実は我々はあっちの村の少年が、娼婦の少女を連れて逃げ出したと考えて捜査をしておりまして、どうかそれらしきものを見なかったかお聞かせ願いたい。貧乏そうな少年と、肌が真っ白な美しい少女です」

 そういいながら役人の男は、宿の主人に何やら数枚の紙幣を握らせる。宿の主人は、「ああ、それらしき人はいたね」と平然と言う。

「それはどの部屋ですか。調べさせてほしいのですが」

「そこの階段を上って、右に二つ目の部屋だよ。ここでことを荒げるのはやめてね」

「了解。ご協力、感謝いたします」

 役人たちはそう言って、階段に向かって歩き始めた。

まずい。宿の主人がさしているのは、明らかに僕たちのことだ。

サーレンは慌てて部屋に戻る。そして扉の前に棚を移動する。

布団に横たわるメイファンが、「どうかしたの?」と言ってきた。

「役人の追っ手が来た。今すぐ逃げよう」

 メイファンの顔がさっと青ざめる。サーレンは急いで荷物を用意した。

 とはいっても、布団なんかを持って行っている余裕はない。猟銃と鎌と、そして残った金。あとはほんのわずかな衣類を持って、サーレンはメイファンを負ぶった。

 メイファンの体は驚くほど軽かった。単に体が細いということではなく、明らかに病気でやせ細っている人間のそれだ。

 窓を開いたところで、扉の外から「あのー。保安員の者ですが」とさっきの男の声が聞こえてくる。サーレンは窓枠に足をかけ、飛び降りた。

 足に伝わる衝撃。その痛みでサーレンは思わず顔を歪める。しかしそんなことを気にしている余裕はないのだ。突然飛び降りてきたサーレンに驚く通行人を気にすることなく、サーレンはただひたすらに走った。

「いたぞ!」

 後ろから役人の声がする、が振り返らずにサーレンは走り続けた。

 走り続けて村から出て、サーレンは目の前の獣道を上る。逃げる先の宛てなどない。しかし今はとにかく逃げるしかないのだ。

「サーレン! 投降しメイファンを開放しなさい!」

 やはり彼らは僕を追ってきてたのだ。ならますます捕まるわけにはいかなかった。

 手や顔を木の枝がこすって出血しているのがわかる。だがそんなことを気にしている余裕などない。

 役人たちは徐々にサーレンとの距離を詰めてきていた。やはりちゃんと栄養を採っている人間は強い。サーレンは足だけで逃げ切るのは不可能だと判断した。

「メイファン、一旦下りて」

 メイファンを降ろして、持ってきた猟銃を構える。役人たちが反応する前に、サーレンは引き金を二回引いて、二発とも二人の足へと見事命中させた。

 サーレンはメイファンを再び背負って、走り出す。

 そしていくつもの分かれ道を経て、獣道の果てに木がない開けた場所に出る。

 そこは、幻想的な風景だった。

 草原が広がっていて、あたり一面に曼珠沙華まんじゅしゃげの花が咲き誇っている。その中央には、白い建物が建っていた。

 あの三角屋根の上に十字架が建っている造形。確か父に昔教えてもらったことがある。あれは教会と言って、寺と同じく神様を祀っているらしい。サーレンはあそこに身を隠すことに決めた。

 幸いにもカギはかかっていなかった。サーレンは扉を開いて教会の中に入る。

 中には誰もいなかった。天井の高いがらんとした少し肌寒い空間。多数の長椅子が向こうに向けて並べられており、その向こうには祭壇があった。一番奥には白い服を着た男の光る絵、その手前にはリーの寺にもあった慈母観音が置かれている。

 サーレンは床にメイファンを降ろして、座り込み苦しそうに呼吸する。サーレンは体力のあるほうではあるが、さすがに町からここまで人ひとり背負って走り続けていれば、息も切れる。

「サーレン……」

 メイファンが起き上がる。

「いいよ。わざわざ起き上がらなくて」

 メイファンはゆっくりと首を振る。そして「お願いがあるの」と言った。

「なんだい?」

 メイファンは何か思いつめた様子だった。サーレンは何かいやな予感を感じながら、その言葉を、聞いた。


「私を、殺して」


「…………っ!」

 サーレンはメイファンの口から発せられたその言葉に面食らう。

「な、なに言ってるの。メイファン。殺して、って……?」

 聞き違いであってほしかった。自分の耳がおかしくなったのだと思いたかった。

 メイファンが死のうとしてるなんて、思いたくなかった。

 しかし真実は残酷で。メイファンは黙ってうなずく。

「もう、サーレンの足手まといになりたくない」

「何言ってるんだよ。僕は君のためならどんな苦労だって苦しみじゃない」

「お金ももうほとんどないんでしょ? 昨夜悩んでたじゃない」

 見られていたのか。メイファンはもう寝ているものだと思い込んでいたが。これはとんだ不覚だ。

「私がいると、サーレンが不幸になる」

「そんなことない!」

「あるの。私なんかに出会っちゃったから、サーレンは前の暮らしを捨てたんでしょ?」

「そうだけど、メイファンは何も悪くない。むしろ、メイファンは、僕に幸せをくれた。僕に初めて、生きがいをくれたんだ……っ!」

 何も目標も生きがいもなしに生きていたかつてのサーレン。きっと僕はこの暮らしから対して変わらずに、平凡に老いて平凡に死んでいくのだと思っていた。

 だが、メイファンに出会ってからそれが一変した。

 毎日苦しくとも楽しくて、幸せで。生きている実感が得られた。

 このままメイファンに捧げる人生でいい。それでいい。サーレンは心の奥底からそう思っていた。

「それにね。サーレン」

 メイファンは自分の足に視線を向ける。

「私の体は、もう腐り始めてる。これ以上、私が醜くなるところなんて、サーレンに見られたくない。チャン家に戻されて売られて、変な男に初めてを奪われたうえ死なされるのも嫌だ。まだ綺麗なうちに、サーレンに殺されたい」

「僕はかまわないよ。美しくない君でもいい。だから」

 確かに、最初のサーレンは、あの地下室で見たメイファンの容姿に惹かれたのは否定しようがない事実だ。

「だから生きられるだけ生きていてよ」

 しかし、こうして過ごすうちに、確かにサーレンはメイファンを心の底から愛していったのも、それもまた事実なのだ。

 メイファンは首をふる。

「もう、ダメなの。言ってなかったけど、ほんとにしんどくって、体中が痛くって、右目だけじゃなくて左目もどんどんダメになっていってるのがわかる。この苦しさから、私を助けて? もう耐えられないの。なんなら、あとで飛び降りって死のうかなとも思う。けど、そんなことするよりは」

 メイファンは一度言葉を切った。そして


「それよりは、大好きな人の手で、愛してる人の手で、死なされたい」


 その言葉で、サーレンはなにも言えずに押し黙る。

 そのまま沈黙する二人。永いときが流れる。それを破ったのは、サーレンのほうだった。

「ごめんね。僕がこんなことしなければ。君を無計画に連れ出したりしなければ」

「ううん。いいの。それでも、サーレンに会えた。短い間だったけど、ほんとの夫婦みたいに過ごせた。これまでの人生で、一番幸せな瞬間だった」

「僕もだよ。君といられた時は、世界が輝いて見えた」

 メイファンといられて、幸せだった。この何日かの間だけでも、君といられただけで、僕はすべてを代償にした価値はあったと思ってる。

「サーレン。生まれ変わりって、信じてる?」

「うん。けど、僕はきっと地獄行きだね」

「そんなの、私が許さない。閻魔大王様がサーレンを苦しめようとしていたら、私が後ろから殺してやるわ」

 サーレンは「そんなことできるのかな」と苦く笑った。

「生まれ変わったら、また会いましょう。今度はこんな境遇じゃなくて、もっと私たちが一緒にずっといられる世界で」

「そうだね。きっと、いつか会えるって、そう信じよう」

颯人サーレン……」

美帆メイファン……」

 そしてお互いの目を見合わせ


「「ありがとう」」


 二人同時にそういった。

 サーレンは立ち上がり、メイファンの細い首に手をかける。メイファンは満足そうな表情でゆっくりと静かに目を閉じた。



 サーレンは泣いた。泣き続けた。

 誰もいない聖堂で、慟哭し続けた。

 声が枯れ果てても、涙は止まらなかった。

 目の前には、動かなくなったメイファンの体がある。

 白目をむくことも暴れることなく、ほんの一瞬だけ体を痙攣させたのち、メイファンの脈は漸減していき、そして消えた。

 メイファンが登仙した後も、その姿は変わらず美しかった。

 サーレンは流す涙もなくなったのち、立ち上がり、教会入口の扉を開いた。

 直後にびゅうと風が入ってきて、サーレンの髪を撫でる。外の曼珠沙華の花も、風に赤い花びらをたなびかせていた。

 空は曇っており、陽の光はあまり届かない。

 そんな空の下、サーレンは自分の手を見る。

 殺して、しまった。

 メイファンを、この手で。

 メイファンと手をつないだ、この手で。

 僕は罪人だ。地獄に堕ちて当然の人間だ。

「メイファン。君のいない世界で、生きている意味なんてないよ」

 メイファンはおそらく僕に生きてほしかったのだろう。全然知らない土地に行っても、僕一人なら確かになんとかなるかもしれない。

 けど、それじゃあ意味がないんだ。

「もうすぐ、僕もメイファンの後を追うよ」

 その後、サーレンは町に戻り、役人たちの前に姿を晒した。

 役人たちはサーレンを捕らえた。メイファンの体がまだあの山の上の教会にあることを話したら、それはこちらで回収して埋葬するということを約束してくれた。

 町ではサーレンの裁判が行われた。メイファンは籍もない人間であったこと、確かにチャン家で行われていたことはかなり残虐なものであったことから、終身刑の方向で話がまとまりそうになったが、サーレン自身が強く死刑を望んだため、死刑判決が下った。

 家族がどうなったかは知らない。一応謀反でなければ家族までは殺されないはずだが、チャン家から土地は取り上げられるだろうし、何よりチャンが裏から手をまわして刑に処される可能性もある。まあそのチャン家のほうも桃娘を育てていた門で没落する可能性もあるが。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 もうこの世界なんて、メイファンのいない世界なんて、サーレンにとって興味の持てるものではない。

 サーレンは、執行の日まで牢に入れられることになった。

 二日後の夜。窓の外の、すでに半分以上削れた月を眺めていると、牢の柵が叩かれる音が聞こえた。

 そこにいたのは、二人の人影。何やら布でできた袋をかぶっている。

「おい、サーレン。聞こえるか」

 そして二人はかぶっていた袋を脱ぐ。下から現れたのは、泣いてしまいそうなほど懐かしい顔だった。

「リャン……! ヤーイー!」

 どうやって忍び込んできたのだろうか。まあこの二人ならありえない話ではないか。サーレンという足手まといもいないわけだし。

「ヤーイーがどうしても連れて行けと」

「サーレン! どうしてあんなことしたの! ねえ!」

 叫んで責め立ててくるヤーイー。その眼は、涙で真っ赤になっていた。

「今出してあげるから、待ってて」

 ヤーイーは鉄の棒を取り出してサーレンの入っている牢を叩き始める。カギは甲高い音を鳴らしながら、少しずつ形を変えていった。

 サーレンはカギに手をかざす。メイファンの振り下ろした鉄棒が当たって、非常に痛かったが、サーレンは表情一つ変えなかった。こんな痛みなど、心の痛みに比べればなんでもない。

「サーレン! あんたなにを……!」

「帰って」

「なんで! なんでそんなこと言うの!」

「僕には助け出される資格なんてないんだ。重い重い罪を犯したんだ。罰されなくちゃいけないんだ」

 そのとき、看守が「どうかしたのか?」と言いながら戻ってくる。リャンは牢から離れようとしないヤーイーを引っ張って、その場を去った。

 再び静寂が訪れる。サーレンはまた空に浮かぶ月をじっと眺めた。

 次の朝、役人が大勢やってきて、サーレンの前に立つ。

「今日で、さようならです。執行場所は君の生まれた村、方法は絞首刑に決定しました」

 絞首刑か。生ぬるい。

 サーレンはそう思いながら立ち上がった。

 絞首刑は、一瞬で首の骨が折れて死ぬ。苦しむ暇なんてほとんどない。

 それじゃ、だめなんだ。

 僕にはもっと苦しんで死ぬ刑罰がふさわしいのに。まあいい。残った罪は、死んだあと地獄で償うことにしよう。

 そんなことを考えながら、サーレンは手を縛り付けられた状態で、あの村への道を歩いた。



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