6.第三章 ハヤト②
6.第三章 ハヤト②
冷たい風の吹く暗黒の空の下。ハヤトは白い砂の地面から、全身の痛みを感じながらゆっくりと起き上がった。
「どこだ……、ここ……」
空は真っ暗で、星一つ見えない。
ハヤトは周りを見回す。そしてなぜだか「ここは学校のグラウンド」という一点だけを認識することができた。学校の敷地の外も真っ暗で何も見えない。まるで「闇」なる存在がすぐそこまで迫っているかのようだ。
そのとき、ハヤトの背後からなにやらうめき声が聞こえる。慌てて振り返ると、そこには緑色の、巨大な黒のトカゲのような形をした、口の大きく避けた化け物が。
「う、うわぁ!」
ハヤトは立ち上がって思わず後ずさる。化け物は大きく口を開いてハヤトを威嚇する。その目線は、まっすぐハヤトの心臓へとむけられていた。
後ろを振り返って走って逃げることはできなかった。目を合わせるのをやめた瞬間、僕はこいつに食い殺される。ハヤトの直感がそう告げていた。
しかしどうすればいい。このままにらみ合っていても、じきに食い殺されるに違いない。
その時だった。
「そこどいて!」
後ろから綺麗な女の子の声が聞こえる。ハヤトが思わず横に飛びずさると、先ほどまでハヤトがいた場所に一迅の風が走り抜けた。
瞬く間に一人の少女が化け物に接近し、その剣を化け物に突き立てた。
化け物は大きな叫び声をあげて、しっぽの先から白い粒子へと変化して闇の中へと消えていった。
「大丈夫だった?」
少女はハヤトのほうを振り返って言った。
とても、綺麗な顔をした女の子だった。
「ミホ……」
ハヤトの口から、思わずそんな音が漏れた。
「あなた、私の名前を知ってるの?」
「え、合ってたの?」
なぜだか体の底から湧き上がってきた何かに従って、ほとんど無意識に言葉を漏らしただけだったのだが、どうやらこれがこの少女の名前らしい。
「どうやって知ったのかは知らないけど、私はミホ。あなたは?」
「僕は……、ハヤト」
そしてハヤトは気づく。自分は自分の名前とこの少女の名前、それ以外のことを何一つとして記憶していないのだと。
ハヤトはミホとともに校舎に入り、四階を目指して階段をのぼりながら、自分の不可解な記憶について説明する。
「自分の名前と、私の名前しか覚えてない……?」
「そうなんだよ。それ以外のことは、なにも……」
「ふうん。不可解なこともあったものね」
「ミホは、僕と会ったことはあるの?」
「私の記憶の限りではないはずなんだけど。だけど、なんとなく、どこかで会ったような、そんな気がするの」
それはハヤトも同じだった。ミホの顔には微かながら既視感がある。もしかしたら、記憶を失う前にいつかどこかで会っていたのかもしれない。
「ミホは、何者なの。ここに来る前は、どこでなにをしていたの?」
「それについては私も、後で紹介するけど私の仲間たちも覚えてないの。あなたと同じように、記憶を失った状態でここに来たの」
「じゃあ、ここが何なのかは、わからないの?」
「そうね。どこかの学校のように見えるけど、学校の外はどこもあの闇に覆われていて抜け出せないわ。ところどころに普通の学校として運用されていた形跡があるから、何らかの理由でこの学校がこの異界に取り込まれた。なんかこの学校は変な宗教を信仰していたみたいだから、その絡みかもしれないわ」
四階にたどり着いたミホは大きな鉄でできた扉を開き、ハヤトを中に招き入れる。そしてハヤトを連れて、ここでの生活のルールを説明しながら、そのあいまに先ほどの考察の続きを語りだした。
「伝承だと、よくあるのは、邪教の『儀式の失敗』というパターンね。定期的に生贄をささげなければ周囲一帯が異界に取り込まれてしまうというもの。この学校にもそういう儀式があって、何らかの理由でそれが失敗したことで、こうなったんじゃないかって。私たちはその線が濃いんじゃないかと思って、この学校を調査して脱出方法を探っているわ」
そしてミホは「最後に、この教室が私たちの住む部屋よ」と言いながら、目の前の扉を開く。部屋の中にはたくさんの机と椅子が置かれていて、真ん中あたりに二人の少女が座っていた。
「ミホ。おかえり! その子は?」
「彼はハヤト。下でアメミットに食い殺されそうになってたところを私が助けたの。二人とも、自己紹介して」
「はーい!」
ハヤトの前に、一人の少女がやってくる。
「エルルケーニッヒ! エルルでいいよ! よろしくね!」
ハヤトはその少女の顔を見て、突然背筋が寒くなるのを感じた。
エルルと名乗る少女は、その元気な言葉とは裏腹に、目に全く生気が宿っていなかったのだ。まるで何者かに動かされている人形のような眼。それは向こうにいる「わたしはハムレット。よろしく」と名乗った少女も同じだった。
ハヤトから見て、まともに人間らしい目をしているのはミホただ一人だった。しかしミホは二人のことを何ら異常だと思っていないらしい。
いったい何なんだ。こんな奴らと一緒に、ここで生き抜けというのか。
「じゃあ、今日の探索の予定を決めましょうか」
ミホは机を集めて、その上に大きな紙を広げる。どうやらこの校舎の地図らしい。
この図にも、少しばかりの既視感があった。
ミホはそんなハヤトをよそに、元気よく語りだす。
「せっかく人手も増えたことだし、今日はこれまで行けなかったところに行ってみたいと思うの。だから……」
「図書室」
ハヤトの口からぼそりと言葉が漏れる。ミホは「よく私が行こうとしてる場所がわかったわね」と驚いた様子で言った。
なぜ自分の口からその言葉を発したのかはわからない。ただ、なぜかミホは図書室に行きたがっている気がしてならなかったのだ。
「そう。今日は図書室に行きましょう。せっかく四人になったんだから、三人じゃ厳しかったところに行くべきよね」
「異議なし」
「あたしもそれでいいと思うよ」
ハムレットとエルルがいう。ハヤトは特に反対する理由もないので、黙ってうなずく。
「じゃあ、行きましょう。ハヤトには武器を渡すわ」
ミホは近くにおいてある箱から、一本の剣を手渡す。
「できるだけ私たちもあなたを守るけど、やりきれないことってどうしてもあるから。その時はその刀で自分の身を守って」
ハヤトはミホに手渡された剣を握りしめ、ぶんと振ってみる。やや重いものの、なぜだかこの剣はとても手に馴染んだ。
エルルが何やら銃の手入れをしているのを見て、ミホに「僕もあれ持ちたいんだけど」と持ち掛ける。
「そうね。ほんとは訓練してない人に持たせたくはないんだけど、わかったわ。けどかなり危ないものだから、扱いには細心の注意を」
そう言いながらミホはハヤトの小さな銃を手渡してくれた。黒い鉄の塊が手にのしかかる。
「じゃあ行きましょう。いつも通り、周囲の警戒は怠らないように。」
四人は部屋を出て、先ほどミホが防火扉と呼んだ大きな鉄の扉を開き、その先にある階段を下りていく。後ろでミホが扉に鍵をかけていた。
階段を一階まで下りて、階段横の廊下をしばらく歩く。先頭のミホが扉を開くと、そこには先ほどの教室三つ分ほどの広さの空間に、たくさんの棚が人二人ほど通れそうな幅でおかれており、その棚にはぎっしりと書物が詰め込まれていた。
古い紙の匂い。それはかなり強烈で、ハヤトは少しばかりの吐き気を催す。
壁には何やら不気味な絵が何枚も飾られていた。ハヤトは思わずそれらから目を背ける。
「本を全部見ていくわけにはいかないから、一部気になったやつだけ持って帰りましょう。あんまり多くなると、帰り道化け物に遭遇したとき大変だから気を付けて。あと、もしも探索中に化け物を見つけたら、一人でなんとかしようとせずに、大声でみんなを呼ぶこと、いいわね」
そして各自この図書室を調べることになった。とは言ってもハヤトには何もあてがないので、漫然と歩き回るしかない。
相も変わらず、エルルやハムレットの顔には全くと言っていいほど生気が宿っていない。常に力をみなぎらせているミホとは対称的だ。
いや、よく考えたらこんな異界で何日も過ごせば当然かもしれない。ハヤト自身、今にも気が狂ってしまいそうなところを必死に押さえつけているのだ。エルルは口調だけでも元気に見せて、強引に笑顔を作り、なんとか自分を保とうとしているのだろう。
「ミホ、何か見つかった?」
「しっ。ちょっと待って。今興味深い文献を見つけたの」
ミホのところに行くと、ミホは棚から取り出した一冊の本を必死にめくっていた。どうやら構ってくれそうにない。僕も何か本を調べてみようかと思ったところで、突然悲鳴が聞こえる。
「エルルの悲鳴だわ。あなたも来て!」
ミホは読んでいた本をその場に捨てて、悲鳴の聞こえたほうに向かって走り出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ミホ!」
ハヤトは持ってきた剣を掴み、慌ててミホの後を追う。
そこには、腰に布一枚巻いただけの屈強な大男が、ごつい棍棒を持ってエルルとハムレットににじり寄っていた。異様なのは体の色と顔だち。全身が真っ青で、顔はたくさんの皺が刻み込まれており、鼻はとても大きく、犬歯は人間のそれよりずっと大きい。頭には鋭く大きな角が生えていた。
「ミ、ミホ。助けて!」
エルルが叫ぶ。二人は化け物によって、どうやら武器を構える余裕もなく壁際追い詰められてしまったらしい。
形は人間のようでありながら、とてもじゃないが人間とは呼べない化け物。それはゆっくりと手に持ってい棍棒を振り上げた。
「ま、待ちなさい!」
ミホは剣を持って化け物に駆け寄る。先ほどと同じように、ミホの剣に炎が宿り、ミホはそれを振り上げて化け物に切りかかる。
その瞬間、ハヤトの脳裏になにやら映像が浮かんでくる。
ミホが必死になっても間に合わず、あの棍棒によってハムレットの頭がはじけ飛ぶビジョン。
それは想像と呼ぶにはあまりに鮮明で、生々しい映像だった。
このままじゃ、ハムレットが死ぬ。
ハヤトはそう確信した。
気が付くと、ハヤトは手に持っていた拳銃で大男の頭に照準を合わせ、引き金を引いていた。
響き渡る銃声。大男が棍棒を振り下ろす寸前にハヤトの放った弾はその後頭部に命中し、大男は棍棒をその場に落として床に倒れた。そして先ほどのオオトカゲと同じように、体が白い粒子となり消えていく。
「なに……。なんなの……?」
ミホがあっけにとられた様子でハヤトのほうを見る。ハヤトも、自分が何をしたのかよくわからず、ただ銃を構えて突っ立ったままだった。
「それで、あなたはわけもわからないまま銃であの鬼を撃ったと」
「そう、なるね……」
あの後、四人で先ほどの教室に戻り、ハヤトは三人に事情を話した。
事情といっても、ただハムレットが殺されるビジョンが見えて、無我夢中で化け物(ミホいわくあの変な色の大男たちは鬼と呼ばれているらしい)を射殺したということしか語れないのだが。
「あのままじゃ私も間に合わなかっただろうし、今回は結果論的に正解だったけど、今度からはあんな真似はやめてね。もし二人に当たったらどうするつもりだったの」
「ご、ごめん……」
ミホの言う通りだ。あと少しばかり昇順がずれていたら、あの弾は青鬼ではなくハムレットかエルルの頭部にぶち込まれていた。
「それにしても、おかしなはなしね。そのハムレットが殺される光景っていうのは、イメージってわけじゃないんでしょ?」
「うん。あれはそうじゃなくて、トラウマの記憶、みたいなものかな。やけにはっきりしてたのを覚えてるよ」
「それはエルルでもなく、二人同時でもなく、ハムレットだけが殺される情景だったのよね」
ハヤトはうなずく。確かにそこも不可解だ。なぜか、エルルの心配は全くしなくていいと、その時のハヤトは確信していた。
「この件は何か手掛かりになるかもしれないわね。今のところは置いといて図書室から持って帰ってきた本を読みましょう」
そういいながら、ミホはエルルの叫び声とともに投げ捨てたあの本を手に取る。あの鬼を倒した直後に今日のところは一旦帰ることにしたのだが、そのときハヤトが「ミホ、さっきの本は?」と尋ねたことでミホは忘れていたこの本の存在を思い出し、慌てて取りに戻った。
もしミホが忘れたままだったら、また取りにいかなければならないところだった。危ない。
「何の本なの。それ」
「この学校の成り立ちを書いた記録よ。もしかしたら、ここの変な宗教についての手掛かりがあるかもしれない」
「やっぱり……。この学校はちょっと変な宗教を信仰してるけど、その点以外は普通の高校だったみたいね」
「変な宗教って、新興宗教みたいな?」
エルルが訪ねる。ミホは本を持ち上げて「そういうわけでもないみたい」と答えた。
「この宗教自体は、けっこう昔からあったみたいなの。詳しいことはこの本には載ってないけど、ハムレットが持って帰ってきた本と併せて考えると、どうやら昔中国の田舎の農村部で密か信仰されていたもので、いつの間にかそれが江戸時代くらいで日本に入ってきていて、この学校の建立にも携わったみたい。その宗教についてだけど、ハムレットのほうの本によると、元々仏教があった村にキリスト教が伝わってきて、それが変な形で混ざったらしいわ」
ミホは「その宗教の話以外は、どちらも普通の学校ができるまでを記した手記でしかないわね」と付け加える。
「これは大きな前進よ。少なくとも、この学校は普通の高校だった。それがどういうわけか、この異界にのまれちゃったみたい。生徒や職員がどうなったかはまだ分からないけれど、もしかしたら図書室に別のヒントがあるかもしれない」
そのとき、ミホの持つ本から銀色に光る物体が床に落下して、金属音を鳴り響かせる。
「鍵……?」
エルルが拾い上げたその物体は、確かにどこかの鍵のように見える。
ミホは本をめくり、鍵がどこに挟まっていたのか探す。ミホが開いて見せてきたページでは、紙が何ページかにわたってくりぬかれていた。その形はぴったりとこの鍵と同じ形をしている。
「ミホ、どこか鍵がかかってるところってなかった?」
「ちょっと待って。何か所かあったと思うから」
ミホは机の上に昨日と同じ地図を広げる。どうやら鍵のかかっていたところは赤い印がつけてあるらしい。
「どう? どこの鍵?」
「それはわからないけど。宗教的な要素がこの異常事態に絡んでいるのなら、ここであってほしいわ」
ミホが指さす先には、「聖堂(?)」と書かれた部屋があった。どうやら二階らしい。
「何か重要な手がかりがありそうだから、銃で鍵穴を撃ってみたこともあるんだけど、頑丈すぎて開かなかったわ。ここの鍵だとしたら、大きく私たちの調査は前進すると思う」
しかしもう四人とも先ほどの図書室で疲弊してしまっているため、今日のところはもう休んで、明日万全の状態で聖堂の調査に向かうことになった。
就寝する前に四人で夕食を取ることになった。「今日は私が当番だったわね。何か作ってくるわ」と言いながらミホは貯蔵庫らしき棚からいくつか袋を取り出して、隣の部屋にへと向かった。
「あー。お腹すいた。待てないから軽くなんか食べよ」
エルルが椅子からぴょんと飛び降りて、食料貯蔵庫をがさごそと漁る。そして何やら桃の絵が描かれた金属製の筒を取り出してきた。
「あ! 桃缶これにしよ! 二人ともいいよね!」
そしてエルルは何やら金具を使って筒を開く。中には切られて皮をむかれた桃がたくさん入っていた。
「ミホに黙って食べちゃっていいの?」
「かまわない。あの子は桃嫌いだから」
横からハムレットが言ってくる。そうなのか。なら心配ない。
ハヤトはエルルから箸で串刺しにされた桃を受け取って食べる。
何やら不自然に甘い。桃の甘味に加えて、これは大量の砂糖が入れられているのだろうか。
しかしこれはこれで美味しい。ハヤトは空腹の体にその甘さが染み渡るのを感じた。
「そういえばさ、ミホってなんだか桃の匂いしない?」
エルルが言う。それはハヤトも感じていたことだ。気のせいかと思って黙っていたのだが、どうやらハムレットとエルルもそう思っていたらしい。
「桃ばっかり食べてきたからかな」
「いや、エルル。それはないよ。だって彼女桃嫌いなんでしょ?」
「だよねー。どういうことなんだろ」
そもそも桃ばかり食べてきたら桃の香りがするというエルルの理屈もよくわからない。
しばらく待っているとミホが料理を運んでくる。ミホはなかなか料理が上手いようで、こちらもかなりの味だった。惜しむべきは、この食事の前ではなく後に桃を食べるべきだったということである。
その後、四人は部屋に布団を敷いた。三人はハヤトも同じ部屋で寝ていいと言ってくれたので、なんとか一人での就寝を避けられた状態だ。
布団に入る寸前、ガラス窓越しに外の景色を見たハヤトは、空が異様な姿になっていることに気づく。
「なに、あれ……」
空に浮かぶそれは燃え盛る黒い縄に見えた。非常に巨大な縄。長さはおそらくこの建物の全長よりはるかに長く、太さは優にハヤトの身長を超えているだろう。不気味な雰囲気を放つ巨大な縄が、この建物三つ分くらいの高さに浮かんでいる。
「ああ、あれね。あれは私たちは『黒縄』と呼んでるけど、あれは私たちがここで目を覚ました時から、ずっと浮かんでいたわ。どういうわけかたまに消えたりするけど、形を変えずにずっとあそこに浮かんでるの」
なんて不気味なんだ。謎の恐怖を感じ、ハヤトは思わず目を背ける。
あの不気味な縄を忘れようとするかの如く、ハヤトはそそくさと布団に入り眠りについた。
ハヤトが目を覚ましてもなお空は闇に覆われており、黒い縄も浮かび続けていた。どうやらこの世界に昼夜という概念はないらしい。
「ハヤト。おはよう。みんなもう起きてるわ。」
ハヤトはミホから受け取ったパンを食べ、トイレに行き顔を洗って仕度をする。
気合を入れなければ。今日は聖堂に向かうわけだが、何やらかなり嫌な予感がするのだ。
まるで一歩間違えば、全員が死んでしまうような、そんな予感がハヤトの脳裏にこべりついて消えない。
この感覚はあれに似ている。そう。昨日、ハムレットがあの鬼に撲殺されると確信したあの時。あれよりは弱い虫の知らせだが、聖堂で確実に自分たちは危険な目に遭うと確信していた。
しかし聖堂に行かないわけにはいかないだろう。もしもこの異変がこの学校の信仰している宗教的な要素が絡んでいるのであれば、確実に聖堂には重要な手がかりがあるはずだ。
四人は二階まで降りて、廊下を歩く。二階の廊下は真っ暗で、ぞっとするほど不気味だ。灯りを持ったミホを先頭に、なるべく離れないようにして歩く。
「ミホ。懐中電灯って一本しかないの?」
「そんなこともないけど、電池があまりないの。あんまり一度にたくさん使いたくない」
エルルとミホがそんな会話を交わす。
聖堂にはすぐたどり着いた。ミホが鉄でできた重くて頑丈そうな扉に、その鍵を挿してひねる。
「開いた……!」
ミホは取っ手をつかんで、ぐいと引っ張る。
「手伝うよ」
「ありがとう」
ハヤトはミホが少し開けた扉に手を滑り込ませ、体重をかけて懸命に開こうとする。
後にエルルとハムレットも加わり、四人がかりでなんとか扉を開くことができた。
中は、まるで教会だった。
天井はかなり高い。おそらく三階まで吹き抜けになっているのだろう。
長い椅子が何列も並んでいて、一番奥が祭壇らしきものがある。祭壇の上には、なにやら仏像らしき石造が置かれていた。その後ろには、ステンドグラスの男の絵がある。祭壇の蝋燭には火がついていた。ずっとこの部屋に入った人はいないと思われるが、なぜ。
「キリストのステンドグラスと仏像、かあ。なかなかちぐはぐな組み合わせね。あれが『慈母観音』っていうやつかしら。日本では隠れキリシタンがマリア像の代わりに使ってたみたいね」
最初にミホがそういいながら聖堂に足を踏み入れる。その瞬間、ミホはその場に崩れ落ちた。
「ミホ! どうしたの!?」
ハヤトは慌てて崩れ落ちたミホに駆け寄る。ミホの目には、涙があふれていた。次から次へと湧き出してきていて、止まらない。
「ご、ごめんなさい。私もなんだかわからないの。けど、涙が止まらないの」
ミホは必至で涙をぬぐう。
「みんなは大丈夫?」
「う、うん。別に僕らはなんともないけど」
エルルやハムレットもなんともなさそうだ。つまりミホだけが突然泣き出したということ。
ミホは手を震わせながらハヤトの顔に手を伸ばし、頬に触れる。ミホの手に付着した涙が、少しばかりハヤトの口に入った。微かに甘い桃のような味がした。
ハヤトに支えられ、ようやくミホは立ち上がる。
ミホには休んでいてほしいが、ハヤトの心の奥底から、それではダメだと否定する声が浮かび上がってくる。
ハヤトの脳裏には、何やらあのステンドグラスを突き破って、昨日の鬼よりも一回り大きい、真っ赤な体をした鬼が表れて、ハヤトの首を絞めつける情景が浮かんでいた。昨日ハムレットが鬼に襲われた時と同じ感覚だ。
「ミホ。悪いんだけど、あのステンドグラスのところに立ってて。常に戦闘態勢で」
「ダメだよ。ミホちゃん辛そうだし、休ませてあげようよ」
「僕としてもそうさせてあげたいんだけど……」
それはダメだ。今ミホを休ませたり、一緒に探索させたりしたら、もうすぐここで全員殺される。ハヤトはそう確信していた。
「いいのよエルル。私は大丈夫。……なにか、そうしないといけない確信があるのよね?」
ハヤトはうなずく。ミホは「なら、そうするわ」と言って祭壇のほうに向けて歩き始めた。
「僕らはこの聖堂を探索ね。入口はしめておこう」
「えー。もう一回この重い扉開けるのめんどくさくない?」
「安全のためだよ。誰か何か床に落ちると音が出るもの持ってない?」
「コインならある」
「ありがとう。ハムレット」
ハヤトはハムレットからコインを受け取り、扉を閉める際で挟んでおいた。これなら、扉が開いた瞬間にコインが床に落ちて音でいち早く察知できる。
剣と銃をいつでも使える状況にしておいてから、ハヤトたちは聖堂の調査を始める。
まず、祭壇の横にあるオルガンを見てみる。茶色の高そうなオルガン。ひと通り調べて、さらに外せそうな板は外してみるが、特に何も不審な点はなかった。
次に、ハヤトはその近くにある小部屋に入ってみる。ここは司祭の控室だろうか。聖堂にあるものよりはずっと小さな祭壇が置かれていて、天井には十字架、その下には仏像が置かれている。燭台のろうそくには火が灯っているが、下のほうに蝋はたまっていない。まるでハヤトがこの部屋に入る寸前に付いたかのようだ。
仏像の前にはいくつかの桃が積まれていた。
その瞬間、ハヤトは足元から肉を踏んでしまったような、なにやら嫌な感触を感じる。目を凝らすと、そこには猪らしき動物の死骸が落ちていた。
『僕の罪は許されない』
何やら少年の声が聞こえる。ハヤトはびくりと体を震わせてあたりを見回す。
誰もいない。この声はいったいどこから聞こえているのだ。
『僕は極悪人で、罰されるべき存在なんだ。この苦しみは、当然受けるべき報い』
ハヤトはその声にいても経ってもいられなくなり、思わず小部屋から飛び出す。
「はぁ……、はぁ……っ!」
全身に冷たい汗が流れていた。手も水浸しになってしまっている。
この部屋で感じたのは、ただの恐怖とは違う。もっと根源的な、自分に対する全否定。しかしハヤトはその具体的な正体については、何一つ理解することができなかった。
「ど、どうしたの?」
祭壇の上に立つミホが、異様な雰囲気を見せるハヤトに対して心配そうに声をかけてくる。
「な、なんでもない。ちょっと、不気味なものをみただけ。それより、ミホには声、聞こえた?」
「声? なんのこと?」
それなりに大きな音量だったと思うのだが、ドアも開けていたびだが、ミホには聞こえなかったというのか。
「私、見てこようか?」
「いや、いい。君はそこにいて、ステンドグラスのほうを警戒しておいて」
ハムレットを呼んで、小部屋に入ってもらう。しばらくして、「特に何もなかった」と言いながら、ハムレットは部屋の外に出てきた。
どういうことだ。あの声は自分にしか聞こえないものだったとでもいうのか。
その時だった。
コインが床に落ちる音。聖堂の中にいた全員が入口に視線を向ける。
「来た……っ!」
ハヤトは思わずつぶやく。開かれた扉。そこから青と黄色の鬼がぞくぞくと聖堂に足を踏み入れてきていた。
「今回はやけに数が多いわね」
ミホが剣を構える。その刀身に、機能も見た蒼い炎が宿る。
「ミホは下がってて」
「え……? ハヤト、あなた何言ってるの?」
「ここは僕ら三人だけが戦う。ミホはずっと後ろを警戒していてほしい」
そういいながらハヤトは銃を構える。ミホは「……わかったわ。けど危なくなったらすぐに言って」といい、祭壇の上へと戻っていった。
「黄色い鬼は僕が射殺する。二人は近寄ってきた青い鬼を狙って!」
「了解!」
「わかった」
ハヤトの両隣にいるエルルは銃を構え、ハムレットは剣を持つ。
なぜかはわからないが、黄色い鬼を放置しておけば、その圧倒的な機動力で瞬く間にみんな殺されるような気がしたのだ。黄色い鬼が機動力に優れる根拠もないのだが。青鬼のほうは接近される前に対処しておけば問題ないような気がする。
ハヤトは次々と近くに来た黄色い鬼から撃ち殺していく。弾の替えはミホからかなり多く受け取ったので問題ない。
エルルとハムレットが近寄ってきた青鬼、そして一部の撃ち漏らした黄鬼を倒していってくれる。
鬼たちは次から次へと湧いてくるが、その勢いは少しずつ衰えていた。弾もまだまだ余裕があるし、これなら乗り切れるかもしれない。
その時だった。
背面から聞こえるガラスの割れる音。銃撃の手は止めずに少しだけ後ろを見ると、そこには青鬼や黄鬼よりも一回りか二回りほど大きな赤い鬼が、仏像を押し倒してその背中の上に立っていた。
ほかの鬼よりも鋭利な角と犬歯。その憤怒に満ちた表情は、まっすぐにハヤトへとむけられていた。
「ミホ! そいつを倒して!」
「わかったわ!」
ミホの剣に再び蒼い炎が宿る。ミホは思い切り赤鬼に向かって切りかかった。
「ハヤト! 避けて!」
ミホの叫び声。ハヤトはとっさに横に飛びずさる。先ほどまでハヤトがいた空間を、赤鬼の手が通り抜けた。
危ない。もし動かなかったら、あの自分の顔より大きな手でつかまれて殺されていたに違いない。
ミホに再度切り付けられ、赤鬼は光の粒子と化して消える。ミホ曰く、赤鬼だけが唯一ミホの炎の斬撃により一撃で倒せない相手らしい。
「ありがとうミホ。君は引き続き後ろを警戒しておいて!」
そういいながらハヤトは、聖堂の入り口から入ってくる鬼たちへ向けて銃を構えた。
そこからはあまり時間はかからなかった。再度赤鬼が聖堂に入ってくるなどということはなく、無事すべての鬼を撃退することに成功した。
「はぁ……。はぁ……」
四人は肩で息を切らせながら床に座り込む。さすがにこれだけ長い戦いを続けていたら疲労困憊になる。今は会話するのもつらいほどなのだが、ハヤトにはどうしても確認しておきたいことがあった。
「ミホ。あの赤鬼は、もしかして一直線に僕のほうへと向かってきたの?」
そこのステンドグラスを突き破って入ってきた赤鬼は、ミホと交戦していたとは思えないほどのスピードでハヤトを殺しに来た。ミホを無視して一直線にハヤトの元に来たとしか考えられない。
「そうなの。あの赤鬼は、私から攻撃を受けても構わずにあなたのほうへと走っていったwあ。まるでハヤト以外眼中にないかのように。これまで現れた赤鬼は、普通に私たちのことも攻撃してきてたんだけど」
「じゃあ、赤鬼は僕がいないときは普通の怪物と同じ動きをするけど、僕がいるときだけ僕を最優先で狙ってくる、ってこと……?」
「そうかもしれない。私のほうからも一つ聞きたいんだけど、もし私があそこで待たずに一緒に黄鬼青鬼と戦っていたら、間違いなくあなたは赤鬼に殺されていたわ。それを皮切りに全滅していたかもしれない。ハヤトはあの赤鬼が後ろから来るのをわかっていたの?」
「いいや、そんなことはないよ。ただの勘だ」
なんとなく、ただ本当になんとなく、ミホをあそこに立たせておかなければ全滅すると、ハヤトはなぜかそう確信していた。そして実際にステンドグラスを突き破って赤鬼が現れて、ミホには目もくれずハヤトを殺しに来た。
自分は未来で起こる危機を予知できている、のか……?
あまりに荒唐無稽な妄想。しかしそう考えればつじつまが合うのも事実だ。
四人は聖堂を出て、居住区へと帰るべく歩く。まだ聖堂の探索を続けたかったところだが、あまりにも数の多い鬼たちとの戦いによってすっかり疲弊しきってしまっていたのだ。
「待って!」
廊下を歩き、階段を登ろうとしたところで、ハヤトは足を止める。
「この階段を上るのはやめよう。遠回りかもしれないけど、別の道を使いたい」
「どうして?」
エルルが不思議そうに問うてくる。ミホとハムレットは、何かを察した様子でうなずいた。
「ハヤトのそういう勘は外れたことはないものね。ちょっと遠回りになるけど、向こうの階段を使いましょう」
ミホの言葉によってエルルもそれを承諾する。来た道を引き返して、別の階段に向かって歩いた。
そのとき、先ほど自分たちが登ろうとした階段のあたりから、何やら物音が聞こえた。
見ると、燃え盛る二つの車輪が階段を下りてきていた。車輪と車輪は鉄の棒のようなものでつながれており、そこには男の生首が横から串刺しにされている。しかしその男はまるで生きているかのように目線をこちらに向けた
「ミホ! 下がってて!」
ハヤトはミホを後退させたのち、前に飛び出して銃を構える。そして三発の弾丸を、発射した。ハヤトによって放たれた弾丸は放物線を描き、すべて生首の眉間に命中する。
男の生首は苦悶の表情を浮かべ、また白い粒子と化して消えていった。
「なに、今の……」
「わ、わかんないよ。僕にも」
ただ、ここは自分が戦わなければならない気がした。そうでないと、ここでミホが殺されるような気がしたのだ。
「確かに、私の炎の刀は炎をまとった相手には効果が薄いわ。あれだけ強い炎を持っていた相手なら、効かない可能性もあるけど……。そのことをあなたが知るはずはないわよね」
もちろんだ。そのミホの能力の制限は今初めて聞いた。
ハヤトは先ほどの車輪生首男がいた場所を調べてみる。少しばかり煤がついているが、廊下や階段が燃えた様子はない。
その後、四人は教室に戻り、今日の成果を詳しく発表しあう。
ハムレットとエルルの報告には特に目新しいものはなかった。
「ミホはどう? 何か見つけたものとかある?」
とはいってもハヤトがミホに探索しなくていいといったのだが。しかしハヤトが小部屋に入ったりオルガンを調べたりしている間、どうやら祭壇を調べていた様子だったので、もしかしたらなにか思うところがあるかもしれないとハヤト考えた
ミホは何やら神妙な面持ちで、「みんな、笑わずに聞いてほしいんだけど」と言いながら切り出す。
「もしかしたら、この世界の時間はループしているのかも」
「……え?」
ハヤトは、ミホの言ったことがすぐには理解できず、思わず聞き返す。
「例えば、私たちが全員死ぬか、もしくは一定の時間が経つか。条件はわからないけど、その条件を満たしたら、時間が戻って、私たちはその間の記憶を失う。そしてそのリセットも完全じゃなくて、ほんのわずかに取りこぼされた記憶が私たちの中に残っているのだとしたら」
ハヤトは思い出す。なぜか初めてミホに会ったとき、ほかの記憶はないのに自分とミホの名前だけはわかっていたことを。
他にも、危機が迫る寸前の未来予知にも近い勘。それが何度も四人のピンチを救ってきた。
それらはすべて、過去のループの記憶の断片によるものだというのか。
「ハヤトみたいに未来の危険を察知できるわけじゃないけど、実は私も強烈な既視感を何度も感じたことがあったわ。エルルとハムレットはそんな感覚はなかったのよね」
ミホに問いかけられ、二人はうなずく。
「つまり、記憶のリセットの強さには差があるんだと思う。エルルとハムレットは完全に記憶を消されているけど、私は極々わずかに記憶が残ってる。ハヤトはその残った部分が私よりも大きいから、未来を予知できている」
つまり、過去のループで、実際に図書館でハムレットが殺され、聖堂で鬼たちに皆殺しにされ、生首の車輪男にミホを殺された経験が実際にあるということか。
あまりにも滑稽な仮説だが、今おかれているこの状況そのものがかなり異常なのだ。時間が戻るくらいのことは、起こってもおかしくはない。
「なぜ時間が戻っているのか。なぜ記憶をリセットされる強さに差があるのか。それはわからないけれど、一度その方向性で調査をしてみてもいいかもしれないわ」
その後、今日のところはもう探索にいくことなく、居住区の中で過ごすことになった。次行く場所のあてもないし、今日のところはちゃんと休むべきだというミホの判断だ。
数時間後、トイレに行っていたハヤトが廊下を歩いていると、向こう側に何やら謎の人影を見つけてぎょっとする。
他の三人のうち誰かであるようには見えない。何やら角らしき突起が見えているが、鬼には見えなかった。
ハヤトはその人影に近づいてみる。
それは、ハヤトとよく似た体躯の少年だった。ボロボロの麻の服を着て赤鬼の顔をかたどった面をつけている。
『僕はなぜのうのうと生きているんだ。僕は苦しまなければならないんだ』
ハヤトはこの声に聞き覚えがあった。さっき聖堂の小部屋で聞こえた声。それとこの少年の声は全く同じだった。
しかし何より恐ろしいのはそこではない。
既視感が、ないのだ。
これまで見た怪物は、いずれも記憶にはなかったが「見たことある」という確信が持てるものだった。ミホの説を採用するのであれば、それはかつてのループであの怪物たちを見たことがあるということになる。
すなわち、この少年は、初めて見る存在。過去のいかなるループの中でも、遭遇したことがない相手なのではないか。
そうなると、かなりまずいことになる。
「みんな! 来て!」
ハヤトは大声んでほかの三人を呼ぶ。
『ならば、僕が君に忠を下そう。僕が君を罰してあげよう』
少年は懐から笏のようなものを取り出し、横向きにぶんと振るう。その瞬間、少年の服は立派な和服へと変化し、何やら金があしらわれた布の冠をかぶっていた。
今度は縦向きに笏が振るわれる。その瞬間、少年の目の前に数体の赤鬼が現れた。
「……っ!」
ハヤトは慌てて後ずさる。
赤鬼はここに現れる怪物の中で最も強いと聞いている。そんな赤鬼が一度に何体も出現しては、たまったものではない。
「ハヤト! なにこれ!?」
後ろからミホが驚いた様子で言ってくる。
「わかんないよ! あいつが笏を振ったら、いきなり……!」
ハヤトは銃を取り出して、鬼に向かって撃つ。その弾丸は、赤鬼と少年にあたることはなく、その寸前で消滅した。
少年が再び笏を振ると、再び三体の赤鬼が現れる。
「ハヤト! 下がって!」
ミホが蒼い炎をまとった剣で赤鬼に斬りかかる。しかしそんなミホには目もくれず、赤鬼たちはハヤトのほうへと向かってくる。
ハヤトは刀で歩み寄ってくる赤鬼に斬りかかるが、その攻撃も効いていない様子だった。
駆け付けたハムレットとエルルも、赤鬼を銃撃してくれる。どうやらそちらの銃弾は聞いているらしい。
ハヤトの攻撃だけが、効かないということか。意味が分からないが、実際それ以外に考えようがないのだから仕方ない。
大勢の赤鬼から逃げることは叶わず、赤鬼に取り囲まれたハヤトは、そのうちの一体に首を絞めたまま持ち上げられる。
首吊り状態で息ができずもがくハヤト。ミホが「ハヤトを離せ!」と必死にハヤトの周りにいる鬼を攻撃しているが、なかなか数が減らない。
目の前で赤鬼が憤怒に満ちた表情をハヤトに向けていた。薄れていく意識の中、ハヤトは自分の首の骨が折れる音を聞いた。
「また……、守れなかった……」
ハヤトは冷たい風が吹く中、目を覚ました。
首が痛い。何か、ほんの寸前までかなり苦しい想いをしていた気がする。
体を起こしてあたりを見回す。ここはどうやらどこか学校のグラウンドらしい。
しかし異様なことに、学校の敷地の外や空の上は闇に覆われていて、空にはなにやら燃え盛る黒い縄が浮かんでいた。
「なに、あれ……?」
直後、ハヤトのすぐ後ろから何やらうめき声が聞こえる。振り返ると、そこには緑色の大きな体をしたワニが大きな口を開けてこちらを睨んでいた。
「う、うわあ!」
逃げようとしたハヤトは、慌てるあまり思わずしりもちをついてしまう。立ち上がろうともがく間にも、ワニはハヤトを喰らわんとゆっくりにじり寄ってきていた。
殺される! そう覚悟して目を閉じた瞬間、ハヤトの横を一陣の風が通り過ぎた。
直後に聞こえるワニのうめき声。ハヤトは何事かとゆっくり目を開いた。
そこには、一人の少女が立っていて、手には蒼い炎をまとう剣を持っていた。
「大丈夫だった?」
そしてハヤトは少女に連れられ、校舎に向かって歩く。
少女の名前はミホというらしい。どういうわけか、このことは会ったことがある気がする。
そしてハヤトは自分がいわゆる記憶喪失の状態になっていることに気付いた。しかし校舎の内装や、ハムレットやエルルなどの仲間の顔にも何やら既視感を感じる。
ハヤトは校舎四階居住区の説明を受けたのち、四人で図書室に向かった。既視感を頼りにハムレットを殺そうとする青鬼を射殺し、何冊かの本を持ち帰る。そして明日は校舎二階にある聖堂を探索することに決め、眠りについた。
次の日、聖堂にたどり着いたハヤトは、ミホには探索に参加させず祭壇の上に待機させ、祭壇の横にある小部屋に入る。
ここは司祭の控室だろうか。聖堂にあるものよりはずっと小さな祭壇が置かれていて、天井には十字架、その下には仏像が置かれている。燭台のろうそくには火が灯っているが、下のほうに蝋はたまっていない。まるでハヤトがこの部屋に入る寸前に付いたかのようだ。
仏像の前にはいくつかの桃が積まれていた。
その瞬間、ハヤトは足元から肉を踏んでしまったような、なにやら嫌な感触を感じる。目を凝らすと、そこには猪らしき動物の死骸が落ちていた。
『僕の罪は、赦されますか』
声が聞こえて、ハヤトはびくりと肩を震わせる。男の声だ。どうやらそこの壁にある木でできた格子の向こうから聞こえているらしい。向こうに誰かがいる気配がするが、近くに扉はなく、どうやって入ったのかはわからない。
『そこのあなたに聞いてほしいのです』
「僕……?」
『ええ』
それはあまりに不気味だったが、あまりに懇願するかのような声に、ハヤトは思わずその格子へと近づいた。
『僕は、ある人を、僕の独善で苦しめてしまいました。苦しませて、死なせてしまいました。そんな僕の罪は、赦されますか』
そんなことをいきなり言われても困る。しかしハヤトはなぜかこれを許してはいけないと思った。理由はわからない。ハムレットを助けた時の既視感とは違う。もっと心の奥底から湧き上がってくる確固とした信念。
「許されません。あなたの罪は永遠に洗い流されることはないのです」
『そんな……、赦しを得られなければ、僕は地獄に堕ちてしまいます。どうか、赦しを』
「だめです。あなたはそのまま地獄に堕ち、責め苦を受けるべきなのです」
なぜこのような言葉が自分の口から出てきたのかはわからなかった。ただほとんど無意識に、湧き上がってくる何かを放置したら、口がこんな言葉を発していたのだ。
何やら怖くなったハヤトは小部屋を出て、突然現れた鬼を退治する。ミホを祭壇に立たせていたおかげで後ろから不意打ちでやってきた鬼もなんとかなった。
聖堂から出たのちに現れた燃え盛る車輪と生首の化け物もハヤトの機転により退ける。そして居住区に戻ろうとする三人を、ハヤトは押しとめる。
「ちょっと待って。四階に戻るのはまずいかもしれない」
「また、いつものやつ?」
「うん……。今ここで居住区に戻ったら、全員死んでしまう気がする」
「まあいいわ。今のところ、ハヤトのそういう勘は全部当たってるものね。とはいえ、どこに行けばいいのかしら。他に安全なところなんかないし」
「グラウンドはどうだろぅ。見晴らしもいいから、対応しやすい」
ハムレットのその提案により、四人は校庭へと向かうことになった。
階段で三階に上がらず一階に降りる。そしてハヤトの記憶の限りでは最初にいた場所、ミホがアメミットと呼んでいるワニに出会った場所へと向かった。
「なに、あれ……?」
ハヤトがこの校庭で目を覚ましてから上空にずっと浮かんでいた、不気味な燃え盛る巨大な縄。その炎が、ここからでもはっきりとわかるほど大きくなっていた。
しかも、心なしか縄が少し下がってきているような気がする。
そう思った次の瞬間、縄はそれを支えている何かが外れたかのように、重力に従ってその大質量を伴い落下してきた。
「ハヤト! 危ない!」
ミホがハヤトを押し倒すかのように突き飛ばす。先ほどまでハヤトがいた場所に、燃え盛る縄がその体をたたきつける。
縄の直径はハヤトの身長と同じくらい。長さはこの学校の敷地の外周をぐるりと二周してもまだ余るほどあるだろう。その縄は一瞬にしてハムレットとエルルを押しつぶした。
縄はさらに校舎の上にも及んでおり、その業火でハヤト達が住んでいた場所をも焼き尽くし始める。
あたり一面黒縄とそれがまとう炎しか見えない。今にも体が焼けこげそうなほど暑く、今すぐにでも逃げ出したいが、周囲を縄に囲まれてしまい逃げ場がない。
このままだと蒸し焼きになって死ぬ。ハヤトははっきりとそう確信した。
「ミホ。どうしよう」
「一つだけ、策はあるわ。うまくいくかはわからないけれど。あなたも協力して。それと、失敗したらあきらめて」
ミホはあっさりとそういった。しかし他に手はないのだ。ハヤトはうなずくしかなかった。
「しばらくの間、私は無防備になる。その間あなたが私を守って」
「うん、わかった」
ハヤトは懐から銃を取り出す。聖堂での鬼たちとの闘い、そして先ほどの車輪生首との戦いでそれなりに弾を消費したが、まだけっこうな数が残っている。問題なさそうだ。
ミホは虚空に向かって手を広げる。するとそこには白い光が集まり、黒いバラを形作った。
そして手のひらからバラをふわりと落とし、持っていた剣で受け取める。剣は青い炎に包まれ、ちぎれたバラの花びらが炎とともに剣を包み螺旋を描く。ミホがその剣を正眼に構えると、蒼い炎はどんどん巨大化していった。
ミホが剣を斜めに振り下ろすと、蒼い炎が轟音と共に射出され、その蒼い炎の奔流は二人を囲う黒縄に大きな穴を穿った。
蒼い炎の奔流そしてその煌めきはあまりにも美しく、ハヤトは危機的状況だというのに思わずその炎に心を奪われてしまう。
「なにぼーっとしてるの! 逃げるわよ!」
ミホが息を切らせながら言う。どうやら今の技はかなり体力を使うらしい。
ハヤトはミホの手を引いて、ミホが作ってくれた焼けこげた道を走る。そしてグラウンドの隅に黒縄の炎による熱気が及ばない場所を見つけて、二人はそこに座り込んだ。
「はぁ……。はぁ……。ひとまずしのいだわね」
ミホは息苦しそうに言う。ハヤトは「無理にしゃべらなくていいよ。呼吸整えてからで」と告げる。
しばらくして、呼吸が落ち着いてからミホは切り出す。
「今のところは生き延びてるけど、居住区が燃えちゃって、 これからどうすればいいのかしらね……。二人も死んじゃったし」
「確かに……。あの安全地帯がなくなったとなると、これからかなり厳しいことになる」
そもそも何なのだあの縄は。そしてなぜこれまでは普通に浮かんでいたのに、今になって急に落下してきたのだ。
わけのわからないことばかりだ。ハヤトは気がめいりそうになる。
そのとき、ハヤトは自分の胸から一本の剣が生えていることに気付いた。
胸に感じる冷たい感覚。自分が後ろから剣で刺されたのだと気付くのには、少しばかり時間がかかった。
「ハヤト……っ!」
ミホが立ち上がって駆け寄ってくる。間もなくハヤトの胸に刺さった剣は抜かれ、傷口から大量の血がまるで噴水のように噴き出してきた。
ハヤトの体はばたりと後ろに倒れる。今更感じる激痛。朦朧とする意識の中、ハヤトは赤鬼の面をかぶった少年が自分を見下ろしていることに気付いた。
「お前は……っ!」
この少年には見覚えがある。確かずっと前に会ったことがあるはずだ。確か自分がここで目を覚ましてミホに助けられるより前、居住区の中で……っ!
そうしてハヤトは思い出す。自分がこの世界で死ぬのは初めてではないと。
何度も何度も殺されてきた。ある時は赤鬼に、ある時は別の化け物に。
そして前回は、この少年に。
自分が死ぬたびに時間が戻り、すべての記憶を失ってこのグラウンドに戻されるのだ。
しかしこの記憶をミホに伝えられるほどの力は、もうハヤトには残されていなかった、
ならせめて、どうかこの記憶を次にも残したい。
せっかく思い出したのだ、なんとしても、覚えたまま『次』へと行きたい。
そう念じながら、ハヤトの意識は闇へと沈んでいった。