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1.第二章 サーレン①

 1.第二章 サーレン①



 陽がもう山の向こうに消えてしまいそうな夕暮れ時。畑に立つ一人の女が声を上げた。

「今日の作業は終わり。みんな、お疲れ」

 母の言葉に、少年サーレンは汗をぬぐって安堵の息を漏らした。

「今日はサーレン。あんたが掃除後片付け当番だったよね。頼んだよ」

「はいはい。わかってるよ。母さんたちは早く帰っといて」

 サーレンの弟と妹たち、そして母親は、各々が持っていた鍬などの農具を川のそばに置いて、ぞろぞろと小ぶりな家に帰っていく。

「さてと。僕も掃除して帰らなきゃ」

 サーレンも持っていた鎌を持って、家族みんなが農具を置いて行った場所へと歩く。

 大きな桶を小川に沈め、力いっぱい引っ張り出す。綺麗な冷たい水がなみなみと張られた桶に、サーレンは一つずつ農具を入れて、手で丁寧に洗っていく。

ここは山奥の農村。サーレンの家は、こうして大きくはない畑を耕す小作農をやっている。サ

サーレンは八人兄弟の三番目。数えで十六歳になる。上の姉はとうに嫁いでしまい、兄は農村を出て城下町に行ってしまった。そのため父がいないときの家を守るのはサーレンの役目だ。

「サーレン!」

 川の反対側から少女の声が聞こえる。そちらに視線を向けるとそこには、サーレンの二人の友人がいた。

「ヤーイー! リャン!」

 二人とも、同じく村の小作農の子供で、サーレンと年は同じだ。男の子のほうがリャンで、女の子のほうがヤーイー。三人は同い年ということもあり仲がよく、幼いころから遊んだりする機会も多かった。二人の家はもう農作業を終えているらしい。

 川の向こうからヤーイーが元気よく手を振ってくる。そのままヤーイーは躊躇なく川に足を踏み入れた。 

 大きな音とともに水しぶきがあがる。ヤーイーはそのままサーレンのいる側まで歩いてわたってきた。

「なにやってんのさヤーイー。向こうに橋あるじゃん」

「だって面倒だったんだもん。作業してて暑かったし」

 ひざまでずぶ濡れになったヤーイーは、足袋を思い切り絞る。びちゃびちゃと大量の水が地面に降りかかった。

 リャンはきちんと少し離れたところにある橋を渡ってこちらにやってくる。

「で、二人とも何の用? 僕農具の掃除に忙しいんだけど」

 そう問いかけたサーレンに対し、リャンとヤーイーはにやにやと笑う。

 まずい。こいつらがこういう顔をするときは、確実に何やらよからぬことを考えているのだ。サーレンは経験からそれをはっきりと知っていた。

「今夜三人で、村はずれのチャン家の屋敷に忍び込んでみよう」

 リャンがそう言って、サーレンは「それはまた。えらく悪いこと考えたねえ」とあきれた様子でため息をつく。

 チャン家というのは、この村の大半の土地を所有している大地主だ。サーレンの家も、リャンの家も、ヤーイーの家も、チャン家から土地を借りて農業を営み、収穫高の多くをチャン家に納めている。そのため村人たちはみな貧乏なのだが、チャンの家だけは大きく栄えており、村人たちから疎まれていた。

 しかし誰もチャン家の人間には逆らえない。なぜなら土地を貸しているのはチャン家であり、命の綱を握られているも同然だからだ。少しでも歯向かえば、土地を取り上げられて、一族郎党全員が餓死するしかなくなってしまう。

 そのためチャン家の人間は常にふんぞり返っており、それが村人たちのチャン家に対する嫌悪感に拍車をかけていた。

「できれば宝物なんかを盗んできたいわね。それを売って、みんなでご馳走を食べたいわ」

「それはやばいよ。人のものを盗むなんて。それにばれたら殺されちゃうよ」

「あいつら私たちから金むしりとってるんだから、ちょっと奪い返すくらい許されると思う。いや、許されるべきなのよ! チャンなんて!」

「ちょっとヤーイー。声大きいって」

 幸いにもまわりには誰もいないが、万が一にでも誰かに聞かれていたらどうするつもりなんだろうか。

 サーレンが意気込むヤーイーの扱いに難儀していると、リャンが横から「心配するな」と呼びかけてきた。

「大丈夫だ。ちゃんと顔を隠すものも用意している」

「いや、僕が心配してたのはそこじゃなくてね」

 とはいっても、結局自分はついて行かざるを得ないのだ。サーレンはそう観念する。この二人はサーレンが行くというまで決してひかないし、なにより自分がついていかないと、リャンとヤーイーだけではどんな無茶をやらかすかわからない。

 サーレンは思わずため息を吐く。まったく、なんで僕はいつもこんな損な役回りなんだろう。

「わかったよ。ただし無茶はだめだよ。間違っても戦ったりなんかしちゃだめだからね」

「もちろんよ!」「了解」

 こうして、今夜サーレンたちはチャン家の屋敷に忍び込むことが決定したのだった。



 農具を洗い終えたサーレンは、家の居間で家族一緒に夕食を食べる。

 蝋燭の火だけで照らされる薄暗い部屋。サーレンの弟が「これじゃ足りないよー」と呟く。

「ごめんね。もう少ししたらまとまったお金が入るから、それまで我慢して」

 母親のいうとおりだ。まもなく畑の収穫期が来る。それを売れば、それなりの収入にはなる。

それはこの村で赤貧生活をしていれば、なんとかぎりぎり一年を過ごせる程度のものだ。

 チャン家に小作料として大量に持っていかれさえしなければ、もっと楽な暮らしができるのだが。少なくとも、こんな風に収穫期前にろくな食事を摂れないような事態には陥らない。もう少し広い家に住めて、夜中しょっちゅう誰かに顔をけられたり頭突きをされて目が覚めることもなくなるだろう。

 これはサーレンの家に限ったことではない。村人皆が同じ状況なのだ。チャン家は、ぎりぎり殺さない程度に限界まで小作料をせしめていく。ヤーイーの怒りも、サーレンにはよく理解できた。

「ただいま」

 そのとき、父が家に帰ってきた。弟妹たちが「お父さん!」と父に向って駆け寄っていく。

「今日はなかなかいい成果が出たぞ!」

 父はドンと背中に背負う籠を置く。中には、イノシシ二体の死体が入っていた。

 子供たちと母親は農作業をしているが、父はこうして山に狩りをしに行っている。特にこの一番金がない時期には、父の狩りの成果が食いつないでいく重要な鍵になっている。

「一体はみんなで食べて、もう一体は売りましょう。今から調理するから、ちょっと待ってな」

 母親もうれしそうな様子で台所に立つ。お腹を空かせた弟妹たちは「わーい!」と叫んだ。

 父は背中に背負う猟銃を下して、「あー。疲れた」と言いながら床に腰を下ろした。

「お父さん。お疲れさま」

 サーレンは薄い酒を猪口に注いで、父に手渡す。

「おう。サーレン。すまんな」

 それを受け取った父は、少ない薄い酒を一気に煽った。

「お父さん。お願いがあるんだけど」

「どうした? 言ってみろ」

「僕も……、狩りに連れて行ってくれないかな」

「そうさなあ。お前もかなり猟銃の扱いが上手くなってきたからなあ。連れて行ってもいいかもしれねえ。母さんはどう思う?」

「いいんじゃないの。チビ共も大きくなって、それなりに役に立つようになってきたし、こっちはサーレン一人いないくらいならなんとかなるさ。サーレンが行きたいなら、いっといで」

「よし、じゃあ明日の猟は休みだから、明後日一緒に行ってみるか」

 父の言葉を聞いて、サーレンは「よし」と呟く。父に猟に連れて行ってもらうために、今まで必死に銃の扱いを訓練してきたのだ。今でははるか彼方の兎だって仕留められる。

 しばらくして、調理を終えた母が持ってきたイノシシの肉にサーレンはかぶりつく。熱い濃厚な肉汁がしみだしてくる。若干生臭いが、なにしろかなり久々の肉なのだ。サーレンたちは、貪るように肉を食べた。

 自分の分の肉を食べ終えたサーレンは、立ち上がり、家の玄関へと向かう。

「サーレン。どこ行くんだ」

「ちょっとリャンとヤーイーと会う約束しててさ。行ってくる」

 母親は何やら不満げだったが、父の「まあいいじゃないか。男の子なんだし、そのくらい元気なほうが」という言葉で、サーレンは心置きなく家を出ることができた。

 空には星空の中に明るい月が浮かんでいた。半月をとうに過ぎている。あと2日ほどで満月になるだろうか。その月明り星明りのおかげで視界はよく、サーレンは集合場所である寺に無事向かうことができた。

「遅い!」

 あからさまにイラついた様子でヤーイーが言う。サーレンは「ごめんごめん」と頭を下げた。

「ちょっとお父さんがイノシシ狩って来てさ。みんなで食べてたら遅くなっちゃったんだ」

「あー。肉食べてきたの? うらやましいわね。ま、今から宝物を盗んで来ればいくらでも食べれるんだけど」

「くれぐれも無茶しないでよ……」

「なるべく目撃されたくない。お前ら、これをかぶれ」

 リャンが何やら布でできた被り物をヤーイーとサーレンに手渡す。なるほど。これで顔を隠すということか。

 三人はなるべく人眼につかない道を選んで、村はずれにあるチャン家の屋敷へと向かった。

 広大な土地の外側を囲う塀の向こう。赤く塗られた立派な屋敷がそこにはあった。

「どうやって忍び込むの? 絶対見張りとかいるよね」

「大丈夫だ。夜の外の見張りは怠慢だからな。簡単に忍び込める」

 リャンが「その程度のことは調査済みだ」と言う。サーレンは「ほんとリャンはその辺用意いいよね」とぼやいた。

 普段はチャン家へと向かう坂を上っているだけで怪しまれるため、念のため獣道を使って裏手に回って、坂を利用してまず最も大柄で運動能力にも優れるリャンが塀の上に飛び乗る。そして上からサーレンとヤーイーを引き上げた。そして三人は塀からとび降りてチャン家の敷地に侵入することに成功する。

 茂みに身を隠して様子をうかがっていたが、一切見張りが騒いでいる様子なんかはない。どうやら気づいていないらしい。リャンの言っていた、「夜の外の見張りは怠惰」という言葉は正しかったらしい。

 まあそれは無理もないことだろう。この村は基本的に治安がよく、ほとんど犯罪は起こらない。チャン家に盗人が入ることだって、その後のことを考えればなかなかありえないだろう。全然曲者が現れないにも関わらず、ずっと気を張っていろというのも無茶な相談だ。

 ちなみに、万が一見つかった場合は、このリャンが塀の上に括り付けて垂らしておいた縄を利用して逃げるつもりだったらしい。ほんとに用意のいい奴だ。

 チャンの屋敷で、ここから見える部屋のうち明りがついている部屋は三つ。いずれも障子が閉じており、見られる心配はなさそうだ。

 三階建ての大きな邸宅。この村はほかに平屋でない建物といえば寺くらいのものなので、その存在感にサーレンは圧倒されそうになる。

「間近で見てみるとチャンの家ってほんとすごいわね。これなら少しくらいいただいちゃってもいいわよね」

 意気込むヤーイーの隣で、サーレンはなにやら強烈な違和感を感じる。

 これまではそんなこと考えたこともなかったが、冷静になってみてみると、チャン家の生活はあまりにも裕福すぎる。この村の住民たちから多くの小作料を巻き上げてはいるが、それだけでここまで立派な屋敷を構えて、あれだけ体に多くの貴金属を纏って生活することができるのだろうか。寺の建築にもかなり出資したと聞いている。

 否。小作料として持っていかれる割合と、この村の家の数から考えても、どう考えても計算が合わない。上の代から財産を引き継いだだけという可能性もあるが、確かチャン家はかつてはここまで裕福ではなかったと今は亡き祖母が言っていた。

 何か、別の収入源があるのではないか。サーレンはそう思った。

「気づいたか、サーレン」 

「何に?」

「この家の怪しさ、謎の資金源にだ」

「うん……。まあ、ね。これはさすがにおかしいと僕も思う」

「俺もだ。だからヤーイーの提案に乗ったんだ。もしかしたら、あくどいことをしている証拠をつかんで、チャン家を没落させることができるかもしれない。そうすれば、この村の人たちの、俺たちの暮らしも少しはましになるかもしれない」

 なるほど。それは確かに興味深い話だ。この赤貧生活から抜け出せかもしれないなら、やってみる価値はある。

普段はサーレンと一緒にヤーイーをいさめる役回りになることもあるリャンが、今回は積極的にヤーイーと一緒になって侵入を計画したのもうなずける。

「けどなんで僕にもっと早く話してくれなかったの。そしたら僕ももっとなにか協力できたかもしれないのに」

 ちょっと侵入してすぐ帰るつもりだったので、サーレンは何の用意もしてこなかった。

「お前にはまずこの屋敷をちゃんと見てもらって、それからじゃないと信じてもらえない可能性もあると思ったんだ。まあ、見ただけで察してくれたようで助かる」

 サーレンにとって、チャン家の屋敷をこうして近くで見るのは初めてだった。いや、ほとんどの村人がろくに見たことがないだろう。なにしろチャンは絶対に村人を招待したりしないし、村人は近づいただけでかなり警戒される。

 時折、役人らしき人間が入っていくのと、いつも季節の変わり目になると、ちょうど人ひとりを運べそうな迎駕籠で、何かが運ばれていくのみだ。それ以外の理由で、チャン家は決して従業員以外の他人を家に入れない。そして決して村の農民を従業員として雇おうとはせず、絶対に従業員を村人と接触させようとしないので、正直チャン家のことは村人たちにも全く分かっていないのだ。

 リャンの持っていた灯りをつけるわけにもいかないので、屋敷の外側の灯篭が放つ光を頼りにサーレン達は屋敷へと近づく。

一階では、灯りのついている部屋がいくつか連なっている。窓の隙間からのぞいてみると、そこは大広間になっており、何やら宴会が行われている様子だった。

十数人ほどの、位が高そうな男たちが酒を飲みながら談笑している。大きな机の上には、サーレンたちには一生食べることができないであろう高級感漂う料理が並べられていた。

 一番上座に座っている男には見覚えがある。確かチャン家の現当主だ。チャンは椅子からたちあがって、「皆さまお待たせしました。今日の主菜の登場です」と告げた。チャンの後ろにある扉が開き、料理人らしき男数人が何やら台座を運んできた。台座には三匹の猿が首を絞められて拘束されていた。必死で暴れて逃げようともがいているが、強力な金具を使っているのか、台座はびくともしない。

「ひ……っ!」

 その次に繰り広げられる光景を見て、サーレンは思わず声を上げてしまう。

料理人たちは、鋸のような刃物を持ち、猿の頭蓋骨にあてがって、ごりごりと削り始めたのだ。幸いにも、客人たちの歓声によってサーレンの声はかき消され、誰かに聞かれる様子はなかった。

なにやら硬いものが削れるような、嫌悪感を強く催す音がここまで聞こえてくる。猿はその間中ずっと苦しそうな声を上げていた。

頭の一部が完全に切り取られ、猿たちの脳が露出する。料理人たちは、その頭蓋に酒を注ぎこみ、客人たちの前へと持っていく。客人の男たちは、匙を使って猿の脳を掬い取り、口に運んで行った。しかし脳の一部を削り取られても猿はまだ死んでいないようで、虚ろな目で人間たちのほうを見つめていた。

サーレンはこちら側を見る猿が、まるで責めるように自分と目を合わせているかのような錯覚に陥る。思わず夕食に食べたものをすべて吐き出してしまいそうになった。

「やめよう。こんなものを見ていても、いいことはない」

 リャンがそう言って、ヤーイーとサーレンもそれに同意する。あんなものを見せられたら、普通は食欲など消し飛びそうだが、中の男たちは強い興奮に包まれているように見えた。

「狂ってる……」

 サーレンの口から思わずそう言葉が漏れた。男たちの歓声すらも、サーレンたちに強烈な不快の感情を呼び起こさせる。早くこの場を去らないと、どうにかなってしまいそうだ。

「けど、宴会で盛り上がっているなら好都合ね。私たちも侵入しやすそうだし」

 ヤーイーはまだ忍び込むつもりでいるらしい。サーレンとしては、あまりにも気分が悪いし、早いところ帰りたいのだが。

 しかしこの状況で一人だけ帰るわけにもいかない。リャンもヤーイーも、あんな光景を目の当たりにしてなおこの屋敷に侵入する気でいるらしい。

 屋敷の外周を探索していると、侵入口はあっさり見つかった。

 障子が少しばかり空いている一階の部屋を見つける。中には誰もいなさそうだ。サーレン達は障子を開いて中に侵入する。

 中は倉庫のように見えた。たまにチャン家から運び出される迎え駕籠や馬具などが所せましと小さな部屋に詰め込まれている。

 人の気配をよく確かめながら、サーレン達は廊下に出る。毛皮と思われる床敷きに、様々な調度品や絵画が飾られている。いかにも金持ちが自分の権威を示したいがために設計されていることがよくわかる。

目の前には階段があり、見たところ上下両方に向けて伸びているようだった。

「どうする。どっちに行く?」

「まずは下から行こう。地下は逃げ場がないし、宴会の興が盛り上がっているうちに探索してしまいたい」

 リャンの提案によって、先に地下へと向かうことが決まった。廊下には男たちの歓声がいまだに響いている。生きたまま頭を切り開いた猿の脳を食べることができるのは、そんなに盛り上がることなのか。どうしようもなく頭のおかしい人間たちだ。

 三人はリャンを先頭に、ヤーイー、サーレンの順で真っ暗な階段をゆっくりと降りていく。階段の先には大きな扉があった。

 サーレン達は三人がかりでその大きく頑丈な扉を開く。

 そこは、異様な光景が広がっていた。

 一階のような豪華絢爛な雰囲気はどこにもなく、簡素な松明に火がともされており、石造りの通路が伸びていた。通路の両側は格子で区切られて牢のようになっている。

 中には誰もいないようだ、そう思った直後、サーレンは自分の勘違いに気づく。

 いる。一つ一つの牢の中に。女の子が。

 誰もいないと一度勘違いしたのは、彼女たちがいずれもおびえた様子で奥にうずくまっていたからだ。薄暗いこの場所では、目を凝らさないとその姿を見ることはできない。

 一体彼女たちは何におびえているのかはわからない。一階で見た宴会もかなり異常なものだったが、地下のこの状況はそれとは比べ物にならないくらい不可解だ。

 サーレンは通路を奥に進みながら、牢の中をひとつひとつ見ていく。いずれも怯える少女が中に一人いるのみだ。

 通路の一番奥まで来て、サーレンは奥にうずくまらず、格子の近くで座りこんでいる少女がいることに気づいた。

 そしてサーレンは、その少女の美しさに目を奪われた。

 年はサーレンたちと同じくらいだろうか。病的なまでに白い肌。均整の取れたかわいさの残る顔立ちに、艶やかな長髪、細い肢体。その美しさはこの世のものとは思えないほどで、まるで桃源郷の仙女を思わせる。

 この暗い中でもはっきりと見て取れる麗しさ。一体この子が白日の元に出れば、どれほどまでに眩い存在になるのだろうか。

「誰……?」

 少女の麗らかさに目を奪われていたサーレンは、少女の声で我に返る。

 少女はふらつきながら立ち上がり、格子の前に立った。少しばかりの桃の香りが、サーレンの鼻孔をくすぐる。

「僕は、サーレン。君は?」

 サーレンは自らの被り物を剥ぎ取って言った。どうしてもこの少女に被り物をした醜悪な姿をさらしたくないと、なぜだかそう思ったのだ。

「私は、メイファン」

 まるで鈴がなるようなきれいな声で少女は言う。

 メイファン。なんて綺麗な名前だ。まさにこの少女にこそ相応しいだろう。

 これが、二人のの壮大で長い恋の始まりになるなどということは、もちろん今のサーレンには知る由もない。

 そのままサーレンとメイファンはただ無言で見つめあう。その沈黙を破ったのは、サーレンの同行者たちだった。

「サーレン。何やってるの」

「なぜそれを脱いだ。すぐにかぶれ」

 慌てた様子でリャンとヤーイーが駆け寄ってくる。また顔を隠す頭巾をかぶれと促してくる。

「地下の探索はもういいだろう。帰ろう」

 頭巾で顔を隠したサーレンは、抵抗空しくリャンとヤーイーに引っ張られて、地下室を後にする。

 そんな中サーレンは悟る。きっとあの少女のことは、僕の頭の中にずっと焼き付き続けるのだろう、と。

 再び大きな扉をくぐり、一階に戻ったサーレン達。さて二階に向かおうかとしたところで、二階から何やら足音が聞こえる。まずい。誰かが降りてきそうだ。

 サーレン達は慌てて侵入した倉庫に身をひそめる。

「ん? 誰かいるのか?」

 警備の者らしき男の声。大きな音を立てて一階へと降りてきた。

 サーレン達が声を殺して耳を澄ませていると、男たちの会話が聞こえる。

「どうした?」

「いや、ついさっきこの辺りで人の気配がしたんだが……」

「オレは見ていないが……。念のため、見張りを強化しておくか」

 そういいながら二人の男はどこかへ歩いていく、とりあえず、一時的に窮地を脱することができたらしい。

「二人とも、帰るぞ」

 リャンの言葉に、ヤーイーはあからさまに不快感を露わにする。

「ちょっと待って。まだなにもお宝を見つけてないんだけど」

「しょうがないよ。これからは警備を強化するって言ってたし、こんななか探索するなんて無茶だ。まだ向こうが準備にてこずっている間に、帰ったほうがいい」

「サーレンの言う通りだ。なに。全く収穫がなかったわけじゃない」

「収穫、なんのこと?」

「後で話す。今は逃げるのが先決だ」

 三人は屋敷に侵入したときと同じ窓から外に出る。そのままそそくさと塀に駆け寄って、敷地内に入るときに括り付けておいた縄を利用して、チャン家の敷地から脱出した。

「はあ……、はあ……。なんとか逃げ切ったわね」

 チャン家の敷地から離れて、農村に帰ったサーレン達。ヤーイーが集合場所にもなっていた寺の石段に体を預け、肩で息をしながら言った。

「ひどい失態をしでかしてしまった」

「え。何?」

「縄を塀に括り付けたままおいてきてしまった。もし見つかれば、侵入者がいたことをごまかせなくなるかもしれない」

 リャンらしくないミスだ。それほど慌てていたのだろう。

「取りに行く?」

「いや、今はかなり警戒されているだろう。幸いにもあの位置なら屋敷からは木陰に隠れてほぼみえないから。ほとぼりが冷めてから、……そうだな、明日の夜あたりに俺が一人で回収しておこう」

 縄の件はリャンに任せておいたほうがよさそうだ。サーレンは、先ほどから気になっていたことを問うてみることにした。

「リャン。さっき、収穫はあったって言ってたけど、何のこと?」

「ああ、そうだな。まだ謎は残っているが、ここなら安全だろうし、わかっているところだけでも話そうか」

 石段から立ち上がったリャンは、そういいながらも一応警戒しているのか、声を潜める。

「俺がヤーイーの提案したチャン家への侵入に乗ったのは、あの家の不自然な金持ちさ、つまり小作料以外の謎の収入源について探りを入れるためだということは、さっき話したな」

「うん。そうだね。さっき言ってたね」

 ヤーイーと同じく石段に腰を下ろすサーレンはそう返答する。

「その謎は、俺たちが行ったあの地下室にあったんだ」

 サーレンは思い出す。あの牢の中で少女たちがおびえている今思い出しただけで寒気がする異様な光景を。そしてそんな中ただ一人おびえを見せていなかった美しい少女・メイファンの姿を。

「おそらくだが、あの少女たちは娼婦だ。チャン家は、あの少女たちを収入源にあそこまで裕福になったんだ」

「え……。そんなバカな……。あの子たちは、男に体を売っているというの?」

 サーレンはリャンの言葉に思わず絶望せずにはいられなかった。あのメイファンが娼婦をやっているだなんて、考えたくはない。

「まだ話は途中だ。俺は正確にはそうではないと考えている。そう考えれば不自然な点が残ってしまうんだ。まず、ほとんどの牢の錠が埃をかぶっていたということ。彼女たちは長いことあの牢から出ていない。牢の出入り口は開かれていないんだ。これは、あの少女たちが男の相手をしていたわけではないことを示している。あるとすれば、あそこで少女を育てて、年頃になったら買い切りで売り払っているという可能性だ」

 リャンは「しかしそれはそれで疑問が残る」と付け加えた。

「あの程度の規模の女売りで、あそこまでチャン家が大きくなるはずがない。一年間で何人の少女を『出荷』させるのかは知らないが、娘を売る家など珍しくない中、ただそれだけでチャン家があそこまでの暮らしができるほどの収入を得られるとは思えない」

 リャンのいう「娘を売る家など珍しくない」という言葉は事実だ。幸いにして、三人の家はそのようなことはしていないが、村の中にも、あまりにも生活に困窮した末、娘を売ってしまた家は何軒もある。

 つまり、ただ女を売っているだけのところは数多くあり、そこまで高い値段をつけることはできないということか。おそらくあの少女たちは迎駕籠で運ばれているのだろうが、一年間での『出荷』の目撃情報は多くても三件程度。毎年三人の女を売るだけでは、あの屋敷を維持することすらできないだろう。

「リャンはどう考えてるの? どうやってチャン家はお金を得てるんだと思う?」

「これは俺の想像でしかないが……。あの地下で、あの少女たちには他にはない何らかの付加価値をつけられているんだろう。だから法外な値段で売り払うことができるんじゃないか。俺はそう考えた」

 なるほど。地下室で何かをしているのだと考えれば、あの異様すぎる状況にも少しは納得がいくというものだ。

「収穫って、それだけ……?」

 ヤーイーはリャンに問いかける。

「ああ、それだけだ」

「そんな……。それじゃあ何のお金にもなんないじゃない……!」

「いや、そうでもない。あまりにも非人道的なことをやっている証拠をつかめば、もしかしたらチャン家を没落させられるかもしれない。そうすれば、俺たちの暮らしは」

「そんなに長いこと待ってなんていられないの!」

 ヤーイーが叫ぶ。そのあまりの剣幕にサーレンとリャンが何も言えずにいると、ヤーイーは申し訳なさそうな様子で「ごめん。取り乱したりして」といった。

 一体どうしたんだろうか。ヤーイーはもともと感情の起伏が激しいタイプだが、ここまで何やら怒りを露わにすることはあまりない。

 その後は何やら変な空気になってしまったまま元に戻ることはなく、三人はそのまま各々の家に帰った。



 自宅に到着したサーレンは、外から差し込む薄い月明りを頼りに自らの布団に滑り込む。両親と弟妹たちはすでに寝静まっており、父親のいびきだけが家の中に響いていた。

 サーレンは布団の中で、ぼんやりと天井を見上げながら、今日の出来事を反芻する。

 サーレンの目に焼き付いているのは、地下で牢に入れられていたメイファンと名乗る少女。

 これまで見たどの女も比較にならないほどの美貌を、彼女は兼ね備えていた。

 あの子は「付加価値」のためにどのようなひどい生かされ方をしてきたのだろうか。チャンは平気な顔をして猿の脳を生きたまま食せるような奴だ。きっとどんな目に余る責め苦だってやってのけるだろう。

 そしてサーレンの頭の中によぎるのは、チャン家から迎え駕籠で何かが運ばれていくのは、いつもこの時期、収穫期の寸前だということ。

 メイファンはあの中ではほぼ最年長であるように見えた。

 もしかしたら、もう間もなくメイファンは売られていくのではないか。

 そう思うと、サーレンは謎の焦燥感に駆られる。

 だからなんだというのだ。ついさっき、ほんの短い時間言葉を交わしただけの相手じゃないか。なぜそこまで自分がそのような感情を持つ必要がある。

 サーレンは胸騒ぎを必死で抑えようとしたが、収まるどころかますます強くなる一方だった。

 その正体不明の不安感は、サーレンが肉体的な疲労のあまり眠りに落ちるまで続いた。

 次の朝、サーレンは母親にたたき起こされる形で目を覚ました。

「ほら! 起きな! もうみんな畑に行ってるよ!」

 母親は「夜中にほっつき歩くから朝起きれなくなるんだよ」と文句を言ってくる。サーレンはあまり気にすることなく畑へと向かった。

 炎天下で農作業をするサーレンの頭に浮かぶのは、やはり昨夜見たあの少女の顔だった。

 なぜか、あの子の顔が焼き付いて離れない。サーレンは困惑する。

 その迷いは、これまでサーレンが一度たりとも恋をしたことがなかったが故に、抱えた感情の形を理解できずに生まれたものだったが、今のサーレンにはそれに気づく由もない。

「お兄ちゃん。どうしたの?」

 メイファンのことを思い出して、ぼーっと突っ立っていると、弟が心配そうに声をかけてくる。サーレンは「ごめん。なんでもない」と言って作業に戻った。

 おそらくそう遠くない未来、あの子は男に金で買われて夜の相手をさせられる。そう思うと、サーレンはなぜか心を鷲掴みにされたかのように苦しくなる。

 そして、サーレンの頭の中に、ある一つの選択肢がよぎる。

「僕が、あの子を助ければいいんじゃないか……?」

 そう呟いて、サーレンは直後恐怖感と罪悪感に襲われる。いったい自分は何を考えているのだ。そのようなことをして、許されるはずがない。

 サーレンは真面目な少年だった。たまにリャンやヤーイーの悪ふざけに対して、見て見ぬ振りすることはあったが、基本的には決して悪事に手を出さない、品行方正な少年と村の中では評判だった。家族からの信頼も厚い。

 そんなサーレンにとって、罪を犯すことへの心理的な抵抗はとても大きかった。

 大体、何らかの手段であの子を連れ出したところで、そのあとはどうする。あんな白い肌を持った美しい少女がいたらこの上なく目立つし、チャンはきっと徹底的に村中を調査するだろう。もしサーレンが犯人であることがばれれば、家族だって無事では済まない。

 けど。それでも。

 僕はあの子を放っておきたくはない。あの子と、もっといろんなことを話したい。あの子と一緒にいたい。

サーレンはそう思った。

 直後、サーレンはぶんぶんと首を振って、頭の中にある考えを振り払う。何をバカなことを考えているのだ。そんなこれまでの人生のすべてをかなぐり捨てるようなこと、許されるはずがない。

 夕方、農作業が終わったサーレンは、農具の掃除を妹に任せて家に帰ろうとした。

「………」

「どうしたんだい。サーレン」

 突然立ち止まったサーレンに、父親と一緒に歩く母親は尋ねた。

「ちょっと、お寺行ってくる」

 そう言って、サーレンは両親の返答を待たずに走り出した。

 向かったのは、昨夜の集合場所にも使った寺。サーレンは石段を登って鳥居をくぐり、本堂の前に立つ。

 賽銭箱の向こうにある扉は開かれていて、奥にはこの寺で祀られている慈母観音と呼ばれる女の仏像が置かれていた。

 僕は、どうすればいいんですか。そんな罪を犯して、僕は許されるのですか。

 そう心の中で問いかけても、もちろん観音像は答えない。

 衝動的にここへきてしまったが、観音様に尋ねて解決するわけないじゃないか。サーレンは自嘲気味に笑った。

「サーレンくんではありませんか。どうか、されましたか」

 横から声をかけられて、サーレンはそちらに視線を向ける。そこには寺の僧リーが箒を持って立っていた。

「あ、いや……。ちょっとお参りに来ただけです。ご迷惑をおかけしました。これで帰ります」

慌てて逃げ出そうとしたサーレンは、「待ってください」という声に止められる。

「何か、悩んでいる様子ですね。ぼくなんかでよければ、話を聞きますよ」

 そうだ。いつもこの人は村の子供を目にかけてくれているんだ。サーレンが幼いころ、両親に怒鳴られて泣いていたところを慰めてもらった経験もある。

 サーレンは、細かいところをぼかしてリーに今の懊悩を相談することに決めた。

 リー招き入れられ、サーレンは本堂の中に入る。そして横の小部屋へと通された。

 中には大きな十字架が壁に貼り付けてある以外、何もない部屋だった。外からの光も音も入らず、ただ二人の活動音とろうそくの明かりだけが存在している。

「ここなら、他の誰かに聞かれる心配もありません。安心してください」

 そう言いながらリーは正座する。サーレンは慌ててその向かいに座った。

「で、なんですか。君の悩みは」

 そしてサーレンは今抱えている悩みを話すべく口を開いた。

「実は、僕にはいま助けたい相手がいるんです」

「ほう。それは素晴らしいことではありませんか」

「いえ……。けどその助けたいっていうのも僕の独善かもしれなくて、しかもその子を助けるためには大きな罪を犯さなければならないんです。家族に大きな迷惑がかかるかもしれない。それで、どうしたらいいかわからなくて……」

「それは、罪を犯さずに助ける方法はないんですか?」

「はい。ありません」

「それは、熟考した結果ですか?」

「はい。間違いありません。ほかに方法はないと思います」

「そう、ですか……」

 リーは何やらしばらく考える様子を見せる。そして。

「サーレンくん。君のとれる行動は二つあります。一つは、その子のことを綺麗さっぱり忘れてしまうこと。半端に心にとめると君が一番苦しくなります。もし実行しないのであれば、今回の件はもう思い出さないようにしたほうがいいでしょう」

 確かにリーの言う通りだ。しかし、メイファンのことを忘れることなどできるのだろうか。一日経った今でも、まるで初めて会った時の直後であるかのようにあの麗しさを明々に思い出せる。きっと、死ぬまでこの記憶が褪せることはないだろう。

「もう一つは、罪人になる覚悟を持ったうえでその子を助けることです。しかしこれは言うまでもなくおすすめできません。君のような清廉な少年が罪を犯すのは、ぼくとしても見たくありません」

 その後リーは「ただ……」と付け加える。

「それが本当に善なる行為なのであれば、主は必ずあなたを祝福してくださるでしょう。たとえ誰にも評価されなくても、誰から疎まれても、それは神の国に天の国へ行くための宝を積む行為になります。君がその子を助ける行動が、どうしてもやりたいことなのであれば、これまで手に入れてきたすべてを捨ててでもするべきことだと思うのなら……」

 そこでリーは言葉を切る。長い沈黙の後、再び口を開いた。

「この辺にしておきましょう。あくまでぼくは君に罪人になってほしくないと思っていることだけは伝えておきます。それと、ここで聞いたことは絶対に口外しないので安心してください」

 サーレンはリーに案内されて本堂から出る。サーレンは「ありがとうございました」と告げて、鳥居をくぐって石段を下りた。

「サーレン……」

 石段を下りたところでヤーイーに出会った。何やら目が赤く、目の下が腫れている。ついさっきまで泣いていたのだろうか。

「ヤーイー、どうしたの。なんかつらいことでもあった?」

「う、うん。ちょっとね」

 そしてヤーイーは「あの、さ。サーレン。ちょっと知恵を貸してほしいんだけど」と言ってきた。

「なに? 僕に解決できることかはわからないけど」

「ありがと。来て」

 サーレンはヤーイーに連れられ、彼女の家へと向かう。

 サーレンの家と同じ、古くて汚く狭い平屋。中にはヤーイーの弟妹たちが走り回っていた。

「こっちよ」

 ヤーイーに連れられ、一番奥の部屋に向かう。そこには、ヤーイーの母親が布団に横たわっていた。

 それは、一目でわかるほどの重病人の姿だった。

 顔色は非常に悪く、手足も数か月前に見たときよりずっと細くなっている。ほぼ常に咳き込んでいた。

「サーレンくん。ごめんねえ。応対のひとつもできなくて」

「い、いえ。そんな」

 最近姿を見ないなあと思っていたヤーイーの母親。まさかここまで容態が悪くなっているとは想像だにしなかった。

「ヤーイー。お医者さんには見せたの?」

「そんなお金あるわけないじゃない。サーレンの家だって、重病人が出たら医者にかかる余裕なんてないでしょ?」

 ヤーイーの言う通りだ。実際、サーレンの弟と妹は一人ずつ病気で死んでいる。おそらく医者に頼れば治るはずだったのだろうが、そんな金はサーレンの家にもなかった。

「ヤーイー。もしかして君は……」

「待って。話は外でしましょう」

 ヤーイーはサーレンの言葉をさえぎるようにしていう。

 サーレンとヤーイーは、二人並んでヤーイー家の軒先に腰をかけ、空を見上げる。

「さっきは遮ってごめんなさい。……大体想像はつくけど、何を言おうとしていたの?」

「もしかして、ヤーイーはお母さんを助けるためにチャンの家から何かを盗もうとしていたの?」

「やっぱり、バレバレよね。まあ説明する手間が省けてよかったわ」

ヤーイーはため息をつきながら言った。

「その通りよ。あたしはお母さんを医者に見せるお金を手に入れるために、チャン家から何かを盗み出そうとしてたの。……完全に失敗しちゃったけど。だから、もう身売りでもするしかないのかなって思ってるわ」

「そんなの……っ!」

 駄目だよ! と言おうとしたが、サーレンはその言葉をすんでのところで飲み込んだ。

 ヤーイーがこんなことを言い出すなんてよほどのことだ。おそらくきっとかなりの覚悟があってのことなのだろう。だからそれを感情的に否定するようなことはしたくなかった。

 ヤーイーはメイファンほどではないがだいぶかわいい顔立ちをしているし、それなりに人気も出るだろう。うまく立ち回れば、そこまでひどい身売りをしなくても芸者のような存在としてやっていけるかもしれない。 

 だから、サーレンは一つだけ確認することにした。

「ほんとに、覚悟のうえなの? どういうことするか、わかってる?」

「なるべく本当に男に体を差し出すまではやりたくないけど、いざってときは仕方ないと思ってる。お母さんを、大切な人を助けるためだもん。私はなんだってやってみせる」

 ヤーイーの決意に満ちた目。それを見て、サーレンはある決意を固めた。

 しかしそれを億尾にも出さず、ヤーイーへと向けて賛美の言葉を贈る。

「ヤーイーは、強いね」

「そ、そう?」

「強いよ、君は。ほんとに、僕なんかとは比べものにならないくらい」

 サーレンは、自分の目から少しばかり涙が零れていることに気付いた。

 ヤーイーがいなくなる悲しみか。いや、それも確かに悲しいことではあるのだが、それに対する涙とは少しばかり違うような気がした。

 なら、なぜ。

ヤーイーは「ありがとう」と言いながら立ち上がる。そしてサーレンのほうを向き直って。

「あたし、サーレンのことが好き」

 真剣なまなざしでサーレンの目を見てそう言った。

「え……?」

 サーレンはその信じられない言葉に、思わず聞き返す。

 しかしヤーイーはそれに返事することなく、サーレンの首の後ろに手を回す。そして唇をサーレンの顔へと寄せていった。

「あたしはこれからけがれるかもしれない。だから、その前にサーレンがあたしを汚して」

 サーレンは驚きのあまり体が硬直してしまい、ヤーイーを引きはがすことができなかった。ひとり慌てている間にも、ヤーイーは徐々に顔を寄せてくる。

 どうすればいい。どうすればいいんだ。そう考えていると、突如ヤーイーはサーレンの体を解放し、距離をとった。

「……あなたは、そういうことなのね」

「ど、どういうこと?」

「あなたは、あたしでない誰かを好きになってる。あなたの心に、あたしが付け入る隙はないみたい」

「ヤーイー。君は一体何を……」

「あなたに想われる女が本当にうらやましいわ。ごめんなさい。こんなことして」

 そう言い残してヤーイーは自分の家に逃げるようにして飛び込み、出てくる様子はなかった。

 


 サーレンは一人、もうすっかり暗くなった道を歩いて帰路につく。

 そしてヤーイーの言葉を思い出していた。

『あなたは、あたしでない誰かを好きになってる』

 もしこの言葉が本当のことだとすれば、考えられる可能性は一つしかない。

 自分は、メイファンに恋をしているのだということ。

「もう、僕はやるしかないのかな」

 家に帰ったサーレンは、家族とともに夕食を食べる。いつも通りの貧相な食事だったが、サーレンにはそれがいつになく美味に思えた。

「サーレン。明日は約束通りおれと一緒に狩りに行こう。楽しみだなあ」

 父はそう言って笑う。父はまだ知らないのだ。自分と一緒に狩りにいくことなどできないということを。

 布団に入っても眠らず、他の家族が寝静まるのを待つ。

 皆の寝息が聞こえてしばらくたったころ、サーレンは布団から起きだして、皆を起こさないように慎重に部屋を出る。

 まず家にある一番大きなカバンを選び、そこにできる限り服や日用品を詰め込む。鎌なんかも持って行ってもいいかもしれない。そして家の金を少しばかり拝借した。

 そして父の猟銃を一本、そしてある程度の弾と火薬を手に取る。さっき明日はサーレンと狩りに行くからと、上機嫌で整備していたから、きっとすぐに使えるはずだ。

 家を出ようとしたところで、サーレンはまだ家族に別れの挨拶をしていないことに気付く。字でも書ければ手紙を残して行けたのだが、生憎学校にも行っていないサーレンはろくに文章を書くこともできなかった。

 サーレンは寝室に戻り、寝静まった父と母と、そして弟妹たちに向かって頭を下げる。

「これまでありがとう。そして……。さようなら。運がよかったら、また、会おうね」」

 そう言い残して、サーレンは家を出る。またこの家に戻ってくることは叶うのだろうか。

 家から踏み出したサーレンは、「後悔しないか」と自問自答する。「今ならまだ引き返せるぞ」と。「今からお前がやることはこの暖かい暮らしを捨てるほどの価値があるのか」と。

「うるさい……」

 サーレンは自らの心の声に対してそう怒りの混じった声を上げた。やると決めたらやるんだ。やらなくちゃいけないんだ。僕しか彼女を救うことはできないんだ。

 サーレンは、昨日と同じ道を使ってチャン家の裏手を目指す。途中でヤーイーの家やリャンの家が目に入って、思わず涙が零れそうになる。

 何度も何度も引き返そうかと迷った。

 何度も何度もこんなことはやめて、またみんなで楽しく暮らしたいと思った。

 しかし、それでもサーレンは決して歩みを止めなかった。

 チャン家の裏手、昨夜忍び込んだ時と同じ場所にサーレンはたどり着く。どうやらまだリャンは縄を回収していなかったようだ。これを使えば簡単に侵入できる。

 サーレンは持ってきたカバンをその場において、昨日も使った顔を隠す布と猟銃だけを取り出した。確かこの銃の装填数は五発。替えの弾を持っていく余裕はないし、なるべく人に向けて撃ちたくはない。できれば試し打ちをしておきたいところだが、間違いなく銃声で見つかってしまうし、なにより父が手入れしたばかりなのだからと信じるべきだとして、サーレンはこのまま試し打ちすることなく行くことに決めた。顔を隠すのは、逃げおおせても顔を見られた場合に、家族へ迷惑が掛からないようにするためだ。

 猟銃を背中に固定し、縄を使って塀に上る。そして縄を内側に垂らしてから、サーレンは塀から飛び降りた。

 今日は宴会をやっている様子はない。昨日よりも警戒していたほうがいいだろう。倉庫の窓も開いているとは限らないので、他の出入り口を選ぶ可能性も視野に入れてサーレンは銃を構えてチャンの屋敷に近づいた。

 幸いなことに、昨日と同じ倉庫の窓が開いていた。サーレンは中に誰もいないことを確認してから侵入する。

 中に置いてあるものの配置は、サーレンの記憶の限りでは変化していない。もしかしたらここはほとんど人が立ち入らない場所なのかもしれない。

 そのままサーレンは廊下に出る。横切って、階段をゆっくりと降りた。

 今日も地下室への入り口に見張りはいなかった。その扉はやはり大きく重い。昨日はヤーイーとリャンがいてくれたから、さほど苦労せずに開くことができたが、今日はたったひとりなのだから骨が折れる当然だ。

 サーレンは、力いっぱい扉を引っ張って、その隙間に頭巾を丸めて詰め込む。そしてできた扉の隙間に指を入れて、全体重をかけてなんとか扉を開いた。

 そうして踏み入れる牢の並ぶ不気味な地下室。サーレンは迷うことなくメイファンのいる牢に駆け寄る。

 メイファンは昨日見たときと同じように、布団に座り込んでぼんやりとこちらにそのあまりに美麗な顔を向けていた。

「誰……?」

「メイファン。僕だよ。昨日も会ったでしょ」

 サーレンは頭巾をはぎ取って、顔を見せる。

「サーレン……。どうしてここに」

「メイファン。僕は君のことを助けに来たんだ。僕と一緒にこの屋敷から、いいや、この村から逃げ出そう」

 サーレンの言葉に、メイファンは目を見開く。そしてふらふらと立ち上がって、サーレンの前へ立ち牢に手をかける。再び甘い桃の香りをサーレンは感じた。

「どういうことなの? あなたは、何者?」

「事情はあと。このままだと君は男に売られちゃうんだ」

「知ってる。明後日には、出荷するって言われた」

 やはりメイファンが売られていく日はかなり近かったのだ。すんでのところでメイファンを助けることができそうだ。

「そんなの、僕は耐えられない。だからこうして、君を連れ出しに来たんだ」

 メイファンは面食らった様子を見せる。そんな表情もまた非常にかわいらしい。

「メイファン。牢から離れて」

 サーレンが銃を構えると、メイファンは指示に従って牢から数歩距離をとる。それを確認したサーレンは、牢の鍵へと向けて二発の銃弾を発射した。

 落ちる薬莢と強い火薬の匂い。この銃声が上まで聞こえていないことを祈りながら、サーレンは完全に壊れきった鍵をつかんでむしりとる。そして牢の扉を開いた。

「メイファン。僕と一緒に逃げよう」

「で、でも……」

「僕が君を守る。だから……っ!」

 サーレンはメイファンに向かって手を差し出した。

 メイファンは暫しの逡巡を見せたのち、恐る恐るといった様子で、サーレンの手をつかむ。

 初めて触れるこのとのできたその小さな白い手は、少しばかりひやりとしていた。

 メイファンはサーレンと手をつないだまま、何もはいていない足を震わせながら一歩、また一歩と足を進めて、牢屋の外へと出た。

「逃げよう。いつ見張りがここにくるかわからない」

 サーレンはメイファンと手をつないだまま、先ほどの大扉の所へと戻る。銃声を少しでも誤魔化すために閉めておいたのだが、おかげでまた開けなおしだ。

 思い切り扉に向かって体重をかける。引くときよりは楽なはずなのだが、それでもなかなか扉は動かない。

 メイファンはサーレンの意図するところに気付いたようで、一緒になって扉を押してくれるが、メイファンの助力による効果は驚くほど薄かった。

 なんとかしてサーレンは扉を開いて、階段を上る。メイファンはかなり足が遅く、サーレンの助けがなければ普通に階段を上るのも若干苦しそうな様子だった。

 一階の廊下に出たサーレンは、そこにある建物横側の扉の鍵を開いて外に出た。この子には窓枠を超えるのは難しそうだし、どうせ誰かが侵入したことはすぐにばれるのだから、そこに躍起になっても仕方ないだろう。

 サーレンの予定では、この後塀を超えてきたロープを使ってまず自分が塀に登り、メイファンを引き上げて逃げるつもりだったが、メイファンがこの様子では到底そんなことはできそうにない。

 仕方ない。かなり危険だが、リャンの「どうせ見張りのやる気なんてない」という言葉を信じて、ここから正面に見える、正門から見て左側の裏口から脱出しよう。

 メイファンに「ここに隠れてて。合図したらこっちに来て」と告げて、敷地の角にある木陰に隠す。そして銃を持って裏口へと近づいた。

 見張りは一人。なら簡単だ。

 槍を持った見張りの男が、裏口の向こう側、敷地の外で藁を敷いて眠っていた。静かに動けば見つからずに脱出できるかもしれないが、やはり裏口を開ける時の音で確実に起こしてしまうと思われるので、サーレンは策を考えることにした。

 裏口の鉄柵をゆっくりと開く。小さくとも甲高い音が鳴り、男は「え?」と言いながら目を覚まして起き上がった。

 サーレンはまだ立ち上がっていない男の口に躊躇なく猟銃を突っ込み、「動くな」となるべくドスを聞かせた声で言う。男は寝起きに起こったあまりにも壮絶な事態にパニックを起こしていた。

「そのまま立ち上がって、後ろを向いて。振り向いたら殺すよ」

 サーレンは男の口から銃を引き抜いて、男を立ち上がらせて後ろを向かせた。

 そして片手で銃をいつでも発射できる状態に構えてから、頭巾を脱いで男にかぶせる。そして銃を固定していたロープを使って男の手足を後ろで縛って、さらに軽く頭巾を固定する。外に出て、裏口から少しそれた場所に男の体を転がした。

 これなら大声を出しても届かないし、自分でチャン家の屋敷に戻ることは不可能だ。明日の朝になれば誰かが見つけてくれるだろうし、この男が死ぬ心配はおそらくない。

 サーレンは再び塀の中に戻り、メイファンを迎えに行く。

 再びメイファンの手を引いて、サーレンは裏口から外に出て、鉄柵を閉じた。

 そして、星空を見上げてふうと息をつく。

 まだだ。まだ安全な場所まで逃げたとは言えない。メイファンを連れてこの村にいる限り、息をつける場所など存在しないと思ったほうがいい。

 サーレンは侵入口においてきた鞄を回収して、メイファンのもとに戻った。

 今は夜だが満月に近い月の明りと星明りのおかげで、あの地下室よりは明るい。さっきよりも明るい場所で、サーレンは初めてメイファンの顔をはっきりと見た。

 その姿は、地下室で見たものとは比べ物にならないほどの美しさを醸し出していた。

 月の光を反射する真っ白な肌。顔立ちは何かの芸術品かと思うほど均整が取れている。

「……サーレン?」

 メイファンが不思議そうに問うてくる。しまった。つい見とれてしまっていた。

 この子がもうすぐ売られかけていたなんて、考えただけでぞっとする。

「行こう。いつ追手が来るかわからない」

 サーレンはメイファンの手を引いて、村から逃げるべく歩き出した。

 行先の宛てはない。これからどうやって生きていけばいいのかはわからない。

 もう後戻りはできない。サーレンはこれまで積み上げてきた微かな実績すらも、今こうしてすべてぶち壊してしまった。

 あのまま家にいれば、貧乏に苦しむことはあれど、もう慣れた暮らしを続けて、平凡に生きていくことができただろう。平凡な幸せを手に入れ、平凡に年を取り、平凡に死んでいたことだろう。 

 しかし、それらをすべて捨てるだけの価値が、この少女にはある。サーレンはそう確信していた。

 この鼓動の高鳴りは、恐怖か、それともメイファンと共に在れることへの喜びか。

 わからない。

 だから今それらを心配したところで仕方がない。

 今はただ、目先のことを考えよう。

 そして、目の前にメイファンがいるこの幸せに、ただ感謝しよう。

 そう、思った。



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