5 事情があったとしても納得できるものとできないものがある
「いいですね、そういう誘いがたくさんあるひとは」
普段の彼なら、まずこんな言葉は言わない。彼は言葉に人一倍気を付ける人間だった。
だがこの時は違った。彼は珍しく、酔っていたのだ。ちょうどライヴの曲間だったのがいけなかった。客の視線が彼等に集まった。
「…別にたくさんある訳じゃないよ?」
「BELL-FIRST」というバンドのギタリスト兼リーダー・奈崎は、穏やかな声で答えた。
「ベルファ」と略されて呼ばれることの多いこのバンドは、当時、テクニックと曲の良さにに定評があり、倉瀬を初めとした常連バンドプレイヤーにとって、ある種の尊敬の対象でもあった。
メジャーからの誘いも幾つかあった。この日も、奈崎はその一つと、先程まで交渉していたのだ。そして断っていた。これで三社目だ、と何処かで声がした。羨ましい、と倉瀬はそれを見て、心から思った。
彼にとってこの時期は最悪と言っても良かった。上京して二年後。彼のバンドは最悪の時期を迎えていた。ヴォーカリストが家庭の事情で抜けたのだ。
「家庭の事情」に彼等は弱い。もともと「家庭」を捨てて来た者の場合、特にそうだ。
そしてそういう者に限って、どうにもならない壁にぶつかった時に、見計らった様に、故郷で事件が起こったりする。
「好きなことを好きな様にしている」というのは、案外彼等の奥で罪の意識となっている。倉瀬も心当たりが無い訳ではないから、「家庭の事情」で去る仲間を無理に止めることはできなかった。
しかしバンドの顔であるヴォーカリストを切るのは苦しかった。またメジャーへの道が遠のいたのだ。
だからつい「まだ自分達には早いから」という言葉でレコード会社の人間と別れたベルファのリーダーに向かって、言わなくてもいい嫌味を言ってしまった。
「ホント、たくさんある訳じゃあないさ」
奈崎は言った。冷静だった。だがその冷静さが、その時の倉瀬には苛立たしかった。
なのに。
「まあ聞いて」
奈崎は倉瀬を横に座らせ、穏やかな口調で説得を始めた。この時彼が倉瀬に言ったのは、音楽とビジネスとの兼ね合いのことだった。
「急いては事をし損ずる、と言うだろう? 僕等の場所は、僕等が決める」
奈崎は歳の頃は倉瀬より七、八歳上だったろうか。言葉少なに、だが真摯に彼に向かい、現在の自分達の状況を話してくれた。
内容はともかくその態度に、彼の酔いはすっと醒めていった。そしていつの間にか、現在の自分の状況のことを相談までしていた。
「うーん、それは確かに難しいね」
そして奈崎はやはり真面目に受け止めた。
「うちもずっと、ベースだけが交替交替だったからね。…実はね、今も怪しいんだよ」
奈崎はこそっ、と声を潜めた。
「仕方ないわよ。あんたとノセが仲良すぎるんだから」
彼等が座っていたカウンターの女性は、そこで初めて口を挟んだ。
「おや、ナナさんや、妬く?」
「は、誰が。ねー」
この人がナナさん。彼はまじまじとその女性を見た。彼等が根城にしているライヴハウス「ACID-JAM」のスタッフ。ベルファのヴォーカリスト・能勢の恋人。そして出演常連バンドマン達の「憧れの姉貴分」。
彼女は話を引き継いだ。ベルファは元々、奈崎が能勢と中学時代に、遊び仲間から発展させたバンドなのだと。ベーシストとドラマーはその後に加入。ドラマーは定着したのだが、何故かベーシストはそうならない、と。
「ところでクラセ君、この子にはオレンジジュースでいい?」
と、その時ナナはあら、という表情をした。トモミはその視線に、抑揚の無い声で答えた。
「…刺激が強いから」
あ、と慌てて倉瀬は後ろを向き、慌ててサングラスのせいで上がっていたトモミの髪を耳から下ろした。
―――彼女は耳栓をしていたのだ。
ふうん、とナナは不思議そうにトモミを見た。トモミは黙ってオレンジジュースをすすった。倉瀬は酔いが一気にふっ飛んだ。
ちなみにトモミもその頃ベースをやっていた。腕は彼に匹敵していたと言ってもいい。いや、下手すると正確さに関しては、彼より上だった。だがそれだけだった。彼女の音楽活動は、部屋の中だけに留まった。
何しろ彼女は、ライヴハウス特有のあの喧噪が全く駄目だった。アンプで増幅された音の塊となるともうお手上げだった。
それで何故こんな楽器をするのか、と言いたくなりそうだが、彼女は音楽自体は好きだった。問題は音や振動のバランスらしい。
ブラスバンドの時はかなりの音響でも大丈夫だった。嫌いだ、と言っていた高音部、ソプラノ・サックスやピッコロの音も、合奏状態になってしまえば大丈夫だった。
だがロックバンドは。
「曲は好き。でもここじゃ聴けない」
CDは良く買い込んでいた。そしてオーディオのイコライザーを自分好みに動かして、一番いいバランスを見付けては、繰り返し繰り返し気に入った曲を聴いていた。時には一曲を延々一日掛けていることもあった。
しかしライヴとなるとそうもいかない。彼女は好きになったバンドのライヴでも、二曲くらいでリタイヤすることが殆どだった。
理由は大きく分けて三つ。
一つは音。そして光。最後に人混みだった。どれもライヴハウスには当然な物である。いや、醍醐味と言ってもいい。
だが相変わらず人に予告無しに触れられることを厭う彼女には、暗闇の中、自分を押しのけていく同世代の少女のエネルギーそのものが、既に凶器だった。
ロックには時々ありがちな、「バランスを崩す程の音」。そもそも安定を求めた音楽では無いのだから、当然と言えば当然だ。
そして光。刺激的に点滅する色色色。この予告無しの刺激もやはり彼女には毒だった。
だけど「生音が聴きたい」と彼女は主張した。彼は困った。非常に困った。苦肉の策として、耳栓とサングラスが登場した。
「おいおい、暗闇でサングラス、かよ!」
彼女を知っているバンドのメンバーはそれを見て、呆れた様に言った。実際、倉瀬も半ばやけだった。
だがそれはかなり有効だった。耳栓とサングラスは、まず彼女に「刺激が強いところに行くんだ」という無意識の予告となった。
だがつい、サングラスをすると、ついでに髪を耳にかき上げてしまうこともあった。頬に髪があたると、それだけでたまらないかゆみや熱を感じてしまう、というのだ。
それでも。倉瀬はまずいところを見せてしまった、と思った。
ライヴハウスにはまず、刺激を求めて来る者が殆どだろう。なのに「刺激が強いから」とその場で与えられる音や光を半ば否定する様な言動を取るのは。
「…しまったなあ」
と彼は帰り道、何度もつぶやいた。せっかくベルファのメンバーとも仲良くなれた様な気がしたのに。
「クラセ、足が遅い」
真っ直ぐ歩いて行くトモミに彼は、はいはい、と重い足をひきずって行ったものだった。
だが彼の予想は外れた。
何とナナはそんなトモミに興味を持ってしまったのである。しかも決してからかい半分ではなかった。
「全くあんたらしいったら。それで仲良くなれちゃったなんてねー」
憮然とした倉瀬の表情に、きゃはは、と当時の「カノジョ」は笑い、ファーストフード店のテーブルを思い切り、何度も叩いた。
「おい史香… そこで笑うかよ」
「いいじゃない。結果オーライ」
付き合って約一年の「カノジョ」である史香は、彼にぽん、と言葉を投げつけた。
彼は周囲にはトモミを自分の妹だ、と紹介していた。名字が違うのは、家庭の事情だ、とはぐらかして。
トモミの性質も、彼のその嘘をカバーしていた。一度でも彼女に直接会って話せば、彼女が普通の女の子と何処かずれていることは判る。
何よりも、この二人の間には男女の関係を持つ者特有の空気が無かった。
「ところで義高、この間貸した千円、今日こそ返してくれるでしょうね?」
「…お前そこでそう来るか」
忘れていた訳ではないが、その話題の次に持ってくるか、と彼は思わずテーブルに突っ伏した。
「ったり前じゃなーい! 千円だろうが百円だろうが、あたしが毎日せこせこと稼いだお金よ。一円に笑う者は一円に泣くのよ!」
だが彼女のこの勢いはややキツめながらも心地よかった。彼女はトモミとはまるで反対だ。現実に生きる人間であり、女だった。それは関係の肉体的深さだけではない。
「お前、俺の不幸にはほんっとうに同情してくれないのね」
「ああ? 甘えてんじゃないの。それよりあたしには、今日のおかずの方が問題!」
彼女は姉と二人暮らしだったが、どちらもまだ新入社員の様なもので、日々は節約の嵐だという。炊事当番、掃除当番など、じゃんけんで決めたり、残業が少ない方がする等、毎日が何処かサバイバルじみているという。
「いいよねぇ、あんたのとこ。あのでかいマンション、あれ分譲でしょ? 金持ちっ!」
「だけどあれは、トモミがもらったんだって言ったろ。俺には分けてくれなかったって」
「でもあんたおにーちゃんじゃないの。住めるだけいーじゃない。ウチなんて、二人で2DKよ! しかも東向き!」
以前日当たりの悪い六畳一間に住んでいた、という過去は彼女には言えなかった。
「あー全く。半分分けて欲しいくらいだわ」
彼女と話すことは楽しかった。共通の話題が特別にある訳ではない。日常あった出来事を、こうやって時間がある時に会っては、ぽんぽんと話すだけだ。ただ、無駄な説明が要らない。どんな話題であったにせよ、そこには投げれば投げ返してくる言葉のキャッチボールが存在していた。
自分がそういう「普通の」女の子との会話に飢えていたことに、倉瀬は彼女と出会って、ようやく気付いた位だった。
無論、だからと言ってトモミが嫌になった訳ではない。彼女は彼女、トモミはトモミである。どちらも大切だった。ただ、その大切のベクトルの方向が、全く逆を向いているだけで。
彼は、そう思っていた。あくまで彼は。
「妹」のトモミと「カノジョ」の史香。
守らなくてはならないトモミと、一人で立っている史香。
二人は彼にとって、全く別の対象だった。どちらかが欠けるということなど、思いもよらなかったのだ。
*
「あーっ!」
叫び声でその朝彼は目を覚ました。
「トモミ!」
彼は飛び起きる。以前、宅配便が来た時、トモミが混乱したことがあった。またそれだろうか、と彼は足早に玄関へと向かった。
確かに来客は手に何かを持っていた。だが宅配便屋ではなかった。
「義高」
押さえ込む様な声が、彼の耳に飛び込んだ。
「史香?」
扉を背に、紙包みを片手に抱えた史香がそこには居た。足元ではトモミがうずくまって、顔をしかめ、耳を塞いでいる。何かあった?
「…おい史香、こいつに何言ったんだ?」
「…義高の嘘つき」
ややかすれた声が耳に届く。彼は身構えた。
「妹だって言って! 違うんじゃないの!」
いつもより高い声だった。強烈な声だった。それが玄関と廊下に響き渡る。足元のトモミは更にぎゅっ、と塞いだ耳を強く押さえた。
次の瞬間、彼の顔に紙包みが直撃した。
なま暖かい。彼はう、とうめき、中身が足の甲に、足元に、ばらばらとこぼれ落ちるのを感じた。甘い香ばしい香り。今川焼き。
「…おい、落ち着けよ、史香…」
「いい加減な説明で今まではぐらかして!」
「…それは…」
「言い返せない?」
間髪入れずに彼女は問いかけた。そして答えを待たずに次の言葉を撃ち放つ。
「言い返せないんでしょ! やっぱり本当なんだ! あんた達!」
「おい史香! 俺の話も聞けよ!」
「聞きたくないわよ!」
吐き捨てると、史香は勢い良く扉から出て行った。扉は大きな音を立てて閉まった。
その音にまだ耳を塞いだままのトモミがびく、と震えた。
「おい!」
彼は慌ててその後を追いかけようとした。と、足元の今川焼きがぐちゃり、とつぶれた。クリームが廊下に広がり、彼は一瞬バランスを崩した。それでも何とか靴箱に手をつき、転倒だけはまぬがれた。
そしてそのまま、汚れた足にサンダルをひっかけると、通路へと飛び出した。
しゃんとした背中、きゅっ、とショルダーバッグのベルトを掴む手の白さが目に飛び込む。
かっかっ、と堅い低いかかとの靴が力強く通路を歩いて行く音が耳に飛び込む。
待てよ、と彼は内心叫んだ。
お前、俺に弁解の一つもさせないで行くつもりかよ。
確かに不注意だった。ずっとずっと、友人達皆に「姓は違うけどきょうだいだから」で通してきて、皆それで納得していると思いこんでいた。そして史香もそうだと。
でも彼女は「カノジョ」なのだ。
彼はその点を深く考えていなかった自分を、今更の様に悔やんだ。「カノジョ」は友達でもありうるが、それだけの存在ではないのだ。
だから余計に今、彼は聞いて欲しかった。自分の不注意を、聞いて欲しかった。
捕まえたのは、エレベーター前だった。待ってくれ、という彼に、奇妙に彼女は静かだった。
「確かに言わなかったことは謝る。だけど」
「…認めるんだ、あんた」
「…え?」
史香はその時ようやく、彼に向かって顔を上げた。
「確かに聞いたよ、クセなんだね、つい言ってしまうんだね、『先輩』って」
「…あ」
「だから聞いたの、あいつはトモミちゃんの先輩なの?、って。そりゃあきょうだいだって、同じ学校だったら先輩後輩だし。あの子はそう、と答えた。答えただけだけど」
トモミには嘘がつけない。
「きょうだいじゃないの? とあたし、だから冗談のつもりで聞いたのよ。そうしたら」
そう、とやはり答えたのだろう。
「本当に、冗談のつもりだったのよ」
今までトモミはその質問をされなかった。倉瀬がその質問をさせないようにしてきたから。だから答えなかった。それだけなのだ。
質問されなければ彼女は答えない。彼が隠し、彼女が答えなければ、故郷から離れ、当時の知人も居ない現在、彼等の関係を知っている者はなかった。だからばれそうでいて、それでも決してそうならなかった。
だが史香は「家庭の事情」を背負ったバンドマン達ではない。
「嘘だと思った。思いたかった。だけどトモミちゃんがそう、と言うのよ?」
エレベーターがやって来る。数字が近づいて来る。
「トモミちゃんが」
「史香」
「それでそのまま、あんたを起こしに行くじゃない。…そしたらあたし、待って、って思わずあの子の肩を強く掴んじゃったのよ――― それだけよ」
ああ、と彼はうめいた。
「でもそれだけでどうしてあんな風に?」
そんなことをしたのか。
唐突な刺激。接触。しかもおそらく、その時の声は。それらにトモミは一気に反応してしまったのだろう。そしてパニック。
―――どういう感じって? 先輩は無い? 跳ねるの。本当に心臓が。本当に心臓がどきどきして、跳ねてる。どうしようどうしよう、って頭の中がぐるぐるして、腕の上の方がざわっ、って来るの。鳥肌。気持ちわるいの。
トモミは以前そう言っていた。先輩は無い? って。
無いよ、と彼は思う。
彼女の様に、意味も無く、目に映る世界の全てが鮮やかに尖って、自分を突き刺してしまいそうに思えることも、聞こえる音のヴォリュームをセーブできなくて、本当に自分に話しかけているひとが何を言っているのか判らなくなることもない。
自分と他人の考えの区別がつかなくなることもない。
トモミの感じている世界は、自分と違う。
少なくとも自分が感じているのより、ずっとそれは、鮮やかで強烈で――― 刺激と恐怖に満ちた世界なのだ。
彼女はそんな自分に精一杯で、他に気を回す余裕など、何処にも無いのだ。だから倉瀬はあくまで、そんな彼女を少しでも支えてやりたかった。大切な「妹」として。
なのに―――
ちん、と音がする。
「…行きなさいよ」
「史香…」
「トモミちゃん、まだ小さくなってるわよ」
「おい話を」
「うるさい。今あたし、聞きたくない」
扉が開く。彼女はさっと身を翻し、扉はさっと閉まった。




