4 引っ越しというものはまず了解を得てからするものではなかろうか。
ちょっと待て。
がたん。倉瀬はベースのケースを思わず取り落としていた。
「…先輩?」
背後で扉を閉めた後輩は、不思議そうに問いかけた。
春三月も終わる頃。彼は自分の現在の状況を何とか理解しようと努力する。部屋に帰ってみたら、荷物が全て消えていた、なんて。
「クラセ先輩、驚いてる?」
そして後輩は、いつもの様に、まず彼の感情の状態を訊ねるのだ。
「…驚いてる」
そして倉瀬も、いつもの様に、その質問にのみ対する答えを返した。
「あ、荷物、運んじゃった」
「運んだ? トモミお前、が?」
振り向くと、違う、と後輩はとぶるんぶるんと大きく首を横に振った。
「ワタシじゃない。業者」
思わず彼はその場にしゃがみ込んだ。
「先輩?」
彼は忍耐力を思い切り発揮し、問いかけた。
「…お前何で、俺の部屋の荷物を勝手に運んだんだ?」
「その方がいいと思って」
「もう少し具体的に言えよ…」
行き場所もだんだん予想がついてきた。
「だって先輩、バイトが忙しいって言ってたよね。ってことは、生活費とか学費とかバンドの費用がずっと苦しいってことだよね」
「…確かにそうだが」
あまり言われたいことでもない。
「だから、東京は家賃高いし、ワタシの所に住んだ方がいいと思って」
「…お前なあ… トモミ…」
確かに彼女の部屋は、都心に通う一人暮らしの学生が暮らすには広い、2LDKのマンションだった。だがその時、「変? これって常識じゃあない?」といつもの様に問いかけてきた彼女に、こう答えたのが悪かった。
「そりゃ広い」
「本当?」
「一人じゃ広いよ。ルームメイトとか居るならともかく、お前一人じゃには広いよ」
あれは失言だった。…彼女がルームメイトにできる人間なんて、一人しかいないのだ。
「クラセ先輩、怒ってる?」
「怒ってない。呆れてる… いや、25%くらい、怒ってる。あとの75%、呆れてる」
そう、いちいち彼女の行動に怒っていては、付き合っていられないのだ。だが。
「25%」
それが多いのか少ないのか、彼女は十数秒、考え込んだ。その様子を見て、正面に向き直り、彼は付け加える。
「俺以外の奴がこんなことされたら、100%怒ってる」
「じゃあ非常識」
「絶対に非常識」
途端、彼女の表情が曇った。しかしいくら唐突とは言え、彼女がそう考えるのも、ある程度は仕方がなかった。確かに倉瀬はいつも金に困っていた。高校入学から、ずっと今の今まで、バイトとバンドに忙しかったのだ。
*
中学を卒業し、工業に入った倉瀬がまず始めたのは、部活動でも勉強でもなく、アルバイトだった。
ウッドベースではなく、エレキベース、それも自前のものを手に入れるために。手に入れたら今度は、本格的に活動するために。
受験を前提としない彼等の学校では同志はすぐに見つかった。忙しくも充実した日々の始まりだった。
その一年後、トモミが入学してきた。
「何でそんなに、皆、驚くのかなあ。ねえ先輩、変?」
その頃には、彼女の口調もずいぶんと彼に対してぞんざいになっていた。
それはそれでいい変化ですよ、というのが彼女の父親の言だった。
だがその父親も今は亡い。
彼女の父親は確かに物書きだった。
しかも、正体を知ってみて驚いた。有名なエンタテイメント系の小説家だったのだ。
複数のペンネームと出版社を使い分け、ジャンルも客層も多岐に渡った。その中の数冊は、倉瀬の本棚にもあった。
正体が知れてからは、出たばかりの本を必ず手渡してくれた。それは必ず彼が食事に呼ばれた時だった。
外食の時もあったが、彼女の家にも何度か招かれた。そこは3DKの中古の賃貸マンションだった。売れっ子作家がどうかな、と彼は思ったが、父娘二人には充分らしかった。
彼はそこで、父親の手料理をごちそうになったこともあった。トモミが家事をしている様子を、彼は見たことがなかった。料理だけではない。掃除も洗濯も同様だった。
締め切りが重なるとさすがにハウスキーパーを雇う、ということだったが、トモミが他人を部屋に入れるのを嫌うので、それも滅多にしないのだと。
しかしその家事全般もしていたはずの父親は、半年前に亡くなった。
事故だった。原稿の打ち合わせに入った店がガス爆発を起こし、巻き込まれたのだと。
消火後の現場からは、判別のつかない遺体が複数発見された。彼女の父親は、燃え残った時計や手帳といったものから確認された。
彼女は一人になった。進学する大学も決まり、父親と一緒に上京直前のことだった。父娘はそれまで借りていた部屋を引き払い、マンションに移ることになっていた。新築のその部屋には彼女一人が残された。
幸い父親は、それまでの稼ぎを彼女名義のにしていた。不慮の事故死ということで、生命保険も下りていた。即金で買ったマンションにはローンも無い。
彼女は学費だけでなく、この先就職しなくてもある程度暮らせる蓄えを遺されたのだ。
ただ。
「何かあった時にはあなたを頼みにしたい、ということでした」
フリーターをしながらのバンド生活も板につき、バストイレ共同・日当たりの良くない六畳一間(格安)に住んでいた倉瀬のもとに、とある日やってきた弁護士はそう言った。
「頼みにって…」
倉瀬は眉を思い切り寄せ、こたつテーブル越しの相手に向かって、両手を広げてみせた。
六畳一間。扉を開ければ部屋の全てが丸見え。こたつテーブル以外、家具らしい家具も無い。部屋の壁には、ベースとギターが置かれ、その近くにはミニコンポとカセットとCD、五線譜やボールペンが散乱している。
「ほら俺はこの通り、ビンボーなフリーターですよ? しかも就職予備軍でもない。先の見えないミュージシャン志望」
「ええ、それは良く判っています」
む、と倉瀬は軽く頬を膨らめた。
「金銭面の問題ではありません。もっとも吉衛氏は、トモミさんが望むなら、あなたに援助をすることも考えていたそうですが」
「要らないよ」
彼はぽん、と即座に答えていた。
「ええ、そう言うだろう、と言うのも氏の言葉でした。四年間、彼はあなたという人物をよく観察してらしたのですね」
本当に。四年。十代の若者には長い時間だ。
理解のある――― ありすぎる父親。
自分の家とはまるで違っていた。倉瀬は思う。都心へ出て来る時に彼は、自分の父親とは殴り合いのケンカを数回。口ゲンカはもう数知れず。妥協は無かった。お互いの意見を絶対譲り合わず、結局、物別れになって彼は家を出てきた。
まるで違う。違っていた。どちらがいいとは言えない。ただ確実に「違う」。
「ともかく」
弁護士は彼の思いには関係なく、自分の仕事を進めることにした。
「トモミさんにとって現在頼りにできるのは、あなたしかいないことは確かです」
「ねえ、あいつには、親戚とかいない訳?」
「残念ながら」
弁護士は苦笑した。
「吉衛氏は親戚一同から縁を切られた形となっておりまして」
はあ、と倉瀬はうなづいた。世界が違う、と彼は思った。予想ができない。親戚と言えば、盆暮れに訪ねる存在じゃあなかったのか。
あれ? ふと彼は何かを思い出しかけた。だがそれが何だったのか、思い出せない。
弁護士はともかく、と続ける。
「吉衛氏の資産はあくまで氏が一人で作り上げたものです。それだけに、彼は何があったとしても、全てが彼女に行く様に、名義を彼女にしておいたのでしょう…しかしまあ、金銭的なことは、実はどうでもいいのです。私はそれ相当の正当な報酬とともに、彼女に彼女のしたいことに対する合理的な使い方を助言する様に頼まれました」
「合理的な使い方?」
「あなたは、彼女がものの値段を正当に評価できると思いますか?」
うう、と彼はうめいた。思わない。全くもって思えない。以前、ベースを買いに出かけた時も、彼女は店員の言葉を鵜呑みにして、高額のものを買わされそうになっていた。
「ちょっと待てまだお前には早い!」
とその時には、慌てて安くてそれなりのものに変えさせたが、彼女がセールストークに弱いことがよく判った一瞬だった。
その後、彼はトモミに訊ねた。
「お前家にセールスが来た時どうしてる?」
「父はワタシに出るなって言うけど」
それは正しいよ、と倉瀬は嘆息と共に、思わず正面向いた彼女の両肩を掴んだ。ぎゃん、という声とともに彼女は飛び跳ね、彼はしまった、と思った。その時点でもまだ、予告無しで触れることに彼女は抵抗があったのだ。父親ですら同じだった。
「物理的な助けは私にもできますが、彼女の精神的な拠り所になれるのは、倉瀬さん、あなたしか居ないのです」
それだけに、弁護士のこの言葉には、うなづかざるを得なかった。
彼女との付き合いは六年になっていた。
そんな自分の目から見ても、彼女には「知り合い」は居ても、「友達」と言えるのは、確かに自分だけだった。
自分が高校を卒業して上京した後、彼女は苦手な列車に乗って、週末ごとに彼に会いに来た。雑魚寝な状態で泊まりもした。父親はそれを容認していた。倉瀬が彼女に「恋愛感情を持てない」と言ったことを完全に信じていたか―――そうでなくてもいい、と思っていたことになる。
「…それで俺にどうしろと?」
「氏はこう書き残しただけです。『これからも彼女の友達で居てくれ』」
ち、と彼は舌打ちをした。
「重荷でしょうか? 重荷でしょうね」
「あのねえ、弁護士先生」
彼はばん、と右手で畳を叩いた。途端、ほこりが大きく舞い上がる。弁護士は眼鏡越しの目を軽く細めた。
「別にそんなこと、言われなくたって、俺はするよ?」
「本当ですか?」
「今まで友達だった。これからも友達で居る。そんなことに、誰かからどうこう言われたくない。あんたもそう思わないかい?」
「まあ… そうですね」
くす、と彼は笑った。
「確かに個人的にはそうでしょう。しかし父親としては… じゃないですか? しかも自分以外に身寄りの無い娘に対する思いというものは、やや違うものですよ?」
「そういうもの?」
自分の、あの父親が、姉貴に対してもそう思うだろうか? 彼は首をひねった。
「ええ、そういうものです。私だってそうするでしょう」
「弁護士先生、娘さん居るの?」
「ええ、まだ小学生ですが」
ふっ、と彼は笑った。その笑みはそれまでの中で一番柔らかいものだった。
仕方ないな、と彼は苦笑した。
*
しかしそれとこれとは別ではないだろうか。
彼は空っぽの自分の部屋を見て思う。
確かに彼女に合い鍵は渡していた。あまりにも頻繁に、苦手な列車にすら乗ってまで来る、トモミを「留守だから」と外で待たす訳にはいかなかった。だからその時々の「カノジョ」にも渡さない合い鍵を、トモミには渡していたのだ。
そう、この時彼には「カノジョ」は別に居た。この場合の彼の中の「カノジョ」の定義は、「一番多くの時間とHを共有する女性」だった。実際、トモミが上京してくるまでは、その定義に変化は無かった。
しかしどうも、事態は変わりつつあった。
「…駄目かなあ、先輩」
そしてトモミは首を傾げ、彼に問いかけた。
正直、彼女のマンションは非常にいい環境だった。何度か引っ越しの後片付けを手伝いに行ったことがあったが、それまでの3DKの部屋にあった雑多なものがクローゼット部屋一つに納まってしまった位である。
トモミは日当たりの良い広いLDKが気に入り、そこで一日の生活の殆どを送っていた。家具と呼べるものは殆ど無かった。食事のテーブルは作りつけだし、クローゼット部屋は壁と一体化している。目につくのは部屋の真ん中にどん、と置かれた棚だけだった。
ただ。ふと彼は不安げな彼女の顔を見ながら考えた。
「…お前そういえば、あれから掃除とか洗濯とか、どうしてる?」
「…ファイル見て、やってる」
「物書き」な彼女の父親は、彼女に対しても膨大の「書き物」を残した。初めて相手を目にした時、倉瀬は思わず「何じゃこりゃあ!」と叫んだ。
それは生活全般に関する膨大な「マニュアル」だった。様々な場面における対処法が、一つ一つ、事細かに分類され整理され、まとめられていた。しかも出来うる限りの条件までつけて。
「マニュアル」は部屋の中に目立って陣取っている棚の中に、ぎっしりと詰め込まれていた。穏やかなナチュラルカラーでまとめられた部屋が、その部分だけ、どぎつい赤や青、オレンジといった色に浮いていた。明らかに、「そのファイルがそこにあることを忘れない様に」という父親の注意が反映されていた。
ただ時々疑問に思うことはあった。
一体こんなものを作る時間が、何処にあったのだろう?
吉衛氏は仕事だけでも驚異的に忙しかったはずだ。執筆だけではない。その資料収集、整理、その他もろもろに加え家事。
「だって父は眠ってなかったし」
トモミはそう答えた。そんな訳ないだろう、と彼の反論に、彼女は珍しく頑固に主張した。
「父が寝てるとこを見たことがない」
では睡眠時間が極端に少ないか、トモミが学校に行っているうちに眠っているのだろう、とその時は彼も思った。
だがこの大量のファイルとその中の情報量を見るにつけ、彼女の言うことが本当かもしれない、と思えてきた。
とは言え、現在となっては、真偽を確かめる術は無い。
そしてまた、トモミがそのファイル通りに「生活」しているかも、心配になりつつあった。そうなってみると、いっそ、彼女と住んで、生活をサポートしてやる方が安心できるかもしれない。彼は次第にそう思う自分に気付きつつあった。
確かにあの部屋は、一人では広いのだ。
「引っ越してしまったものは、仕方ないか」
「仕方ない?」
悪い意味に取ったのだろうか、彼女は目を細めた。
「お前今、この部屋の合い鍵持ってる?」
彼女は黙ってポケットから鍵を取り出した。彼はそれをそっと取り上げた。
「大家さんに返して来るから、ちょっと待ってろ」
「どういう意味?」
「一緒にお前のマンションに帰ろう、ってことだよ」
ああ、と彼女の表情が微妙に外向きに動いた。
このことで、この先、自分の人間関係に一悶着あるだろうことは予想できた。
それでも彼女を置いていくことはできなかった。彼女の父親の遺言は関係無い。彼女は大切な後輩で、友達で、妹みたいなものなのだ。
誰にもそれに、文句を言わせたくなかったのだ。




