2 彼女の思考法、彼の教え方
「クラセ先輩、質問」
何、と彼は後輩に問い返す。ここのとこは? と彼女は譜面の一部分をつ、と指で流す。
「ああ、ここね…」
倉瀬は軽く数回うなづいた。
「OK、じゃ良く聴いて」
彼女は黙って大きくうなづく。それはここ一年程、西校舎の階段の踊り場で良く見られる光景だった。
倉瀬義高は三年になっても「部三役」の面倒を上手くすりぬけ、部活と趣味の両方を満喫していた。
そしてその傍らには、吉衛トモミが居た。その頃にはすっかり彼女も彼のパートに定着していた。
その目の前に置かれた譜面台の上には、運動部の夏の地区大会向け壮行会用の行進曲。入場する選手達がそれに乗って入って来るはずだ。
彼女はもうこの時期、倉瀬と同じ譜面で練習していた。
この部におけるコントラバスのレギュラーは一人である。だが、校内で演奏する機会など、人数に特に制約が無い場合、倉瀬は彼女も「本番」に参加させていた。
と言うのも、彼女は「やってみないと判らない」体質だったのだ。従って、できるだけ多くの「本番」の機会を持たせなくてなくてはいけない。
もっとも、倉瀬がそれに気付くには時間が多少かかった。
*
彼女が彼のパートに入ったのが前年の修学旅行明けの五月。そして気付いたのは、夏休み直前だった。
正直、彼もずいぶん苛々させられた。彼は教師でもなければ、生まれつきの聖人君子でもない。ただの思春期真っ盛りの中坊男子に過ぎなかった。いくら相手が年下の女子でも、腹が立てば、顔や態度に現してしまったことも度々あった。
だが次第に彼は、そんな自分の態度にひどく疲れてしまった。
何せ吉衛トモミはそんな彼に、ただ不思議そうな顔をするだけだったのだ。
何故彼が怒るのかさっぱり判らない。そんな表情で次の言葉を待っているかの様だった。一月も経たずに、倉瀬も彼女が何処のパートからも敬遠された訳に気付いた。
いやそれだけではない。もしやクラスでいじめに遭ってるんじゃないか、と妙に心配してしまう程だった。少なくとも自分のクラスにこんな奴が居れば、そうなるだろう、と。
だがその様子は無かった。当人も倉瀬にそう告げた。
さすがに彼も不思議に思ったので、部の同級生に聞いてみた。以前彼女を図書室から引っぱり出した女子である。
「トモちゃん? そりゃあ、前はすごい、いじめられてましたよー」
やっぱりなあ、と彼は思った。だが。
「…って、前は? じゃあ今は?」
「今はないです」
「何で」
彼はその方が心底不思議だった。
「だってトモちゃんって、昔からああだったから、同じ小学校だったあたし等は、やっても仕方ないって判ってるし」
「仕方ない?」
「だってあの子、いじめられてるって全然判らないんですよ」
曰く例えば、上靴を隠されたとする。
するとトモミは「無くなった」ことに対しては確かに困る。授業が始まっても全く気にせず、慌てて半狂乱であちこち探したりもする。時には朝から給食の時間まで。結局教師が彼女を見付けて教室に引き戻して、ことの次第が判明し、上靴は彼女のもとに返るのだが――― 彼女はそれが誰かの悪意によるものだとは全く考えないのだ、という。
机の上に花が置かれても、元にあったところに戻して終わり。
もっと露骨に言葉で攻撃されても、ぽかんと聞いているばかり。「聞こえているの」と詰め寄っても「聞こえているけれど、それがどうしたの」とばかりの態度。
「ぶたれたり、とかは…?」
「んー、それもあったんですけどー」
やっぱりあったのかよ! 彼は大きくため息をついた。
「ちょっとそれは先生から叱られましたよぉ、クラスの皆。あの子、つねられても叩かれても感じないみたいで、それで気が付くと、腕とかあざだらけになってて、先生が怒っちゃったりして」
「感じない?」
「つねられても叩かれても髪引っ張られても平気っぽくて」
不気味、と彼女は最後に小さく付け足した。
「だから何やっても、結局先生に気付かれる程、あの子、色々されちゃうんですよ。で、気付かれたらもうクラス中怒られて、またヤな感じに皆なっちゃうんですけど」
だが心底本当に訳も判らず、困っている様な顔に、いじめた方も、最後には自分達の行動の無駄に気付いてしまうのだと。その程度に当時の同級生達は人も良かったし、馬鹿でもなかったということでもあるが。
「…で、結局、吉衛には友達は居たの?」
「うーん」
彼女は顔をしかめた。
「あの子は皆友達だと思ってたようですよ」
「お前等は思ってなかった訳?」
「友達も何も。ただの同級生ですよ。皆そう思ってたんじゃないですか? だいたいいつもトモちゃん、休み時間は一人でぼーっとしてたし、部活って部活やってなかったし… あ、参加自由だったからだと思うんですが。授業の時のペアも… 体育とか理科とかですね、出遅れるから先生が後で、残った子同士組みなさいって言ったけど」
うーん、と倉瀬はうめいた。
「えーと… 頭は悪い?」
いやぜーんぜん、と彼女は首を横に振った。
「無茶苦茶頭はいいです。ほらこないだの中間テスト、 あの子、学年で八位ですよ?」
当時彼等の中学では、中間・期末・実力テストの成績は、三十位までの名前と五教科の合計点数がずらりと貼り出された。…ちなみに彼はその中に入ったことは一度たりとも無い。
「マジかよ。それでどーして、ああなんだ?」
「知りませんよぉ」
簡潔かつ、的確に後輩は返事をした。そうだよな、と彼もうなづいた。だが次の彼女の言葉には彼は驚かされた。
「まあ何か憎めないんですけどねー」
「…って、嫌いじゃないのかよ」
「嫌いなんて別にあたし言ってないですー。だってあの子、ものすごい努力のひとですもん」
「努力の?」
「うん。あの子頭いいんだけど、体育はもう、ものっ凄く、できないんですよね」
そんな気はする、と彼は思った。まだ知り合って一ヶ月程度だが、何度屋上から踊り場の階段を踏み外したことか。
「高いとこも怖いから昔っからジャングルジムも昇り棒もできないし太鼓橋も立って渡れないし。逆上がりとかも落ちるの怖いってできないんですよねー」
ものすごく、納得できる様な気がした。
「でも最後にはやっちゃうんですよね」
「へ?」
「だからもの凄く、やるんですよ。何度でも何度でも。できるまでやるんですよ。ただ体育の時間がお昼にかかると大変でしたよー、あの子なかなか戻って来ないから、当番だったりすると皆で『またトモちゃんが居ないーっ!』って」
「…それって凄くない? それで何で頭はいいんだ? いや逆か。頭いいのに何でそうなんだ?」
そーう、と彼女は大きくうなづいた。
「だから、そこが問題なんですよねぇ」
なるほど、と倉瀬は思った。確かにトモミは熱心なのだ。実際、彼が弾く様子を見つめる目ときたら、怖い位である。
なのに、だ。
彼がいくら楽器について説明し、持ち方弾き方手取り足取り教えても、十分後にはもう彼女の頭からは抜け落ちているのだ。さすがに彼もそれには参った。
しかも譜面が読めない。彼等の譜面は授業でもおなじみなト音記号のものではなく、見慣れないヘ音記号のものだから、慣れないうちは判りにくいのは当然だろう。だがもう一ヶ月なのだ。まる一ヶ月、毎日譜面とにらめっこしているのに。
*
ところが、ある日いきなり変化は訪れた。
夏休みも近づいたある土曜の午後、全体練習に向かう彼に、残されるトモミは何の脈絡も無く、言った。
「先輩の教本、貸して下さい」
彼は何だろう、と思いつつ、愛用していた教本を手渡した。
練習が終わった時、彼女は熱心にそれを読みふけっていた。終了を告げると、彼女は文字通り飛び上がって驚いた。そしてそのまま本を当然の様に借りて行った。あまりに当然の調子に、彼はその時、何も言うことができなかった。
だがその翌日。
「おい何でだ!?」
倉瀬は思わず叫んでいた。
彼女は前日までが嘘の様に、あっさりと教本の練習曲を弾いていたのだ。運指の間違いも無かった。
これで「何でだ?」と問わないなら、その方がおかしい。
俺の教え方はそんなに悪かったのか、それともこいつは全く俺の話を聞いてなかったのか? さすがに彼も腹立たしいものを感じた。ただそれが、相手に対するものなのか、自分に対するものなのかは判らなかった。
ええと、と彼女は切り出した。
「つながったから。やっと」
「つながった?」
どういう意味だ、と彼は付け足した。
「ええと、先輩の教えてくれることって、先輩の言葉だから」
「?」
「それにテープついてたし」
彼は自分の忍耐力を駆使して、彼女の言葉を理解しようとつとめた。結果、何とか彼は納得できる答えを見付けた。
まず彼女は譜面が読めない。
それはつまり、譜面と音が全く結びつかない、という意味だった。
「だから教本の曲がテープにあったのを丸暗記した、と」
彼女はうなづいた。
運指も弾き方も、ある程度まで判ってはいたのだが、「だからそれをどうするのか」が彼の説明では判らなかったのだ、と。
「それで先輩は教本で覚えたことを教えてくれていると思ったから、先輩の口を通してより、本を見た方が直接つながるかなあ、と思って」
さすがにその時彼はかっ、と腹の中が熱くなるのを感じた。
「お前俺を、馬鹿にしてる?」
「え?」
彼女はきょとん、と彼を見た。
だが丸く開かれた目には、悪気のわの字もない。ちっ、と彼は舌打ちをする。つまりはあの後輩女子が言っていたのは、みこういうことなのだ、と。
言っている当人は、本当のことをそのまま言っているだけなのだ。何の悪気も含みも無い。ただ相手の感情も全く考えていない。
「…なるほど、そういうことか」
ぴしゃ、と彼は自分の額を叩いた。
「あの? 馬鹿になんて、してないですけど」
「…はいはい、判ってる」
彼女はすると、彼の顔をのぞき込み、怒ってますか? とこれまたストレートに問いかけた。
「眉が寄ってます。怒ってますか?」
思わずため息をつく。怒る気はその一言で萎えてしまった。
どう答えたらいいだろう。彼は思う。ああ面倒だ、とも。何せこの先、最低一年半は彼女と先輩後輩関係をしていかなくてはならないのだ。それもたった二人で。無視はできない。いじめは言語道断。
だったら。
「…50%怒ってる。50%納得してる」
怒ってるのは確かだった。
この感情に目を塞いではいけない、と彼は思った。
少なくとも自分が感じている「怒り」は、周囲が彼女に向ける反応と同じだから。この客観的な感覚を忘れてはいけない、と思った。
そしてその一方で、これから自分がどう彼女に接していけばいいか実感でき、とっかかりが掴めた。それが「納得」。二つの感情は彼の中で半々だった。
すると彼女は「怒った」という彼に対し怖がりも怒りもせず、淡々とこう言った。
「あ、その先輩の言い方、すごく判りやすいです」
彼は苦笑した。そしてやれやれ、と思った。
*
だが一度「彼女方式」を納得すれば、その後は早かった。
何しろ彼女は頭が良かった。―――いや、記憶力が異様に良かったのだ。
例えば彼女は譜面が読めない。それは彼が先に弾いてみせることで解決した。彼が弾くメロディを、彼女はそのまま耳でコピーした。
彼女は耳が良かった。良すぎると言っても良かった。それだけに、「いい音」に敏感だった。弦のチューニングにも人一倍時間を掛けた。
確かに熱心だ、と彼は納得した。
繰り返し繰り返し同じところを、耳の記憶を頼りに「同じ」になるまで弾き続ける彼女の集中力は凄まじかった。
おかげで倉瀬は、彼女に練習終了をどう告げたものか、としばらく悩んだものだ。彼女は予告無しに触れられると、文字通り飛び上がる。もしくは悲鳴を上げる。さもなければ、呼吸困難を起こす。
それはそれで異常なことだ、と彼も思う。だがそれが彼女なのだから仕方がない。考えたあげく、彼は100円ショップでキッチンタイマーを買うと、メトロノームを止めた後に彼女の前でそれを鳴らした。
ただしこれにもやや試行錯誤があった。メトロノームを止める前にタイマーを鳴らすと、触れられた時程ではないにせよ、彼女は驚く。心臓が本気でどきどきしている様なので、ワンクッション置く意味で、まずメトロノームを止めてから、タイマーを鳴らすことにした。すると、驚きはするが、飛び退きまではしなくなった。やがてそれも、目を瞬かせる程度になった。
そして倉瀬自身も熱心になった。
彼女に「お手本」のメロディを聞かせる時には、できるだけ正確なものでなくてはならない。彼女は彼の弾いたメロディをそのままコピーする。彼が間違えれば、そのまま彼女も間違えて覚えて、しかも困ったことに、一度覚えたものを修正するのはひどく苦労するのだという。結果として、彼の腕もまた、上がっていった。
ただ困ったこともあった。彼女は時々、彼が遊びで弾いたバンドの曲まで勝手にコピーしてしまうのだ。
彼の留守に「何の曲?」と他の一年女子が聞くと、「さあ」と彼女は答えたが、さすがにまずかった、と後で倉瀬は思った。
しかしそんなことは些細なことだった。
彼女との日々は、最初の試行錯誤の時期を越えてしまえば、他のパートの先輩後輩関係よりも良好だった。
*
倉瀬は彼女が示す譜面のある小節から小節までを、メトロノームを動かしながら弾いて見せる。
彼女は楽器とメトロノームの間に膝を折り、目をつぶって耳を傾ける。
OK? と弾き終わると彼は問いかける。
んー、と彼女が微妙な表情をすると、彼はもう一回繰り返す。何度でも、何度でも、彼女が納得する表情になるまで。
そして五回目に彼女はうなづく。
「やってみる」
そう言って、楽器を持ち上げる。
するとワントゥ、とカウントを取ってやる彼の前で、彼女はそれまで詰まっていたのが嘘の様に、あっさりとその部分を乗り越える。
それが彼等のいつもの練習方法だった。