エピローグ
…何処だろう。
トモミは雨の中、探していた。
確か、あの時、転がってしまったはずだ。自分の記憶に間違いは無い。見たものを、忘れることはない。
だけどそれは見つからない。
もうどの位になるだろう。時間の感覚は無かった。元々薄いその感覚が、何処かへ行ってしまった様だった。
気がつくと、空は暗くなり、そしてまた明るくなる。だけどその間、ずっと雨は降り続けている。
おかしい。おかしい。ここにあるはず。ここに無い訳がない。彼女は探し続ける。
おかしい。おかしい。おかしい。
雨は降り止まない。
「…探しても、無駄だよ」
その声は、優しかった。濡れたアスファルト、側溝の脇に生えた雑草の陰まで目を凝らす彼女を、決して、驚かさない様に。だがそれは不可能だろう。彼女は耳に入った声を疑った。違う。これは違う。
「そこには無いよ。お前の探しているものは」
彼女の身体はこわばる。そう、その声の主が、今、自分の後ろに居る訳など無いのだ。
「トモミ」
「…違う」
うめく様な声が彼女の口から漏れる。
「これは先輩の声じゃあ、ない」
「俺だよ」
「違う!」
彼女は勢い良く立ち上がる。そしてゆっくりと振り返る。
「先輩は死んだんだ。ワタシの前に、今、居る訳が無い」
「…じゃあ俺は誰? 今お前の目の前に居る、この俺は誰?」
ざあああああああ。
低い音が、彼女の耳を通り過ぎて行く。それはとても優しい音だ。
「…それでも、嘘だ」
「嘘じゃない。俺はここに居る」
ほら、と差し出される手に、彼女はつられる。手を伸ばす。それを見て彼は、少しだけ苦笑した。彼の知っている彼女は、決してこんな風に手を取ったりしなかった。
「ほら、ここに居る」
「でもそんな訳はない… 先輩は死んだ。どうしようもない、それは事実だ」
「そう」
ざあああああああああ。
「俺は死んだよ」
倉瀬はそうトモミに告げた。
***
「さて」
ふっ、とその場は薄暗くなる。
倉瀬は一人掛けのソファの上で、がくん、と肩を落とし、両手で顔を伏せた。最後の光景はさすがに彼にとって、衝撃が強かった。
「ふうん。やっぱりショックか?」
顔を上げると、管理人は長いソファでなく、一人掛けの重厚な椅子の上で腕と、長い足を組んでいた。当然だろう、と倉瀬は絞り出す様に返事をする。
「じゃあ喜べ」
何を喜べって言うんだ。彼は管理人をにらみ付けた。
「そんな目するのはまだ早いって言うの。いいか、お前の『妹』は死んじゃいないんだよ」
え、と彼は思わず目を大きく広げた。
「死んで… いない… って… 死んでないっ、て、言ったか?」
「あーそうだよ。死んじゃいない。ただ、そのせいで、歪みが生じてしまってるんだ」
「歪みって、…でも、あんたの言う歪みは…」
確か、最初に見せられた、あれは。
「そーだよ。あの、捜し物している方の彼女。あれはお前と同じ、精神しか無いモノだ」
何だって、と倉瀬は腰を浮かせた。
「だけど、さっきも言った様に、死んじゃいないんだ。身体はちゃんと生きてる。ほら」
管理人は一度消した「リモコン」をもう一度ONにする。映像は二つ、横並びに浮かび上がった。一つは雨の光景。そしてもう一つ。
「これは同じ時間の、違う場所。こっちがさっきも言った様に、『歪み』」
雨の光景を管理人は指す。
「…で、こっちが、彼女の本体」
本体? 倉瀬は立ち上がり、「本体」の情景に駆け寄った。
病院だった。集中治療室のベッドの上で、彼女の身体は眠っている。機械に映し出されているその生命反応は、決して強くは無い。
そして、その様子を不安そうに、ガラスの外で見ているのは―――
「あんな風に、精神と肉体が遊離してしまうのは、そう多くは無い。肉体が死ねば、精神は行くべき場所へ行く。分離したまま戻れなかったり、精神だけが残ってしまう場合の多くは、その時所属している世界に対しての拒否反応だ。いや、正確に言えば、元の世界への回帰本能からだ」
「元の世界?」
どういう意味だ、と彼は問いかけ…
「あ」
―――実はね、僕等は十二年前にこの世界に飛ばされてきた異世界人なんだよ―――
「さて、お前と彼女の親父が出会った時より十二年前の時点、というと…」
ふっ、とその時、闇に隠されていた、多数の世界と時間が姿を現した。
「…ああ、ここか。―――なるほど、だったら、確かにつじつまが合う」
ほれ、と管理人は彼を手招きする。
「ほら見ろ。ここ、だ。近づきすぎなんだよ」
一本は、彼が居た世界のチューブ。もう一本は、全く別のチューブ。二本は管理人の指さす所で、触れるすれすれまで近づいていた。
「近づいてちゃ、まずいのか?」
「ただ近づいているだけ、ならな。ただ、虫食いが起きてる」
「む、虫食い?」
倉瀬は思わず、子供の頃見た、実家の害虫駆除を思い出した。
「そう。俺の居るここ、に巣くってる虫」
「そんな… それじゃ、あちこちが食われて大変なことになるんじゃ」
怪訝そうな顔で、倉瀬は問い返す。
「穴は空くさ。ただ、穴が空いたところで、次元と時間って奴は、そうやわじゃない。自己修復能力があるんだぜ。これはこれで、生きてるんだ。それに世界は、それぞれ絡まらない様にある程度の距離を開けてるはずだ。普通は、な。だけど」
管理人は苦笑しながら、接近する地点を指さした。
「ここまで近づいてしまうことは滅多に無い。ただ、たまたまその近づいたところに虫食いの穴が空いていたら?」
判ったか? と管理人はにやりと笑った。
「そう、お前の『妹』は、お前の世界じゃなく、そっちの世界の住人だった」
「そんな」
彼はがくん、とその場に膝をついた。
「ホモ・サピエンスが『地球』をとりあえず支配してる様な、お前等と変わらない世界は、ここには幾らでもある訳よ。彼女が居たのは、かなりお前等と似た連中の支配する世界だ。ただ、似てても同じということじゃあない」
「違うのか?」
「外見はまるで変わらない。ただ、お前等とはやや脳の構造が違う。途中まではお前等と変わらない。ここもお前等の世界の様に文明を発展させてきたんだが――― させすぎた」
「させすぎた、って」
「戦争さ」
管理人はぽん、と言う。
「無論お前等の世界にもある。悪くはないさ、闘争心も。それだけ外の世界に対して前向きってことにもなるからな。ただ、そうしない世界もあった、ということだ」
「そうしない… 世界」
「こっちの世界は」
そう言って、接近するもう一本のチューブを管理人は指した。
「ある程度人間が死に、ある程度母星の自然が破壊された時点で、戦争そのものを凍結しようとした。そこで何をしたと思う?」
「国同士で… 約束を結ぶとか」
「ばーか。そんなもの。いつだって破れる。人間が人間である以上。嘘をつけるる、駆け引きができる、そういう生物である以上」
「まさか」
彼女は、嘘が、つけない。
「そのまさか、さ。ここの世界の連中は、世代交代ごとに、調整を繰り返して行ったんだ」
「で、でも、彼女のお父さんは、作家で」
しかも、エンタテイメント作家だった。もし嘘をつけないのだったら、それは不可能ではないだろうか。
「記憶の中に大量にある向こうの本をこっち流にアレンジしただけさ。人間の様に、完全な『嘘』にすることはできない」
「じゃあ… 教育係ってことも」
「ああ。あの世界には親とか子という概念が無い。子供は皆、遺伝子上の親からは離され、教育係によって育てられる。調整されてしまった彼等には、お前等の様な、肉親に対する愛情、というものは無いからな」
「だけど彼女は… 葬儀の時に」
「あれは教育係が居なくて『困った』んだ」
管理人はぴしゃりと断言した。
「それに教育係は合成人間だ。なあ、彼女の親父は、若かったよなあ」
「…あ」
倉瀬は口に手を当てた。そうか。
「もっと地味な職を選べば良かったのにな。けど生きている保証も無かったんだろうな。何せお前等の世界の技術じゃ、合成人間に何かあったとしても、何もできない。って言うか、バレちゃまずいだろうが」
「ちょっと待てよ」
うん? と管理人は首を軽く傾げた。栗色の長い髪がざらり、と揺れた。
「あんたはまさか、親父さんが死んだのは、事故じゃない、って言うのか?」
ぴんぽーん、と管理人は指を立てた。
「ある程度の資金は溜まった。彼女の住処も、後見人も決まった。ではあとできることは? そこで彼は、自分で燃えたんだ」
「じゃああれは」
「自殺。言っておくが、それにお前が反論しても仕方がないぜ。あれは、生物としての差から出た、文化の差なんだから」
「…文化の」
「彼女は変わっていたろ。お前の目には」
ああ、と彼はうなづいた。それは反論できない事実だ。
「でもあれは彼女の元々居るべき世界では普通だ。だけどお前等の世界でもあるじゃないか。お前、耳が聞こえない人間の音楽の聞き方って判るか?」
え、と倉瀬は戸惑った。
「機能の差は、文化の差に通じるんだよ。まあ、あのマキノってガキは、彼女の世界の人間と機能的にかなり近い部分があるな。少ないけど、お前のとこにも、そういう奴は居る。―――でもまあそれはいい。問題は、彼女の様に、他の世界から落ちてきた様な人間は、精神と肉体が不安定だ、ということだ」
「…と、言うと?」
彼は何となくほっとした。ずれて行く話は、自分自身を糾弾をしているかの様に聞こえたからだ。
「あの眠っている彼女は、もう十日もそのままだ。しかも、あの中に精神は無い」
「…もしかして」
倉瀬は雨の光景を指した。そう、と管理人はうなづいた。
「彼女の精神は、あの事故の雨の中に、閉じこめられてる。お前の世界の土砂降りの音は、あの世界の人間にとって、一番心休まる音と同じなんだ」
低い音が、好きだ、と言っていた。心が安まると。
「だけどあの精神だけの存在が、一つの限定された時間に居続けるというのは不自然だ。居続ければ、やがてそこには不自然なエネルギーが生じる。そうなってからでは遅い」
「だから、俺が呼び出された」
「ってことになるな」
にやり、と管理人は笑った。
「お前しか、彼女を肉体に戻せねーんだよ」
***
ざあああああああ。雨は強く降り続ける。
「俺は死んだんだ。これは確かだ」
「事故だね、自殺じゃないんだ、ね」
「誰かがそんなことを言ったか?」
「ナナさんは自殺じゃないか、って言っていた。自分のせいじゃないか、とも言ってた」
ああ、彼女ならそうだろう。倉瀬は思う。あの時最後に自分と話したのは彼女だ。しかもやや微妙な三角関係の相談を。
でもそれは事故だ。倉瀬は思う。誰のせいでもない。逃げ出したかったのは確かだが、彼女を置いて逃げる気は、全く無かった。
「自殺じゃあない。事故だったんだ」
「事故で先輩は死んだんだ。でもじゃあどうしてワタシが先輩に触れることができるの」
彼女はぺたぺた、と彼の頬を、肩を、胸を手のひらで触れて行く。あの頃にこんなことをしてくれる様だったら。もしもそうだったら、彼女は「妹」ではなかったかもしれない。誰よりも、大切な相手だったのだから。
今なら判る。自分は気持ちをセーブしていたのだ。「妹」だから触れてはいけない、のではない。「触れてはいけない」から、妹だったのだ。でもそれはもう遅い。
何よりも、彼女にとって自分は「同族」ではあり得なかったのだ。あの少年の様な存在ではなかったのだ。だからもういい。
彼女は倉瀬の二の腕を両手で強く掴んだ。力がついたな。背も伸びたし。そこに居るのは、自分の知っている、自分が居なくては何もできない少女ではない。
「先輩はここに、居るじゃない」
「違うよ」
彼は首を横に振った。そして大きく手を広げて、空を見上げた。
「ほら、雨は当たらない」
あ、と彼女は自分の手を見た。落ちて行く水は、彼女の手をすり抜けて行く。
「雨は当たらないんだよ、トモミ」
「だって、雨は当たらなくたって、ワタシが、先輩に」
「そうだよ。だから」
彼は目を伏せる。
「お前も死ぬんだ」
「死ぬ?」
「今度は、皆が、お前に会えなくなるんだ」
「ワタシに」
「そう、お前に」
ワタシに。再びつぶやくと、彼女はゆっくりと倉瀬から手を離した。両腕で、自分自身をぎゅっと抱きしめ、こう言った。
「―――やだ」
「何で? 向こうの世界は、暮らしにくかっただろう?」
もうやめよう、と彼は言った。
「確かに暮らしにくかった。先輩が居なくなってからずっとワタシは戦ってた。ワタシを無くそうとするものから、ワタシを守ってた」
「戦ってた?」
「そう、戦ってた。それが先輩達の世界の『親切』で、あのひと達は『いいひと』。この世界の文化と感情パタンを計算すれば判る。感謝はする。でもそのたびに、ワタシはいつも、同時に、それと戦ってた。本当のワタシを無くさないために。殺さないために」
「知ってる。見てきたよ」
ざああああああ。
「お前はこの雨の音が好きで」
彼女は黙ってうなづいた。
「…同じ音が好きな、あの彼が、とても好きなんだろう?」
「彼」
「マキノとお前が呼ぶ、彼」
「好き」
彼女はその言葉を何度か、口の中で転がしてみる。
「ずっと一緒に居たい、と思うんだろ?」
「だとしたら、『好き』。とても。すごく。…ワタシは彼のことが判るし、彼はワタシのことも判る。ワタシ達は、やっとワタシ達を見付けたんだ。…だから、ワタシは彼に、彼の欲しがっているものをあげようとしたんだ」
「うん、それは何?」
「先輩のベースを。先輩はワタシにとって一番大切なひとだったから」
過去形だな、と彼は思った。
「だから何か、先輩が持ってたものをあげたかった。マキノがそれを欲しがっているのがワタシには判ったから。ワタシもそれで通じると思った。ライヴの時に傷を付けてしまったアレが戻ってきたら、あの子にあげようと思った。だから、あの時、急いだ。急いではいけない、とナナさんに、あれだけ、言われていたのに―――」
彼女は自分のベスパが転がったはずの場所を見る。そこには当然、車体は無い。
「あの辺だった。だからベースはあの辺に飛んでいたはずなのに」
倉瀬はそれを聞いて、首を横に振る。
「ここには無いよ」
「嘘」
「俺はお前に嘘はつかない」
そして彼はおいで、と手を差し出した。彼女はその手を取った。
「…ワタシ…?」
病院の、集中治療室の中に、彼等は居た。トモミは初めてみる自分自身の眠る姿に目を瞬かせる。
「ワタシは死んだの?」
「今は、生きてる。でもそれはお前次第だ」
彼は大きなガラス窓の方へ顔を向ける。何かあるの、とトモミは問いかけた。外には面会客用のベンチが置かれているだけである。
ただ――― 制服姿の少年が、汚れたベースのケースを抱いて眠っていた。
「マキノ」
トモミはするり、と倉瀬の横をすりぬける。自分の身体を越え、ガラス窓を突き抜けた。
濡れている。それはベースのケースのせいだけではない。彼の髪も、制服のシャツも、ズボンも、ぐっしょりと濡れている。
彼女はそんな彼に触れようとする。
「触れたい?」
ガラス窓を越え、倉瀬もまた廊下へ現れる。
「触れたい。このままではまた風邪をひく」
「また?」
「前もそういうことがあったんだ。台風の時、ワタシ達、外で遊び回ったんだ。そうしたら彼だけ熱が出た。彼は夏なのに寒いと言った。だからワタシは彼と一緒に眠った」
「うん」
「だからあの時約束した。そんなことがまたあったら、熱が出た方の側にずっと居る、暖まるまでずっと居る、と。だけどこれじゃ」
頬に触れようとする手は、するりと抜けて行く。
「この世界は生きにくいよ」
だめ押しの様に、倉瀬は問いかけた。トモミは即座に答えた。
「構わない」
「この世界には、嘘をつく奴ばかりだ。記憶と計算だけは凄いけど単純なお前を騙そうとする奴も多い。お前はこれから先、今までよりずっと、自分自身の感覚を守るために、戦い続けて、傷ついていくだけかもしれない」
「それでも」
トモミはマキノの身体を、ベースごと抱え込もうとする。
「それでも先輩、ワタシは、ここに居たい。彼と、居たいんだ」
そうか、と倉瀬はうなづいた。
そして不意に、彼女の身体を横抱きにすると、再びガラスの中へと飛び込んだ。
「先輩、何、ああああああ」
心が、突然のことに悲鳴を上げる。だけどその悲鳴をもう彼は聞かなかった。
そのまま彼は彼女を、眠る彼女の身体の上に押し込んだ。
***
「…君、牧野君」
ゆさゆさ、と肩を揺さぶられ、牧野は目を覚ました。
「トモさ… あ…」
「残念ながら、私でごめんね」
いい夢を見ていた、と彼は思った。トモミが自分を抱きしめている、夢。
だけど目を覚ませば現実がそこにある。そこに居たのはトモミではなく、看護士だった。
さすがに毎日毎日、学校帰りにやって来ている彼はお馴染みになっていた。
「心配もいいけど、そんなびしょ濡れで寝てたら、風邪ひくわよ」
彼は黙ってうなづいた。すると看護士はガラス窓の向こう側を示す。
「ほら、彼女ががんばってるのに、あなたまで倒れたら、困るでしょう?」
眠っている彼女の姿。包帯をぐるぐるに巻かれた頭、点滴のために右だけ出された腕。見えるのはそれだけだ。
「うん、…トモさんに、怒られるね」
「だったら上だけでも着替えなさいな。貸してあげるから」
うん、と彼はうなづいた。
もう十日だった。毎日毎日、学校が退けたらこの病院へと飛んで来る。本当は、学校だって休んで、ずっと見ていたかった。だけどそれには、「B・F」のメンバーからストップがかかった。ナナからは「意識が戻ったら連絡する」とも言われた。
そして十日。雨が外では降っている。ひどい降りだった。朝方はやはり降る気配など見せなかったので、傘を持たずに学校へ行った。だから病院に走る途中で空の色が変わったのでやばい、と思った。そして案の定降られた。
でもこの音は、やっぱり心地よいよ、トモさん。
ガラス窓の向こうの彼女に、牧野は内心つぶやく。
あなたと一緒に、雨の音を、ずっとずっと、聞いていたいよ。
「牧野君! ほらこっちにシャツがあるわ」
あ、はい、と彼はその場を離れようとした。
と。
ん? と彼はふともう一度、ガラス窓の方を向く。違和感。
「どうしたの? 牧野君」
看護婦はシャツを手にしたまま、彼の方へと近づいて行く。
「ねえ… 点滴って、両腕だった?」
「え?」
二人で目を凝らす。左腕が、胸の上に乗せられていた。
「牧野君…」
「看護士さん…」
二人は思わず顔を見合わせた。
***
「よ、ご苦労さん」
気がつくと、目の前には再び管理人が足を組んで椅子に掛けていた。
「これでいいのかい?」
「上等。歪みは消えた。俺的には大オッケー」
ふうん、と倉瀬はうなづいた。
「じゃあ俺の役目も、これで終わりだろ?」
「ああ。お前は行くべき所へ連れて行かれる」
「連れて」
「その先は俺の知ったことじゃない。無責任なんて言うなよ。高次の連中のすることなんだから、俺は手が出せない、ってことだ」
「別にいいよ。俺も気がかりは無いから」
倉瀬はくっ、と笑った。
「あっちの女の子は? お前の『カノジョ』」
「ああ… あいつは強い。どうにかして生きてくだろ。そういえば、あんたが今言うまで、ずっと忘れてた。…ひでぇ奴」
全くだ、と管理人は言った。
「でもまあ、これで俺もまた、休める。物事は流れるままに、行くべき場所へ」
「あんたはどうなんだ、管理人」
俺? と管理人は面白そうに問い返す。
「そういうこと、聞く奴も珍しいな」
「あんたも元々は俺の様な、何処かの世界の出身なんだろう?」
「まあね。でも」
ちょい、と管理人は倉瀬を手招きする。
「俺に、触ってみな」
突然何を言い出すんだ、とばかりに倉瀬は顔をしかめた。いいから、と管理人は彼を無理矢理近づけた。
「…え?」
するり、と手はすりぬけた。思わず彼は管理人の顔を見上げた。その顔に手を伸ばす。栗色の長い髪に指を近づける。するり。
「どうして。だって、俺はトモミに触れられた。あんたも、その類じゃないのか?」
いいや、と管理人は首を横に振った。
「お前に俺は触れられない。俺は生身だから」
「生身」
「そう、この空間で唯一の生身。唯一、ってとこがミソでね。代わりが来ないとね」
いや違うな、と管理人は空をあおぐ。
「俺の居た世界の生身の奴が来ない限り、だ。前に紛れ込んだ奴が居たけど、別の所の奴だったから叩き出してやった」
「他の世界じゃ、いけないのか? だってここでたった一人なんて…」
ばーか、と管理人は口の両端を上げた。
「そんなこと聞いてる暇があったら、次の世界への希望を少しでも考えろよ」
「え、え?」
「次に生きる場所が何処か、は結局皆自分が決めるんだよ。願えよ。次にどういう場所で生きたいのか。ほら、もうお前消えかけてる」
あ、と倉瀬は自分の手を見る。本当だ、透けてる。
「管… 人、…は…」
声が。どんどん身体が、意識がおぼろげになって行くのを倉瀬は感じた。次。自分の生きたい世界。でも管理人は。
「俺の生きる世界は、俺が決める」
最後に倉瀬の意識が感じたのは、その言葉だった。
***
終わったな、と管理人は思った。
ここまで自分に言わせるなよ、とも。
自分の居た世界に近い者にはつい言ってしまう。それもこれも、歪みの原因のくせに、自分に何故か同情するからだ。
ばーか、と管理人はその都度相手に言う。本当にそう思う。そんなこと考えるくらいなら、自分の次のことを考えろ。どうせ俺には滅多にそんなチャンス、来ないんだ… でも。
ゼロじゃない。
彼は思う。
可能性はゼロじゃない。その時には、誰でもいい。転がり込んできた奴をここに置いて、自分はあの世界に戻るんだ。
でもとりあえず今は、その時じゃない。
またきっと、何かあったらお呼びがかかる。
―――少し疲れた。
彼は空間にその身体を沈み込ませる。
頼むから虫達、俺の身体まで食ってしまわないでくれよ。
彼が次に起こされるのはいつなのか、誰も知らない。