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10 課題曲「笑う雨」

 ぱちぱちぱち。ぴゅー。

 スタジオ中に、拍手と口笛が響いた。


「上手くなったじゃん、マキちゃん」


 能勢は思わず小柄な牧野の肩を掴んで揺する。それはある程度予想されていたことなので、牧野はにっ、と笑うことで返した。


「そう? 俺、上手くなった?」

「うん、上等上等」


 伊沢も言いながら、再び拍手する。

 しかし本当にいつの間に、とベルファのメンバーは半ば呆れていた。

 七月。彼等が牧野というこの高校生と出会ってから、三ヶ月経つか経たないか。

 なのにこの小柄な少年は、彼等の大事なベーシストと予想以上に仲良くなり、しかもベースまで教えてもらっていた。それだけではない。恐ろしく覚えが早かった。

 このバンドの曲は一見穏やかで、取っつき易そうに見えるが、実は展開が入り組んでいるし、コードもあちこち移る。つまり、初心者がチャレンジするのは無理なものだった。

 なのにこの少年は。

 奈崎はギターの前で腕を組みながら、彼にしては珍しく、本気で感心していた。牧野は照れながら左手を振る。そこには指先といい、手のひらといい、痛々しいものがあった。

 弦楽器を急速にマスターするには、それこそ文字通りの血みどろの努力というものが必要となる。それを短期間でやり遂げてしまうというのは、よほどの熱意か――― 集中力を元々、持った者だった。


「だって君、つい最近ベース始めたばかりだ、と思ったのにさあ…それでこれなら、すぐ、もっと上手くなるよ、ねえトモちゃん」


 奈崎はそう言いながらトモミの方を向いた。うん、と彼女もうなづいた。だがトモミの表情は、返事とは裏腹に、さして驚いている様ではなかった。


「マキノ、貸して」


 そして、そう言いながら自分のベースを取り戻す。


「ここはやっぱり、こう」

「何処?」


 彼女は伊沢に合図して、あるフレーズを叩く様に頼んだ。そしていつもの自分流にトモミは弾き直す。目を閉じてじっと聞くと、牧野は大きくうなづいた。


「…うんそうそう、そう弾きたかったの。だけどまだ、それは俺には難しかったから」

「やっぱり手取り足取り教えてるのは強いねえ、マキちゃん」

「奈崎さん!」


 牧野は反射的に大声を出していた。そしておっと、とばかりにトモミの方を見てほっとする。良かった、驚いてはいない。


「まー怒らないで怒らないで」


 奈崎はそう言うと、ぽんぽんと牧野の頭をはたいた。


「奈崎さん、俺、小さいと思って~」

「そうそう、小さいのにさ、よくトモちゃんのロングスケールこなすよな」


 能勢も口をはさむ。


「…まあワタシも迷ったけど。うちには短いスケールのものもあるし」


 彼女は家に合計十二本、ベースを置いていた。ちなみに牧野に使わせていたのは、黒いシンプルなベース。二番目の愛用品だった。

 彼女が使うメインのベースは、やはり黒が基調のロングスケールだが、全体に螺鈿の模様が入っているのが特徴だった。


「けどホント、マキちゃん、何でそんな上達早い訳? 俺はあきらめてこの美声を生かすことにしたんだけど」


 ふっ、とそれを聞いた奈崎は遠い目をして、そう言えばお前は本当に覚えが悪かったなあ…とつぶやく。


「マキノはピアノをやっているから力があるんだ。曲の複雑な構成にも慣れてるし」


 へえ、とメンバーは揃って声を立てた。


「マキノ、手を出して」


 トモミは牧野の手を取ると、奈崎の手を握る様に言った。何のことやら、と思いつつ、奈崎もそれに応じる。


「はい、お互いぎゅっと握って」


 ぎゅっと。彼等はトモミに言われた通り、力を込めてお互いに握り合った。小柄な牧野の手は、奈崎の大きな手にすっぽりつつまれてしまうかの様である。だが。


「痛ぇーっ!」


 奈崎の声が、スタジオ中に響き渡った。慌てて牧野は手を離した。


「…な、何、マキノ君って凄い力」


 ひらひら、と手を振る奈崎に、だろう? とトモミはくすくす、と笑った。

 笑った。これもまた、彼等にしてみれば、恐るべき変化だった。

 トモミがくすくすと笑う。にっこりと笑う。ふふ、と笑う。それが毎日、何処かしらであるなんて。彼女をバンドに入れて三年、そんなことは彼等には考えられもしなかった。快挙である。それだけでも、彼等にとっては、牧野を自分達の周辺に引きずり込んだ甲斐があったと言えた。


「ワタシも最初、驚かされた」


 当の牧野は首を傾げ、そうかなあ、と自分の両手を広げてじっと見る。


「それに手が小さいとは言っても、ピアノを弾くことで指を広げる訓練はできているから、ベースに関しても、全然問題じゃない」


 へえ、と再び感心する声が周囲から上がる。


「じゃあトモちゃん、結構すぐに、追い越されるかもよ」


 そう、と彼女は微妙な笑みで答えた。そしてふと、唇に指を当て、何やら考え込む。

 その間牧野はずっと、能勢のおもちゃにされていた。ナナよりも小さい彼が、バンド一の長身の彼に抵抗するのは、まず無理だった。握力だけでは彼には勝てない。

 やがてふと、トモミは指を口から離した。


「ねえマキノ」


 んもう! と言いながら、根性で牧野は能勢から逃れた。


「ワタシが指定する曲、キミが完璧にコピーできたら、何かプレゼントしようか」


 え、と牧野は能勢や奈崎の来襲を受けた時よりも、大きな目をした。


「で、何がいい? マキノの好きなもの」


 おおっ! と周囲が再び湧いた。


「プレゼント」


 牧野はその単語を繰り返す。


「うん。ワタシにできる範囲で」


 んー、と牧野は天井を見上げた。


「何でもいいんですか?」

「おい、この言い方って怖いんだぞ」


 能勢は人の悪い笑いを浮かべた。


「…じゃあトモさん、トモさんが俺にあげたいものをください。何でもいいです」

「ワタシが、キミに、あげたいもの」


 うなづく牧野に、うわぁ、と周囲の男達は、息を詰めた。どう彼女が答えるのか、想像ができないのだ。


「…でもそれって、結構難しくないか?」


 能勢は苦笑しながら牧野をのぞき込む。そうですか? と牧野は意外そうに答えた。


「じゃあトモちゃん、課題曲は何?」


 奈崎は微妙な笑みを浮かべ、問いかけた。


「課題曲? 課題曲か…」


 彼女はしばらく考えていたが、やがてぼんぼん、とある曲のイントロを爪弾いた。


「…お、それかい!」


 奈崎は驚いて声を上げた。


「ええ」

「それかい、って何ですか?」


 牧野は隙あらばちょっかいを出そうとする能勢に、素早く問いかけた。


「…『LAUGHIN' RAIN』。よりによって一番ベースがややこしい曲じゃねえの」

「だから、じゃない?」


 ナナの声が戸口から飛んで来た。


「あれ、お前どうしたの」


 能勢は不意に入ってきた彼女に自慢の声を飛ばす。


「何言ってんの、差し入れよ差し入れ」


 彼女は言いながら、チェックの紙袋を持ち上げた。差し入れの言葉にわっ、と男達は彼女の方へと群がる。トモミと牧野をのぞいて。


「『LAUGHIN' RAIN』…笑い… 雨?」


 多くも無い英単語の記憶の中から、高校生はようやく意味を見いだした。


「はずれ。笑う雨」


 ワタシの曲、とトモミは付け足した。


「そう言えば、外にスクーターあったけど、あんた達の誰か、乗ってきた? 鍵ついたままだったわよ?」


 ナナはちゃり、と鍵を掲げてみせる。


「あ… それ、ワタシだ」

「トモちゃん!」


 ちょっとこれ持ってて、と彼女は能勢に紙袋を押しつけると、トモミの方へつかつかと歩いて行った。


「トモちゃん、あんた、あれほど言ったのに、免許取ったの?!」

「一応、講習は受けた。ワタシはきちんと道路法則は守るから優秀だと言われた」


 でもねえ、とナナは付け足した。


「判ってる? もの凄ーく危ないのよ? もしも何かあったら、あたし達本気で怒るわよ!」


 それは何か違うのではないか、と男達は思いつつ、それでもナナの言葉を否定する訳にはいかなかった。


「…大丈夫ナナさん、ワタシは事故は起こさない。まだワタシも死にたくはない」

「だから! そういう縁起でもないことを言うんじゃないの!」


 牧野はその話を耳にしながら、そうかやっぱりベスパ買ったのか、と当然のことの様に思っていた。最初にトモミの部屋に行った日、彼女はその写真を熱心に見ていた。

 その時から彼は、トモミがいつかそれを必ず手に入れるだろうことは知っていた。ペパーミント・グリーンのベスパ。判っていたのではない。知っていたのである。



「なかなかできないよ、あの課題曲」


 八月のある夜、マキノは苦笑しながら、それでも何処か楽しげにトモミにこぼした。


「当然。簡単に弾ける様には作っていない」


 彼女は彼女で、何処か満足そうにうなづく。


「それに俺には少し辛い。フレーズ一つ一つはまあそれなりに弾くことができるけど、どうしても、上手くつながらないんだ」

「難しいテクニックは使ってないよ」

「違うよ。そういうことじゃない」


 マキノは親指で第一弦を弾く。それは黒一色のベースのボディに当たって、やや耳障りな音を立てた。


「すごい、…自虐的」

「ムズカシイ言葉を使うんだ。マキノ」

「だってホント。あれを弾いてると、音に含まれてる、トモさんの感覚が伝わってくる。あれ、あのひとが、死んだ時のでしょ?」

「マキノ」

「クラセさんが、死んだ時の」


 彼女は軽く目を伏せた。


「何で、『笑う雨』なの? 俺、あなたからタイトルを聞いた時、リフレインの間違いかと思った」

「偶然。考えたことはない。あの時のワタシには、そう聞こえた。それだけ。雨の音が笑ってる、って。雨が降ってたんだ。クラセの葬式の日」

「お葬式の」

「ワタシは行かなかった。いや、行くことができなかった。身体が動かなかったんだ」


 ほらそこ、と彼女はコーナーにある、楽器のたまり場を指さした。


「ワタシは彼が死んでからずっと、そこに居たんだ。外ばかり見ながら、床に転がってた。時々ナナさんがやってきた気がする。でも気だけだ。覚えていたのは雨だけなんだ」

「それが『笑う雨』?」


 ああ、と彼女はうなづいた。


「でもどういう雨か、は判るだろう?」


 言葉で説明するなんて、今更彼等にとっては、無駄なことに過ぎない。そうだね、とマキノは答えた。


「俺は知ってる。あなたの見た雨が。聞こえる。それはひどく自虐的だ。そして俺にとっても。あなた、意地悪だ」

「ワタシが?」


 くっ、と彼女は笑った。だがマキノの表情は動かなかった。


「うん、意地悪だ」

「どうして?」

「だってこの曲は、トモさんがクラセさんのこと、考えてるものだ。俺には、辛いよ」


 だがその口調は、決して心から辛がってはいない。おいで、と彼女は牧野に手を伸ばした。彼はベースを下ろすと、彼女の手を取った。そのまま軽く、抱きしめ合う。


「ねえ、先輩はもう居ないんだ。何処にも」

「判ってる。だからこれはただの俺の嫉妬。トモさんの気持ちを独り占めできないから」


 結局指が動かないのは、そのためだ。彼は知っていた。技術的なことではない。ただ自分はこの曲を、弾きたくなかっただけなのだ。


「マキノは嫉妬する必要はない」


 彼女は少しだけ、手の力を込めた。そうだね、と彼も同じ様に力を込めた。


「クラセ先輩は、ワタシにとってとても大切なひとだった。だから彼の記憶で曲を作ろうと思ったのに、どうしてもこれしか作れなかった。居た時の彼ではなく、不在の彼しか」


 居る時には、作れなかった。作ることも、考えなかった。


「でも、ワタシの中で、一番、覚えていたい、彼の存在が、あの中にはある。だからあれ一曲で、いいんだ」

「じゃあ… これからもっと楽しい雨の曲も作ろうよ」

「そう。台風の日に、外に遊びに行こう。空も風も、色々な顔を見せてくれる。きっと雨も暖かい。誰も居ない街で、二人ではしゃごう。ずぶ濡れになって、思いきり大声を出して、馬鹿面をさらそう」

「帰ってきたら、廊下をびしゃびしゃにしながら歩いて、そのままバスルームへ行って。そしてうだる程熱い風呂に入って泡だらけのまま記憶の空を、海を、雲を音にするんだ」

「そして台風が過ぎたらサングラスを掛けて外に出よう。むっとする大気と人間の中を抜けたら、きっとオアシスなカフェがある」

「グラスの中の氷の音。ストローをかき回す時の音」

「夕立も来ればいい」

「それで上がった時にまだ陽が出てたら、お日様に背を向ければ虹が見えるよ。そしたらあなたの虹を音にできる」

「そうもっと。これから曲は作れる。マキノと居れば」

「俺と居れば。俺でいいの?」

「キミがいい。誰が居る?」


 すると牧野はすっ、と彼女から身体を離した。そして先程置いたベースを取り上げると、彼女にヘッドフォンをかぶせた。


「…聞いて」


 彼は自分自身にもヘッドフォンを付けると、ピックを振り下ろした。

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