9 感じ方が似ているということは幸運だ
それ以来、牧野という名の少年は、良く彼等と行動を共にする様になっていた。
聞いてみると、有名私立高校の一年らしい。田舎から上京して一人暮らしなのだという。
ナナはライヴの時ごとに彼を「捕獲」する役目を負っていた。何しろ「トモミが関心を持った」というだけでこの少年は希少な存在なのだ。歳は結構離れているが、トモミの社会的精神年齢はこの少年とそう変わらないだろう。いや下手するとこの少年より下かもしれない。
「だったらいっそくっつけてしまえ!」
これがベルファのメンバーとナナの現在の共通見解だった。もっとも、彼等の大切なベーシストが哀しむのは困るので、メンバーはナナに、捕獲ついでに牧野という少年を見定めて欲しい、と言っていた。
彼等は、倉瀬を失った彼女に、「保護者」ではないパートナーを誰か、見付けたい、とずっと思っていた。彼女はあまりに一人だった。彼等の感覚では、それは不幸だった。彼等は彼女に幸せになって欲しかった。
だが当の彼女が、その類の話にまるで関心が無いのだ。当初は倉瀬を忘れられないからだろう、と皆思った。だが違った。彼女は「誰にも関心が無い」のだ。
一年位経った頃、こりゃ本気でまずいんじゃないか、と彼等は思い出した。
二年目は、メンバーのそれぞれが、彼女に合いそうな友人や知り合いを紹介してみた。だが無駄だった。
そして三年目、彼等もさすがに、当人が自分から動き出す相手が居たら力一杯応援してやろう、という姿勢に変化せざるを得なかったのだ。
この日も牧野はヘルファを見に来ていた。彼等から直接チケットをもらってのライヴは、もう四回目になる。いいのかなあ、と今でも言う彼に、ナナは好感を持っていた。こちらの示す好意というものに甘えていない。
彼等はこの日のトリなので、彼はそれまでカウンタで、ナナの仕事の邪魔をしない程度に話をしていた。メンバーの経歴、現在の仕事…広がる話に、少年は目を輝かせる。素直な子だなあ、とナナは胸が暖まるのを感じる。
五月も、半ばを過ぎた頃だった。
「うわ、今日ここ休みかよ!」
能勢は行き着けの店の前で、持ち前の大声を発揮した。ナナも腕を組み、顔を渋くしかめた。彼等がライヴ後に行く食事の場所はかなり限定されているのだ。
一つ。安いところ。
一つ。美味いところ。
これはまあ、貧乏が当然のバンドマンには必須の条件と言えただろう。しかし彼等の場合、この条件にもう一項加わる。
一つ。騒がしい店は困る。
これはなかなか難しい条件だった。
だがこの最後の項目を満たせないと、彼等は「楽しい夕食」を摂れない。何しろ、騒がしい店ではトモミが困る。周囲の声と自分達の会話の聞き分けができなくなり、ひどい時には人の話と自分の考えが混乱して収拾がつかなくなるのだという。従って彼等には、この第三の条件こそが必須のものだった。
上記の二項目を満たす所は、幾らでも「ACID-JAM」から遠くない所にある。
だが最後の一項目まで満たすところは滅多に無い。まず客のプライバシイを守ろうとする程のところは安くは無いのだ。
しかしそれでも、三項目全てを満たす所が一軒だけあった。その店を見付けた時、トモミをのぞく皆は感涙した程だった。
彼等はそこを「いつもの場所」として、この三年間愛用し、店の方も、彼等を常連と認めていた。扉はいつもライヴ後の疲れた彼等を暖かく迎えてくれるはずだった。
だがこの日の扉は素っ気なかった。
「都合により臨時休業と致します」
街灯に、紙の白さが目に痛い。
「…仕方ない、今日は向こうに行くか」
リーダーは冷静に、第二希望の店の名を出した。
ところが、それがトモミと牧野の一つの転機となったことに、この時誰も気付いていなかった。
*
「やばいみんな、もうこんな時間だ!」
トイレに立っていた能勢は、ポケットから出した時計を指しながら、声を張り上げた。
「げ、もう十二時近いじゃない!」
ナナまでもが思わず叫んでいた。
「…いつもの店じゃないせいだ…」
うらめしそうな声で、伊沢はつぶやいた。「いつもの店」は十一時閉店。彼等は「閉店を告げられるまでは居座る!」をポリシーとしていた。だが現在彼等が居る店は、ラストオーダー一時半、閉店二時だったのだ。
「終電… 行っちゃったな」
奈崎は牧野の方を見て言った。こくん、と少年もうなづいた。
「そう言えば、さっきからマキノお前、ずいぶん眠そうだったもんなー」
「…眠くなんかないよっ」
嘘付け~、と能勢は少年の頬を引っ張る。いててて、と牧野はすかさずやり返した。
「じゃあ誰かのとこ、泊めるしかないなあ」
「じゃ、ワタシのところへ来る?」
はっ、とそこに居た皆が、その声の主の方を向いた。
「「「「「トモちゃん?」」」」」
「ここからなら、ワタシの部屋が近いし」
「え、だけど…」
牧野は戸惑う。幾ら何だって、トモさんは女性じゃないか。彼は慌てて、男達の方へと視線を巡らす。ところが助けを求めたはずの男達は口を開くなり、こう言った。
「…いいんじゃないの?」
「そうだよな。確か、マキノの高校も、俺達んとこよりは、トモちゃんのとこの方が近いし。それに俺は今日はナナさん泊めるし」
「…あんたねえ!」
しかし確かにナナの部屋の方面の列車も終わる頃だった。
「俺なんか実家だし」
と伊沢。
「僕は今日ちょっと風邪気味で…」
奈崎はややわざとらしく額を押さえてみせる。ナナはそれを見てぱん、と手を叩いた。
「じゃ決まり。トモちゃん、ちゃんとこの子、明日学校へ送りだしてやってね」
「はい」
トモミはその場で別れを告げるメンバー達に手を振った。そして唖然としている牧野に向かって手を差し出した。
「じゃ、行こう」
はあ、と手を取ることしか、十六歳の少年にはできなかった。
そして彼等を見送るメンバーは、何事か起こります様に、と天に祈ったのであった。
*
「空いているところに座っていて下さいな」
居間に彼を迎え入れるなり、彼女は言った。
空いているところ。
空いているところだらけだった。
三年前と同じく、この部屋はすっきりとしていた。当時とまるで変わらず、オーディオと楽器がコーナーに、ファイルの棚が部屋の真ん中に置かれているだけだった。その側には折り畳みのマットレスらしきものが、アイボリーのカバーを掛けられて避けられている。当時と変わっているものがあるとしたら、それはクッションの数だけだろう。
「何でこんなにたくさんクッションが?」
牧野は思わずつぶやいた。
広いLDK、彼女と寝床と楽器の居場所以外を全て、クッションが埋め尽くしていた。
それはこの部屋の基調のナチュラルカラーとは違い、「南国の鳥の羽」の色から「呪われた国防色」まで色とりどり。また大きさも実に様々だった。
「…これって… ふとんと違う?」
彼はふと、牛柄模様の、壁に立てかけられた一枚をつついてみる。
「ふとんじゃない、クッション」
彼ははっ、と飛び上がった。いつの間にか背後に、トモミが飲み物の乗ったトレイを持って近づいて来ていた。
「お、驚かさないで下さいよ…」
「あ… ごめん」
さらりと言いながら、彼女はその場にかがみ込み、トレイを置く。そして山の様なクッションの中の前に立つと、んー、と唇に人差し指を当てて考える。
「マキノ君」
「は、はい?」
不意に問われて、彼は戸惑う。
「ワタシは今日どれが使いたいんだろう?」
「え?」
そんなこと聞かれても。牧野はそれでもざっとクッションの山に視線を走らせた。
「…ええと、これ?」
ふとぱっ、と目に飛び込んできた一枚を手にした。
「そう。ありがとう」
「本当に、これで良かったんですか?」
「本当に、これでいい。ありがとう。マキノ君も好きなの選んで座ればいい」
彼女はその上に座ると、雑誌を引き寄せ、ぱらぱらと床の上で繰った。
牧野は何となく腑に落ちない様な気もしつつ、まあいいや、と巨大な牛柄を選んだ。やっぱりふとんだよ、と思いつつ。
トレイの上には、温かい紅茶が乗せられていた。彼女は特に彼にそれを勧めるでもなく、自分は既に口にしていた。
沈黙が続く。それはそれで悪くないのだが。
「…何か面白い記事でも載ってます?」
「え? あれ、マキノ君、呑まないの?」
慌てて彼はカップを手に取る。
「今、記事って言った?」
「あ、言いました」
「見る?」
おいで、とトモミは彼を手招いた。それは大きな雑誌だった。ファッション雑誌の中でもアート系と言った方が良いものである。
「いいなあ、と思って」
「ああ… このベスパ」
何故そう言ってしまったのか、彼には判らない。ただその広げられたページを見た瞬間、彼の目には、一つのものが飛び込んで来てしまったのである。
石造りの道を、ペパーミントのスクーター――― ベスパに乗って、女性モデルが走って行く。そんな姿。
「うん。いいよね、これ」
「トモさん乗りたいんですか?」
「うん。ナナさんは駄目だって言うけど」
「どうして?」
「ワタシが乗ると必ず事故を起こすから」
うーん、と牧野はうなった。
「マキノ君は乗ったこと、ある?」
「や、無いですよ。だってまだ俺、十六になったばかりだし」
「十六歳。高校生。楽器やってるって?」
「ええ、ピアノ」
「やっぱり」
彼女の表情が微かに緩む。あ、笑った、と牧野は思った。だがそれはほんの微かなものだったので、普段から彼女を知らない限り、判らないくらいのものでもあった。
「…ピアノ、好きですか?」
「ピアノは好き。高音でもうるさくないし」
「ふうん… 高音、うるさいですか?」
彼女は曖昧に首を傾げた。
「人の声、ソプラノ・サックス、ピッコロ… ああ、あのバンドのギターも駄目だなあ…」
彼女はそう言うと、長々とバンド名を並べた。ざっと五十もあっただろうか。
「俺その半分も知らない」
「ワタシは記憶力だけはいいんだ。でもそのバンドは駄目だ。音が耳に当たって、痛い」
「ああ… 鼓膜がびりびり来るって感じ?」
「やっぱり? うん、それもあり」
何がやっぱり、なんだろう。その時ようやく彼は思った。
「ねえトモさん」
彼はカップを置いた。何、と彼女は問い返した。
「何がやっぱり、なんですか?」
「…もう少し、具体的に言って欲しい」
「うーん… じゃあちょっと変えます。どうしてトモさん今日、俺泊めてもいい、って思ったんですか?」
彼女は軽く目を細めた。そして口の中で何かをつぶやく。そしてうん、と小さくうなづくと、ゆっくりと答えた。
「間違ってたら、ごめん。ワタシはよく質問の意味を取り間違うらしいから」
「…そうなんだ」
メンバーの中で言葉少なな理由はそのせいか、と彼は思い当たる。
「でもキミはワタシと同じ種類の人間だ、と思ったから」
「同じ?」
彼女はうなづき、身を乗り出した。
「ワタシの言い方、判らない? もしそうだったら、キミはそうと言って欲しい。ワタシの問い方や言い方や話題は、時々何かが抜けてるか飛ばしていて判らないらしい」
うーん、と牧野は口を少し歪めた。奇妙は奇妙だ、と彼も思う。だがそれは何と比べて「奇妙」なんだろう。だって。彼は思う。
俺には、彼女の言おうとしていることが、「何となく」判るから。
たぶん、それがきっと。
「…どうだろ。コトバは時々ひどく難しいから。音の方が判りやすい」
「音。やっぱり音なんだ。ベースの音は、一番ワタシにとって心地よい」
「俺もベースは好き。それに同じフレーズが繰り返されるのって、安心できるよね」
「安心。そう、安心できるんだ。何よりも」
「ピアノも好きなんだ。でもあれは俺を不安にさせる。だから俺は時々ピアノを弾くのが苦しい」
「苦しいのに弾くの?」
「だってそれ以外、俺は俺の感じたものを外に出す方法が判らない」
「必要なんだね」
「うん。必要なんだ。苦しいけど。作ったひとの、音に込めた感情が、情景が、そのまま、ピアノから出た音が俺の耳を通るたびに、伝わって来る。俺はそれで立ち止まってしまう。まえにレッスンしてくれた先生は、それは大切なことだ、君の感性は大事にしろって言ったけど、…先生には、俺がどれだけ『痛い』のかは、判らない」
「…ワタシはそれ、判る。判る、と思う」
「判る?」
彼女はいつになく熱心にうなづいた。
「ウチのバンドと他のバンドの違いもそう」
「でも結構激しい曲あるでしょ」
「うちの音は、いいんだ。曲そのものが、心地いい。激しい曲でも、それはあくまで海や雨の激しさで、人のそれじゃあない」
「ああ… やっぱり海だったんだ」
彼は納得したように微笑した。
「見えるんだよね」
「そう、見える」
くすくす、と二人は笑い合った。
「コトバじゃないんだよね、あなたも」
「ワタシには、歌詞は判らない」
「俺もそう。そしてあなたは俺のそれが、最初から、判ったんだ」
「キミがあの男達に囲まれて、叫んでいる声を聞いたとき、ワタシが居るって思った」
彼女はつ、と牧野の頬に触れた。彼もまた、同じ様に指を伸ばした。彼女は避けなかった。
「ナナさんが、トモさんの側を通る時には気を付けて、って言ったけど」
「彼等は親切だ。ワタシが唐突に触れられると、飛び上がることを良く知っている」
それは彼自身にも覚えのある感覚だった。彼女程ではないかもしれない。だが無いとも言い切れない。そして「親切」も。
「でもワタシには、『親切に対しての感謝』以上の感情は、彼等に対して、どうしても持てない。フリは何とかするけど」
そうだね、と彼はうなづいた。
牧野は軽く目を伏せた。
「俺もずっと、故郷でそうだったんだ」
彼女は両手で彼の頬を包み込んだ。
「俺の育ったのは凄い田舎だったから、特にそうだった。窒息しそうだった」
「窒息。そう、彼等はワタシにもそう言った。マニュアル通りにやってるだけじゃいつか窒息する、って。でも必要だから父はワタシに遺したんだろう」
「お父さん、死んだの?」
「死んだ。昔だ。今じゃあない」
「哀しくはないんだね」
「哀しいのが普通の感情だ、と皆言う。でも言われてもワタシには困る。クラセが死んだ時もそうだった」
「クラセさん」
「大切なひとだった。父より大切だった」
牧野はその言葉に少なからずショックを受ける自分を感じていた。だがその反面、そんな事実があったのか、と冷静に受け止めてもいた。何しろそれは「過去形」なのだ。
「大切なひとだった。でも哀しい、という気持ちじゃあない。彼等にそう見えたとしても、それは違うんだ。ワタシはただ困った。どうしようもなく困った。それだけなんだ」
「うん、判る」
「彼等はおそらく親切な誤解をしているんだ」
牧野もまた、彼女の顔に両手を伸ばした。
「大切なひとが居なくなって困った。その様子が、彼等にとっての『哀しい』と似ているだけなんだ。ワタシは相変わらず彼等の言うところの『哀しい』という感覚は判らない。非難されてもワタシは困る。ワタシには感じられないんだから」
「あなたが言うなら、きっとあなたにとってはそうなんだ。俺もそうだ。俺は両親がちゃんと自分の両親だということは知ってるけど、彼等に対して、どうしても違うところの人間だ、という感覚しか持てなくて」
「困った」
「困ったんだ、そう」
彼等はそう言いながら、次第にお互いの間にある距離を減らしていった。
やがてその距離が0になる。
「大丈夫?」
と牧野は彼女の背に手を回して問いかけた。
「大丈夫」
と彼女は答え、同じ様に腕を回した。
「君は、ワタシを浸食しようとはしない」
「あなたは、俺を食いつぶそうとはしない」
「彼等は親切だ。だけど時々境界線を越えて来ようとする。それは困る。困るんだ!」
―――困るんだ、それは。
彼等は朝まで、牛柄のクッションの上で抱き合った。
だがそれだけだった。それ以上のことは、彼等には必要ではなかったのだ。