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8 3年後、メンバーはクラセの偉大さを思い知る

 ブー。

 トモミはヘッドフォンを外し、手にしていたベースを置いた。できるだけそっと。これは先輩のベースだから。

 そして立ち上がる。ブザーだ。もしかしたら先輩かもしれない。彼女は玄関へ向かう。

 のぞき窓から見る。違う。でも見覚えのあるひと達だから、扉を開ける。


「こんにちはトモミちゃん」

「こんにちはナナさん、奈崎さん、能勢さん、伊沢さん」


 ずらずら、と戸口に並んだ人々の名前を彼女は口にする。先輩ではないひとたち。ナナ以外はベルファのメンバー。だけどベーシストだけ居ない。変だなあ。でもいいや。

 彼女は一瞬のうちにそう判断し、そこで出すべき言葉を自分の中の「マニュアル」の中から探した。


「わざわざ皆さんすみません。せっかくですから、お茶でも如何ですか」


 すらすら、と「マニュアル」通りの言葉が彼女の口から流れ出す。ナナはやや目を細めながらうなづき、他の男達三人を促した。

 何度来ても、生活感のせの字も無い部屋だ、とナナは思う。何しろ「何も無い」のだ。

 生活臭のあるものは全て、クローゼットの中にしまわれている。テーブルは作りつけ。広い居間に現在あるのは、ベースとアンプ、それにコンポくらいのものだった。

 ナナはそんな居間をちら、と見ると、勝手知ったるとばかりにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。「お茶でも」と言いつつ、トモミがキッチンへと向かう気配は無い。ナナに向かって「自分がする」という声も無い。居間の真ん中で、再びぺたんと座っているばかりだ。おそらく朝からその状態だったのだろう。床には毛布も転がっていた。

 もしかしたら、「マニュアル」にも従えなくなっているのかもしれない。ナナは思わず眉と口を歪め、キッチンから問いかけた。


「トモミちゃん、朝ご飯食べた?」

「いつの?」

「今日の」

「今日は食べてない」

「昨日の夕ご飯は?」


 答えない。彼女は男達はちら、と視線を交わす。男達はうん、とうなづき、トモミにゆっくりと近づく。


「あのさ、トモちゃん、俺達とごはん食べに行かないか?」


 能勢は明るく、それでも穏やかな声で問いかけた。


「すぐにしなくちゃならないこと、ある?」

「それは、無いです」

「じゃあ問題はない。行こうよ。安くて美味しい店があるんだ」

「でも」

「おまけに結構そこ、静かだし」


 奈崎が付け加える。静か、とトモミはつぶやいた。


「父はそういうところ選んでくれたけど」

「お父さんが?」

「ああ、お父さんも亡くなってるんだっけ」


 ふと伊沢がそうつぶやいた。


「父も」


 トモミはそう繰り返す。


「父が死んでもう居ないのは確かですけど、父も、ってのはどういう意味ですか?」

「トモちゃん」


 奈崎は彼女の斜め前にかがみ込んだ。視線を直接合わせず、穏やかな口調で。予告無しに触れるのは問題外。それが以前彼が倉瀬から聞いた「注意事項」だった。


 だけど倉瀬君。


 奈崎は内心つぶやく。君が居た頃ならともかく、誰も彼も、それを守ってくれる訳じゃあないよ。


「ねえトモちゃん、毎日、食事も摂らずに、誰を待ってるの?」

「クラセを」


 不思議そうな顔で、彼女は奈崎をふらりと見た。その瞬間を奈崎は逃さなかった。


「ねえトモちゃん、クラセ君はもう、帰って来ないよ」

「帰って来ない? 奈崎さんはワタシに嘘をついている?」

「ついていない」


 きっぱりと彼は言った。


「だってクラセが死んだとは聞いたけど、誰も帰って来ないなんて言ってないし。だから帰ってくる」

「いいや」


 奈崎は大きく首を横に振った。


「僕は君に嘘は言わない。クラセは、君の先輩は、死んだ。死んで、もう帰って来ない。そのベースを残して、この部屋から、この世界から、行ってしまった。もう決して、帰って来ないんだ」

「嘘」

「嘘はつかない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」


 彼女は耳を押さえ、目をつぶり、がたがたと震えだした。

 奈崎はその頭をぽんぽん、と軽く――― 本当に軽く、叩き始めた。一定のリズム、一定の強さ。

 そこにハミングが加わる。能勢の声だった。それは低く、穏やかなものだった。

 彼女はほんの少し、顔を上げた。耳に当てた手を、少しだけずらした。


「奈崎さん、先輩と同じことする…」

「そう?」


 手は止まらない。そっと、そっと。


「能勢さん、…それ先輩の、うた…」


 うなづきながら、しかしハミングも止まらない。俺はどうしたらいいかなあ、という顔で、伊沢は苦笑し、奈崎とは逆の場所にそっと腰を下ろした。


「先輩には… もう会えないってことなの?」

「そう」


 ぽんぽん。


「もう会えない、んだ…」

「そう」


 口調は変わらない。平板なままだった。それでもそこに居た皆が、その言葉の微妙な変化をくみ取った。

 ハミングを止められない能勢の代わりに、伊沢が口を開いた。


「なあ俺達と食事しに行こう、トモちゃん」

「食事… 伊沢さんと、奈崎さんと、能勢さんと、ナナさんと」

「そうよ」


 ナナはトレイに人数分の「お茶」を用意していた。


「これを呑んで、少し元気を出したら、みんなで行きましょ」

「そして、お腹が膨れたら、僕等と一緒に――― バンドをやろうよ」


 葬儀の日、能勢と伊沢を召集したリーダーは、現在のベーシストをクビにし、代わりにトモミを入れることを提案した。


「でもメジャーへの道は遠のいたねえ?」


 能勢はその時苦笑した。奈崎はかもね、と昔なじみと同じ表情を浮かべた。


「でも、僕はそうしたいんだ」


 だね、と二人はうなづいた。彼等にとって、メジャー行きは重要なことではない。

 居場所は自分達が決める。人に決められるものではない、と。

 そしてトモミはその日からベルファのベーシストとなった。



「…あ?」


 「ACID-JAM」の扉を開いた時、トモミは不意に声を立てた。


「どうしたの」


 何かに関心を持った様な声。珍しい。ナナは思わず問いかけた。


「あれ」


 トモミはベースを掛けていない方の手をつ、と真っ直ぐ伸ばした。ん? とナナはその肩越しに指さす方向を見る。


「あ、男の子が」


 ひょい、と能勢はちょっとごめんよ、と言いながらナナを越え、トモミの横をすり抜けた。トモミは軽く右に避ける。


「うっわー可哀想。おいちょっとリーダー」

「何、一体」

「『多勢に無勢』しよう。伊沢も来いよっ」

「え、ええっ!!」

「はあい」


 トモミは自分の左側をすりぬけて行く男達に身体を軽くすくめた。そして彼等が抜けた後をついて行こうとする。


「あ、ちょっと、トモちゃん、あんたまで… 危ないわよ」

「ワタシなら大丈夫、ナナさん」


 大丈夫じゃないって! とナナは背後から声を飛ばすが、トモミは聞く耳を持たない。


「あーもう… 仕方ないわね」


 ナナもまた、その後を追いかける。「多勢に無勢」と言っても、男の子に絡んでいるのは三人なのだ。

 ナナに背を向け走るトモミの姿は、確かに一見して女には見えなかった。

 背は高い。170センチ近かった。髪もこれでもかとばかりに短く刈り込み、更に前髪がうるさい、とばかりにおでこを丸出しにしている。

 化粧気も無い。黒いジーンズに黒い上着、黒いハイネックのシャツが、大きくならない胸、しっかりした肩幅もあって実に似合っている。それが今のトモミだった。


 倉瀬の死から三年、経っていた。


「野郎でもいーじゃん。綺麗さんだしさ。ちょっとそこまで付き合ってくんない?」

「やだ!」


 駆けつけるベルファのメンバーは聞こえて来る声に嫌そうに顔を見合わせた。


「でもあの子、元気がいいねえ」

「でもこのまま放って置いたら、あの子、貞操の危機かも」


 能勢は上着を脱ぐと、ほい、とナナの方へ投げた。ナナは何よ、と言いながら器用にそれを取った。


「貞操の危機って… お前いつの人間よ」


 言いながら奈崎もまた、シャツの袖をまくる。お前と同じでしょ、と能勢は口走る。


「あ、あの子、もしかして」


 ナナは思わず口にする。何、と奈崎は振り向いた。


「さっき、あんた達のライヴに来てた子よ」

「ウチの客!?」

「ええ。何か終わった後、ぼーっとして最後まで残ってたから、もう閉めるって…」

「そりゃあ、ウチの演奏に感動したってことかなあ。ねえ能勢?」

「そうそう。ますます助けなくちゃ男が…」


 能勢は言いかけて、ちら、とトモミを見る。


「いや、人倫に反するってね」

「お前本当に… 以下略!」

「略すなよ」


 昔なじみは察しが早い。格別な合図も無いのに、能勢も奈崎も、勢い良く三人に向かって飛びかかって行った。後を慌てて伊沢が追う。トモミもその後に続く。しかも三人の真似をして、男の一人に蹴りまで入れている。


「…全くもう…」


 荷物を一手に持ったナナは、思わずため息をついた。


「…覚えてろ!」

「どーして覚えてなくちゃならない訳?」


 トモミは不思議そうに、心底不思議そうに口にした。聞こえたのだろうか、男達はけっ、と道路に唾を吐いて逃げ出して行った。

 多勢に無勢、も無かった。

 能勢と奈崎は実に良い連携プレイで、三人をあっという間に転がしてしまった。伊沢とトモミはその後に蹴りやパンチを入れていた。

 何でこんな優男達が、と言いたげな目で、転ばされた男達は彼等をにらみ付けた。すると奈崎はにっ、と笑ってこう言った。


「あいにく僕、合気道二段なんだ」

「俺は少林寺拳法三段」


 うわ、とそれを聞くと、男達は慌てて立ち上がった。そして前の捨て台詞を吐いて逃げ出したのである。


「…あんた達、そんなこと、初耳だわよ」


 ナナは能勢に上着を渡しながら言う。へへへ、と彼は笑いながら相棒の方を向く。


「それゃあ、中学の頃のことだし、な」

「そ。何とかなるもんだねえ」

「あ、ナナさん俺も剣道は初段ですよー」


 伊沢も負けじと口にする。そんな奴等がどうして揃って音楽の道に走ったんだ? と突っ込みたい気持ちがナナの中に軽くよぎる。

 だがとりあえずはそれどころではない。あの男の子は大丈夫だろうか? そう彼女が思った時だった。


「大丈夫?」


 え、とナナはその声の主が誰なのか、一瞬疑った。奈崎もギターを受け取りながら、不思議そうに視線を移す。トモミが何と、少年に向かって手を差し出しているではないか。


「…大丈夫です」


 そう言って、少年はトモミの手を借りて立ち上がった。


「わ、可愛い」


 能勢は思わず声を上げた。少年はトモミより頭一つくらい背が低かった。様子見を兼ねて彼は少年に近づき、つんとその頬をつつく。


「あー、ここすりむいてる」


 痛、と少年は目を細めた。道路に押しつけられたのだろうか、確かにそこは擦り傷ができていた。


「ねえトモちゃん、この子、ケガしてるよ。どうしたらいいだろうねえ」

「…戻りましょうか?」


 能勢の質問に対し、トモミはそう言いながら、少年の手をぐい、と引っ張った。わわわ、と彼はうろたえた。にやり、と能勢は笑う。


「そうだね、何はともあれ、ケガした子は手当てしてあげましょうね。ナナさんや、店に救急箱、ありましたっけ?」

「…当然でしょ!」


 ナナは慌ててトモミと少年を追いかけた。あまりにもその光景が珍しくて、手も口も出せなかったのだ。

 くっくっく、と笑みを浮かべると、奈崎は立ち止まったまま、ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。


「俺にもちょーだい」


 横から能勢が手を出す。ほいよ、と奈崎は箱ごと渡す。吸わない伊沢は口だけを挟む。


「なああれ、珍しい…よなあ」

「珍しいどこじゃねーよ」


 能勢はいー、と口を横に広げ、顔をしかめながらもらった煙草を振り回す。奈崎もまた、ふう、と煙を大きく吐き出す。


「そうだなあ… 少なくとも僕も、トモちゃんが誰かに手を出したとこは、見たこと無い」

「…だよなあ」


 三人は顔を見合わせた。




「あーあ、綺麗な顔なのに…」


 再び「ACID-JAM」。戻るが早いが、ナナは事務所に飛び込み、救急箱を借りる。


「このくらいだったら、すぐに治るわよ」

「す、すみません…」


 丸椅子の上の少年は、揃えた膝に両手を置き、思い切り恐縮していた。


「あー、若いっていいわよねえ… 何もしなくても、男の子でもすべすべって…」


 そんな、と頬が軽く染まる。あら純情、とナナはにっこりと笑った。


「君、今日のステージ見てくれたって?」


 そこへ遅れてきた男達が質問を投げかける。

 メンバー達から問われ、少年は戸惑う。それでもこの目の前の女性にからかわれているよりはいい、と思ったのか、奈崎に向かって、はっきりと言った。


「良かったです… あの、俺、こういうの見たの初めてで…」

「初めて!」


 奈崎は驚く。その反応にまずい、と思ったのか、少年は慌てて付け足す。


「でも! その初めて見たのが、えーと… ベルファストで良かったと思います!」

「や、ベルファスト違う。それじゃ地名じゃないの。BELL-FIRSTよ」


 能勢はチチチ、と片目をつぶり、人差し指を横に振った。


「良かった」


 トモミは唐突に口をはさんだ。


 な、何が良かったんだ? 俺達のライヴを良かった、って言ったことか? 最初が俺達だってことか? それとも傷のことか?


 男達の脳裏にざざっ、と疑問が流れた。彼等はあえて不自然過ぎない様に、彼女に視線をやった。ナナはその男達の視線に呆れた。


「何が良かったの? トモちゃん」

「この子の傷が残らないこと。この子が最初に見たのがうちのバンドだったこと。この子、可愛いし」


 はああああああっ!?


 おそらくその時、その場で硬直していなかったのは、当のトモミと少年だけだったろう。


 可愛い? 可愛い? 可愛い?


 トモミは自分が発したその単語が、周囲をどれだけパニックに陥れているのか、全く気付かない様だった。しかも前屈みになると、痛い? と先程のナナの様に、少年の頬に指先を当てたりしている。


 一体全体、トモちゃん、どうなっちゃったのよぉ!


 ナナも内心叫んでいた。

 あのトモちゃんが。倉瀬の死以来、メンバー以外の誰にも関心のかの字も持たなかった様な彼女が。いやメンバーにもそう言った「感想」を述べたことなんて、一人当たり片手で数えられる程だというのに。


 …これは。


 トモミと違い、パニックから立ち直るのが早い普通人達は、この状況をどう活用すべきか、即座に判断すべく、持ちうる知恵をフル回転させだした。

 そしてまずリーダーが切り出した。彼は少年の肩に手を置き、にっこりと笑った。


「ねえ君、今度のライヴもおいでよ」

「え、でもいつ…」

「次は来週の同じ曜日、同じ時間。…な?」


 彼は昔なじみに視線と話を振る。何かいい考えあるなら出せ、とその目は訴えていた。そして彼の友人は、期待に背かなかった。


「そーそー、来週。そぉそぉ、これやるよ」


 能勢は上着のポケットから、やや端がよれたチケットを取り出した。

 何でお前がそれをまだ持ってるんだ、と、一瞬奈崎は聞きそうになった。確かそれは一昨日お前が従弟に頼まれたから、って渡した奴だろう、一応売り物なんだぞ。確か昨日のうちに渡したとか何とか言ってたよなあ、なのに何でまだそこにあるんだ。

 だがそれは確かに、その場にはありがたい小道具だった。


「で、でも、悪いですよ! 俺、…助けてもらったのに!」

「いやいや、ファンは大切にしなくちゃね」


 伊沢も口を挟む。

 一方、トモミはそんな彼等の積極的な姿には無関心なまま、少年のすべすべした頬をまだ撫でていた。そして不意に問いかけた。


「…名は?」

「え?」

「名前。ワタシは吉衛トモミ。ベーシスト。トモって呼ばれてるけど」


 ああ「人の名を聞く時には自分も名乗れ」だな、と皆が皆納得した。それは彼等も皆一読した「マニュアル」の中にある項目だった。

 少年はぼそ、と口を開いた。


「マキノ」

「マキノ?」

「牧場の牧に、野原の野」

「…ああ、やっぱり」


 何がやっぱりなんだ! 名と身体が合っているというのか、それとも何かそういう名を予想していたというのか! 


 周囲は思わず突っ込みたい衝動にかられた。

 倉瀬が死んで三年。また春がやって来ていた。彼女を引き取った「BELL-FIRST」のメンバーは、決して短くはないその時間の中で、トモミの習性や、行動規範については、ある程度理解していたつもりだった。

 だからある程度は行動は予測できていたのだが。

 こんな時、皆で思うのだ。


「倉瀬って… 偉大だっただったよなあ」

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