プロローグ
…あ?
彼は自分が起こされたことを知った。
―――また、かよ。
彼はゆっくりと身体を起こした。
動作は自分自身に「身体」という感覚があることを思い出させる。
時々思い出さないといけない。そうしないと、自分がそういう存在だったことすら、忘れてしまいそうだった。
―――ああ、あそこだな。
顎をしゃくる。
―――ああやっぱり、歪んでいる。
肩をすくめ、腰に手を当てる。
「おい」
音声で、呼びかける。
「出て、来いよ」
空間の一部が、揺らいだ。
彼はもう一度繰り返した。今度はもう少しヴォリュームを上げて。
空間が波打つ。揺らぎだけではなく。その波の中央に、ふっ、と何かが浮かび上がる。
いや違う。
むしろ「それ」は水の中から引き上げられたかの様だ。
「遅い」
彼はつぶやいた。
口を動かしながら、だんだん自分の身体感覚がよみがえってくるのを感じる。視覚がはっきりしてくるのに対応する様に、「それ」は次第に彼の前で形を取り始める。
―――人間かよ。
それは彼の知っている限り、この空間の中で、最も多く「歪み」を作り出す生物であり―――彼にとっては、最も良く知っている生物だった。
「よぉ」
ひょい、と彼は左手を挙げた。
「それ」は、彼のその行動に対し、なかなか反応を返して来ない。ふん、と彼は鼻息荒く息をつくと、手を一つ叩いた。
その途端、「それ」は大きく目を開いた。だがそれだけだった。呆然と、ただまっすぐ、彼を見据えるだけだった。
「おい、喋れないのか?」
「それ」の頬がぴくりと動いた。
「いや、そんなことはねぇよな」
「あ…」
その時ようやく「それ」の口が開いた。
彼はその時にははっきりと形を取っている「それ」の姿に一通り目を通す。そしてなるほど、と顎に手をやると、小さくつぶやいた。
「何を、どう、喋っていいのか、お前、判らないらしいな」
心なし、彷徨う視線に彼はふうん? と口の端を上げる。
「じゃあオレの方から質問するぞ。おいお前、お前はオレの姿がどういう風に見える?」
「あんたの… 姿…?」
彼は長い腕を前で組むと、ほぉ、と両眉を高く上げた。
「ふうん、その言語かぁ。じゃ、あの次元のあの時間帯か」
ふむふむ、と彼は納得した様に大きくうなづく。
「とにかく答えな。答えられるだろう? 答えろよ。オレはお前の目から見て、どう見える? だいたいあの惑星時間で二十年前後生きてきただろう、ホモ・サピエンスよぉ」
「…栗色の髪が長い…で、でも、そんな」
言いかけて、「それ」は大きく首を横に振った。姿の一部が、激しく散らばるかと思われる程に。
「そんな、何だよ」
「だって俺が知っているその姿の奴は、もう…」
「そりゃそーだ。別にお前が見ているのはオレの本当の姿ってことじゃあないからな」
「それ」は眉を寄せた。ああ元々濃かったらしいな、と彼は思う。その部分だけが、顔のある部分の中で、妙にはっきりしている。
「もう少し続けてみな。オレはお前の目からはどう見える? 栗色の髪が長い、…女?」
「いや… 男。背が高い、かなり音が好きだった、バンドのドラマー。…ってそのままだ! だから、そんなはず無い!」
「何で?」
「だって、…彼はもう死んでいる」
「お前だってそうだろ」
う、と「それ」は言葉を詰まらせた。
「…俺、が…」
「そうだよ」
あっさりと彼はうなづいた。
「お前はもう死んでる。普通なら、ここにも出てくることができる存在じゃあない」
「やっぱり――― 俺は、死んだんだ」
「ああそうだ。お前はもう、死んでる」
畳みかける様に彼は繰り返す。
「そうでなくちゃ、お前がオレに呼び出される訳が無い」
「…」
「今お前の目に映ってるオレは、お前にとって一番最近、身近で死んだ奴だ。別に身内とかじゃなくてもいい。気持ちの上で身近な奴ってことだ。…ってことは、お前もバンドな奴な訳ね」
そして彼は「それ」に向かって手を伸ばした。
「…ま、そろそろ本論に入るか。とりあえずお前も座れよ」
何処に、と問いかけようとした時、「それ」の身体はソファの中に沈んでいた。少なくとも「それ」にとって、それは柔らかすぎず、堅すぎず、心地よいソファに感じられた。
だがふとその足元を見て驚いた――― ソファは、浮いているじゃないか!
そして「それ」はその時初めて、自分の周囲に気付いた。
暗い。闇の中と言ってもいい。
目覚めたばかりの意識、目の前に居るはずの無い人物。
それまで把握することができなかった状況が、急に「それ」に迫ってくる。一体ここは。
確かに、ソファに座っている感覚はある。だが足の裏は心許なかった。下手に身体を動かしたら、そのまま闇の中に、何処までも落ちて行くのではないかと思われる程に。「それ」は思わずソファにしがみついた。
ところが目の前の彼――― 「死んだドラマー」に良く似た男は、その状況が当たり前の様に、よく似たソファに、リラックスした体勢で足を投げ出し、肘をついている。
良く見ると、そのソファはやや傾いでいる。浮いているのだ、やはり。
そして彼はにやりと笑うと、こう言い放った。
「オレはここの空間の『管理人』だ」
「『管理人』?」
「そぉ。お前にどう見えているとしてもな。ま、でも割とお前はオレの居た文化圏に近い奴だな。まだマシだ。こないだの歪みの原因なんか、鉱物系だったから、思考回路のパターンが違いすぎて時間がかかったことかかったこと」
諸手を上げて目を伏せ、管理人は歯をむき出しにして悪態をつく。「それ」ははあ、とうなづいた。うなづくしかなかった。
「…で、オレの『管理』してるのは、まー、こんなものかな」
管理人はよっ、と一声掛けると位置をずらして長い足を組み、軽く指を鳴らした。
途端、闇が開けた。
痛い程の光が「それ」の目を突き刺す。まぶしい。「それ」は目を細めた。
見上げた頭上、天に向かい、何処までも何処までも、色という色が光をはらんだ空間、広がる空、それでいて、足元は足元で底が見えない程深く、けどやはりそれは光で満ちていて。
…慣れるまで、時間がかかった。
そして慣れた目には。
見計らったかの様に管理人は問いかける。
「なあ、お前の目には、これが、どう見える?」
「たくさんの… 道?」
「道?」
「や、違う」
「それ」は首を横に振る。
「ガラスのチューブ…や、まだ違う、…ガラスの箱? 球? …だ… よな! 滅茶苦茶たくさんの!」
「ふうんなるほどね。お前にはそういう感じか」
管理人は軽く顎を上げた。
「だよ。箱が幾つも重なって、重なって、ちょっと、どうして俺は――― おい、ちょっと待てよ、これ、俺の身体、通り抜けてるじゃないか!」
通り抜けてる。確かにそうだった。
目に映る「無数のガラスの箱もしくは球」の連なりでできたチューブは、自分の身体を通り抜けているのだ。それも自分だけ。ガラスの箱チューブは、管理人の身体は器用に避けていた。少なくとも「それ」にはそう見えた。
正直、気持ち悪かった。
しかも視線を落とすと、突き抜けているチューブを構成している箱や球の中に、何かが――― ひどく小さな何かが、蠢いているのが判る。たまたま視線の位置から、それは自分の手の中を動いている様にしか見えないが、頭から胸から…、想像するのも恐ろしかった。
そんな感情を読みとったのか、管理人は手をぱん、と打った。
途端、自分と相手の間にある一本だけを残し、再び闇が戻ってきた。一本の柔らかな光だけが残された、静かな闇。「それ」は奇妙に安心する自分を感じた。
「さて、今のがオレの『管理』しているもの。なあお前、あれが何か、お前には判るか?」
首を横に振る。判る訳も無かった。
「世界だよ」
「世界?」
「ああ、『世界』って言葉じゃちょっとでかすぎるな。お前のとこの言葉じゃ。そぉだな、次元と時間の集合体ってとこか」
そして残した一本のチューブを親指で指し示す。
「これがお前の居た次元。…でもって、お前が居たのは、ここからここまで」
ひょい、と管理人は、右手で重なり合うガラスの箱を持ち上げた。ぷるぷる、とガラスの箱は震えた。震えている。少なくとも「それ」にはそう見える。
「お前の見え方からすると、このチューブの中には、無数のガラス箱だかガラス玉が、もの凄く細かく細かく重なり合ってることになるんだよ。…この端っこが、お前という人間が生まれた瞬間」
「俺の」
そう、と管理人は、もう一つの端を示す。そして左手でその端の一つを引きずり出し、ふわりと放り投げた。
あ、と「それ」は思わず声を立てていた。
投げ出された「箱」は、淡い光を放ちながら大きく膨らみ、闇の中にぼうっと一つの光景を映し出した。
悲鳴。ざわめく人々。急停止する列車。アナウンス。
あれは。
「それ」の身体が瞬時にして凍り付く。
「そうだろう?」
「…たぶん」
「それ」はうなづいた。そして思う。ああやっぱり、俺は。
「それで、だ」
はっ、と「それ」は顔を上げる。
「お前は何で自分がここに居るのか判るか?」
「それ」は無言で首を横に振った。
「ま、判らねぇだろうなあ。…ま、とりあえず、茶でもどうだ」
茶? と唐突な言葉に「それ」は戸惑う。
すると「それ」の目の前に、湯気を立てたカフェオレボウルが出現した。慌てて「それ」は手に取る。暖かい。
ふと見ると、目の前の相手もカップを手にしていた。そちら側からは紅茶の香りがしていた。誘われる様に、「それ」はボウルに口をつける。
「美味い…」
「そりゃそうだ。そこにあるのは、お前の望んだ『お茶』だからな」
「って」
「お前は無意識に座れ、と言われてソファを思い浮かべた。『お茶』と言われて、お前が生きていた時に好きだったものを思い浮かべた。それだけだ」
「それ」は再びボウルに口をつけた。改めて思う。確かに美味い。記憶の中にある、一番美味いカフェオレの味だった。
「ここにあるものは、在るけど無い。無いけど在る。そういうものだ。お前自身も、そう」
「…在るけど、無い…」
そうだ、確かに。「それ」は思う。自分は既に無いもののはずだ。…あの光景が、本当なら。
「って言うか、お前は基本的には、出てきちゃいけないもの、なんだよ」
「!」
さすがに「それ」はボウルを取り落としそうになった。
だがそれは落ちない。手に軽く付いているだけなのに、落ちる気配は無い。思わず「それ」はボウルと手と管理人との間に視線を往復させる。
平然と管理人は続ける。
「お前は既に死んでる。本当に死んでたら、死んでるなりに、行き場所ってのがあって、…ま、その場所とか行き方は、オレの管轄じゃあないから何だけど。ともかく、オレに呼び出されて出て来るってことは、絶対に無いんだ」
「それ」は黙ってうなづく。
「だけどお前は出てきた」
「…」
「と言ってもな、別に『お前を』呼んだ訳じゃない。オレは歪みの原因を呼び出した。そうしたらお前が出てきたんだ」
「歪み?」
「そ。この空間の歪み。ここの管理人としては、あると困る『歪み』」
「じゃあ俺が、その歪み…?」
「や、歪みそのものじゃあない」
管理人は首を横に振る。
「だけど関係はある。それは確か。呼び出されたことがその証拠だわ」
当たり前の様に管理人はうなづき、ソーサーからカップを取った。半ば寝ころんでいる様な不安定な姿勢なのに、彼もお茶も、やはり不安定とは無縁だった。
「本当の歪みはここ」
茶が管理人の手から消える。
同じチューブの中から、彼はまた一つの箱を取り出した。そしてそれまでで一番真面目な表情になると、ここだ、と先程と同じ様に光景を広げた。
あ、と「それ」は思わず声を立てていた。
「心当たり、あるだろ?」
―――雨が降っている。
一人の女性が、傘もささずに、立ったり座ったりを繰り返しながらあちこちを見渡している。
最初は夜。おそらくは夏の終わりか秋のはじめ。
半ばむき出しの腕を雨に濡らしながら、彼女は延々何かを探し続ける。
そしてそれは朝まで続く。
雨も降り続けている。人々の通勤通学時間になっても、彼女はそのまま、探し続けている。
「あれが歪み」
管理人は立ち上がるとその光景を指し、きっぱりと言った。
「だけど『歪み』ってこと以外はさっぱりオレにも判らない」
「判らない? だってあんた、管理人だろう?」
「管理人ったって、所詮ただの番人だ。オレだってここの事情を全部が全部把握している訳じゃあない」
そういうものなのか? と「それ」の眉が近づいた。
「そういうもの。いい加減なものさ。けど起きてしまったものは何とかしなくちゃならない。そこで事情を知りたい。それが判らないと、オレにもどうにもならない」
それはそうだが、と「それ」は唇を軽く噛む。
「そこで、事情に関係があるだろう、お前が呼び出されたんだ、と思うんだがね」
「…でも俺は、あんな彼女は、知らない」
「そりゃあそうだ」
管理人は両肩を軽くすくめた。
「あれはお前の死んだ後の時間」
「俺の」
「そ。お前が知ってる訳がない時間。だけどあの歪んだ一コマのせいで、ここの空間の全体のバランスが崩れることだってある。…それは困る」
「困る…」
「在るべきものは在るべき場所に。そうでなくていいのは、たった一つだけ。それがこの空間の掟」
にやり、と管理人は口の端を上げ、「それ」に向けて再び何処からか現れたカップを掲げた。
「言ってみな。お前とこの『歪み』について。『クラセ・ヨシタカ』」
途端、「それ」の輪郭がくっきりとその場に浮かび上がる。
「やっぱり名の力は効くな」
それまで自分の状況に手一杯で、それ以外のことは考えられない様だった相手は既に、「歪み」の方に強い意識を向け始めていた。
「…話すのはいい。だけど、何処から話せばいい?」
「何処からでも。判断はオレがする。管理人はオレだから」
そうか、と「クラセ・ヨシタカ」は大きくうなづき、思い出した様に手の中にあったボウルの中のカフェオレをくっ、と飲み干した。
「あんたの言う『歪み』は俺の友人だ。そしてルームメイトで… 妹みたいなものだった」
そして付け足した。
「一番、大切な奴だった」