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電子世界――日本管理領域"Estmidhia-エストミディア-"。
その中心ともいえる、日本政府管理サーバー"ルミノス-00"にそびえる、とある超高層ビル。防衛省・広域ネットワーク総合維持部(略称・MOW)の統括機関の一つ――MES(MOW/Estmidhia Side)の本局。長い髪を両サイドで結んだ少女――波立凛音はそこに来ていた。
デジタルデータであるとはいえ、それなりに金と時間が費やされて造られたであろうこの建物のエントランス、そこから伸びる三つの廊下のうち、東へ伸びる方を進んでいくと、とあるロビーが見えてくる。MES直轄部隊エタンセルの総合受付ロビーだ。
「真彩さん、おはようございます」
凛音は、受付カウンターに座って、なにやら投影ディスプレイとにらめっこをしている受付嬢、神無月真彩に声をかける。
「ん? あ、凛音、おはよう。今出勤?」
「そうですけど……どうしたんですか?」
「んー、ちょっとね。このアイテムを今買うか、給料日を待つか考えてたのよ」
「アイテム?」
仕事中になにやってんだこの人は、そう思った凛音だが、今さらなのでそれには言及しない。
「そう。アウトレット通販でなかなか良さげなものを見つけたんだけどね……これ」
そう言って真彩が見せてきたのは、BFT対応のデスクトップ端末、そのカスタムパーツだった。
BFTとは、ブレスレット型高機能携帯端末のことで、電話からネットワークへのフルダイブまで可能にする優れものだ。現実側で使われているものだが、その現実側に極力環境や文化などを合わせるその一環として、電子世界でも利用されている。厳密には実物ではないのだが、この世界にいる使用者である凛音たち自身がデジタルデータであるため、そのあたりに違和感などはない。ちなみに、再三になるがここは電子世界、システムさえ自力で組めるなら、BFTという目に見えるオブジェクトを利用しなくても、同じことを行うことができる。
「このスペックでこの値段。これを逃す手はないんだけど、給料日前だし……ああでも、早く購入しないと売り切れる可能性が……ねぇ凛音、どうすればいいと思う?」
そんなのは、私じゃなくて財布にでも相談しろ(この世界では電子マネーオンリーだけど)と思わず言いそうになったが、寸前で止める。
この人を無下に扱ってはいけない、というのがここでの暗黙のルールだ。なにしろ、とんでもないハッキングスキルの持ち主で、しかもMESのシステム総合管理部に顔が利くという、恐ろしい武器を持っている。なにを改ざんされるか分かったものではない。MESの最高責任者である本局局長ですら、真彩には頭があがらないとか、なんとか。
「えーと……必要なら買えばいいんじゃないですか? 給料日前っていても、全然余裕がないってわけじゃないんですよね?」
「うーん……わかった、そうする。給料日まであと四日だし、ま、なんとかなるでしょ」
「じゃあ、決まったところで、そろそろ……」
「あぁ、出勤手続きね。ごめんごめん、今やるから」
真彩はBFTを、正確にはそれに無線接続されてるデスクトップ端末を操作する。
すると、凛音の目の前にディスプレイが立ち上がり、ウィンドウが表示される。BFTによる生体個別認証について訊かれたので、凛音はOkを押した。すると、BFT同士のアドホック通信により、認証が完了。これで、凛音はようやく出勤したことになった。
「はい完了。それで、第三部隊の任務だけど……今入ってるのは一件、法人サーバ”インデル-05”におけるNV(=Network Virus――ネットワーク・ウイルス)戦よ。綴は今局長室だから、それが済んだらすぐに出撃てくれる?」
「わかりました。それで、綴が局長室ってことは……」
「ええ。スーパーライセンス、合格したみたい」
国際連合主催の撃滅士スーパーライセンス――世界で最も難度の高い国際ライセンスで、現在エタンセルでこれを所持しているのは、今回合格した綴を含めても三人。エストミディア全体でも、五人程度と言われている。凛音も一応国際A級ライセンスまでは取ったが(ほんの数日前に)、正直ギリギリだった。しかも一回落ちてたりする。とにかく、スーパーライセンスとは天才が必死に努力して取れるか取れないか、そういうレベルの代物なのだ。
「おお、じゃあ任務から帰ってきたらお祝いしないと」
「そのときは、私も呼んでよね。久々に飲みたいし」
「……一応言っておきますけど、私たち未成年ですからね?」
「でも、綴は今年成人になるんでしょ? ちょっとぐらい早くても、誰も咎めないわよ」
「まぁ、そりゃそうかもしれませんけど……」
今は四月の初旬。そして、綴の誕生日は七月、約三ヶ月先だ。しかし、あと三ヶ月もすれば、綴は年齢的に大人の仲間入りを果たす。
「まぁ、とりあえずわかりました。どのみち終わったらここに顔出さないといけませんし、そのときに改めて」
「了解。それじゃ、気をつけていってらっしゃい」
「はい」
凛音は、真彩から任務の概要書を受け取ると、局長室へ向かった。