表裏一体
何処の世にも表があれば裏がある。秩序に守られたきれいな表の世界は、実は裏の仕事によって守られていたりする。殺人者や泥棒は全て裏の世界の住人で、表の世界に恐怖と混乱を招き入れた。だから表の世界にルールや規則が生まれたのだ。裏が無ければ、表は恐怖を知らなかった。どれが悪かも分からずに、殺人さえも善となっていたに違いない。だから、表があるのは裏のおかげなのだ。
なんて言うのは、俺が裏の世界の住人だからか。裏に住む俺は裏を肯定したいのだ。でなければ、悪に染まった自分を操縦できなくなってしまう。だから好きに言わせて欲しい。
――特に、今は。
「あ、はい。エルゼです」
俺が今いる場所は路地裏である。路地裏という所にはあまり入らないほうがいい。特に夜は裏世界の入り口……否、裏世界の仕事場だからだ。罪を犯す場所なんて、本当は何処でも良いのだが俺たちは堂々と罪を犯すほど、愚かではない。
一般的にも暗いところは危ない。そう決まっているから親が子に教えるのだ。
「えぇ。黒スーツに赤タイなんて目立ちますから」
携帯電話を右手に、俺は男を追い詰めていた。漆黒のスーツを着込みネクタイは真っ赤、左胸には金色に輝くバッジをつけている男だ。俺はこの男の名前は知らない。が、表の世界ではかなり有名な男らしい。
そして反対の手には拳銃を持っている。発砲する準備は既に整っていた。銃の色は深夜の暗闇に溶け込みそうな程の黒。ボスには銀色を薦められたが、丁重に断った。さすがに格好を付けすぎだろう。こんな仕事に格好を付けても何の意味もありはしないからな。
ボスとは、今、俺が電話をしている相手だ。表の世界で言う社長みたいなもので、裏の事はほとんど彼が指示を出していると言っても過言ではない。この赤タイの男を殺せと言ったのも彼。俺たちはそんな彼から殺しの依頼を引き受けて生計を立てている。そうして今、その彼から殺せと命令が下った。俺はその言葉通りに銃弾を男の身体に撃ちつける。発砲の反動が左腕の骨から全身に響いた。
「ボス、標的を殺しました」
人を殺すの事に抵抗はない。それはいつからか知らないが消えてしまったらしい。ずいぶん昔から裏の世界に住み着いているからだろう。でも良心がない訳じゃない。殺した後は必ず、両手を合わせて冥福を祈っているし、二日後には家族や友人に知らせを送っている。何処で倒れているか、ちゃんと分かるように場所を記して、と……。
意味のない事をする。
「あの、すいません」
「え?」
「道に迷ってしまったので教えて頂きたいのですが」
携帯電話の明かりが俺を照らした。その光のせいで相手の顔は確認出来ない。だから何が起こっているのか理解するのに時間がかかってしまった。急いで考えたが、理解した時には既に遅かったらしい。
全身で危機を感じた瞬間に彼女が大声で叫び出したのだ。まるでジェットコースターに乗っているみたいな絶叫っぷりだった。
「ちょ、ちょっと待て!」
つい銃を手放して彼女の口を押さえた。そのせいで勢いあまって彼女の後頭部を壁にぶつけてしまった。だが死んじゃいない。
少し暴れたが。
「黙ってくれ、頼むから」
女の目をじっと見てそう言うと怯えた目のまま彼女は何度か頷いた。少しばかりの安心も束の間、表の明るい道から彼女の叫び声を聞きつけた何人かの影がこちらに来るのが分かった。
声が近づいてくる。
俺は急いで銃を拾い上げて彼女を路地の奥へ連れて行った。口はもう押さえていないが必要はなかった。恐怖で声が出ないらしい。呟きすら聞こて来ない。
足音を立てないようにと思うのだが、彼女のヒールがカツカツと煩い。だがどうしようもない。とにかく俺はただ、奥へと進んだ。
ボスが用意してくれた、いつも仕事終わりに来る隠れ家に彼女を連れて行き、追いかけてくる数人をやり過ごした。赤タイの男はもう見つかってしまっただろうな――何てこった。
痕跡も消せないまま、逃げてきてしまった。手も合わせてないし冥福も祈ってない。全く不運だ。
――ふと。
右手に持った携帯が通話のままだった事に気づき、俺は更に頭を抱えた。
きっとボスにばれた。しくじった事を。許されるはずがない。あぁ、今までは上手くやっていたのに。
「……もしもし、ボス」
深呼吸をしてから、ゆっくりと携帯を耳に当てた。俺の言葉に、ボスはいつもと変わらぬ低い声で「状況説明をしろ」と言った。
俺は仕方なく今までの事情を説明する。まず、赤タイの男を殺した。その後、男の処理をしようとしたらある女に見つかった。その女は俺を見て叫んだ。
だからその女を……。
「殺しました」
ボスは短く返事をした。それからいつもの様に報酬の振込先を確認して、通話を切った。俺の耳には電子音がいつまでもこびりついた。心臓が激しく鼓動を打ち続ける。俺はこんなにも小心な男だったのか。
それよりボスは信じてくれただろうか。多分、信じたはずだ。俺は一度だってへまをした事がないからそこらの奴より信頼はある。とにかく、事実がボスの所へ届く前に全ての事を処理をすればいいのだ。
「……あの」
「何だ」
この危機を回避しようと頭脳をフル回転していたところに、あの女が声を出した。元はと言えばお前のせいだ、と心の中で思うのだけれどそこは俺の良心が働く。殺してはいけない。
ここで女を殺してしまうと、俺は見境の無い殺人鬼になってしまう。
「どうして嘘をついたんですか? 私を殺したって」
「嘘だと誰が決めたんだ。今からお前を殺せば嘘じゃなくなるじゃないか」
銃をちらつかせると、女は黙り込んでしまった。あんな事を言ったが、今は殺すつもりも逃がすつもりもない。とにかく俺は場所を変える事にした。ついさっき恐怖に怯えた叫びが聞こえた。ついに赤タイの男が見つかってしまったのだ。と、なるとずっとここにとどまっていることは出来ない。見つかってしまう。
歩き続ける事数分、俺のマンションに着いた。エレベータで二階まで行くと、鍵を開けて先に女の背を押してから、入った。電気をつけると少しだけ安心が体を巡る。我が家。だが家具は最低限にあるだけだ。
昔はもっと家具を揃えて、お洒落な暮らしを夢見ていた。が、裏の世界に足を踏み入れてからと言うもの、様々な理由で引越しが続いた。この家で五回目だ。
長い間同じ場所には居られない。だから家具を揃えても仕方が無いと、三回目の引越しで気づいた。それで、この家具の少なさだ。
女は入り口で立ち止まっていた。俺が歩けと言うと二、三歩だけ進み、リビングでまた立ち止まってしまう。完全に怖がられているみたいだ。否、そう仕向けたのは俺か。とにかく逃がさないようにしなければ。だが、家に帰らなければ女の家族も心配して警察に捜索願を出すかもしれない。そうなればあの赤タイの男の事件が浮上し、俺が捜査上に現れ、ボスにばれるのも時間の問題になる、か。
ふと、時計を見た。時間は深夜の二時を過ぎた頃。あの男を殺した時点でもう零時を過ぎていたのだから妥当な時間か――時間を確かめると急に疲れが襲ってきた。今日は特に疲れた。
冷蔵庫を開けて五百ミリのペットボトルを二本取り出す。一つは飲みかけ、もう一つは封を切っていないものだ。後者の方を女に差し出すと、女は無言で受け取って小さく会釈をした。
「座れよ」
顎でソファーを示すと、女は俺を気にしながらそれに腰を下ろした。隣になんて座ろうものなら、こっちが殺されてしまいそうだ。
俺はテレビをつけて水を一口飲んだ。テレビには、深夜ドラマが放送されている。見たこともない俳優、つまらないストーリー。しばらくそれを眺めた後で、俺は口を開いた。
「悪かった」
女は俺を見上げた。
「お前を殺す気はない。だが逃がす訳にもいかない」
渡した水はまだ一口も飲まれていない。ソファーの上で微動だにせず俺の言葉を聞く女は、まるでロボットの様だった。俺が言い訳をしても、女が聞いてくれない事は理解している。
人を殺した時点で、表に住む女の思考では、俺は既に悪の存在なのだ。悪と認識した人間を簡単に善の領域に戻すのは相当難しいだろう。それは知っている。
「あんな現場を見た後じゃ信じられないだろうがな」
当然の事ながら信じられないだろう。だが、他に適当な言葉が思いつかなかった。俺の言葉に女は反応を示さず、手に持つペットボトルをじっと見つめた。
そうして、本当に小さなため息を一度だけついた。
それからはただ、ゆっくりと時間がだけが過ぎただけだった。三時になり、四時になった。女は眠気を我慢していたが四時半を過ぎた頃、ペットボトルを手に持ちながら眠りに身を任せてしまっていた。
五時になると、テレビにはニュースが流れ始めた。
「――この男」
テレビニュースに、俺が殺した赤いネクタイの男の写真が出た。警察は男が何らかの事件に巻き込まれたとして、捜査を開始したらしい。しかしまだあまり情報がないのか、その事件は一分足らずで違うニュースと入れ替わってしまった。
それと同時に俺の電話が鳴る。ディスプレイには見慣れた番号があった。が、電話に出る気分ではなかったので、無視した。鳴っては切れて鳴っては切れてが繰り返されて三回。ようやく携帯は静かになった。
携帯の音で女が起きるかと怯えたけれど、起きなかった。これからどうしようかと本気で考え始めたが、ため息をついた時、時計は既に五時半を指していた。
静かな部屋には、秒針の音が響き渡っている。
ふいに、こつこつ、と足音が聞こえてきた。音は部屋の前で止まる。しばらくすると、金属の触れ合う音が耳に届いてきた。この明け方に何をしているのか、言わずもがな、分かってしまってため息が漏れた。
俺は密かに銃を持った。音が聞こえてから五秒と経たないうちに、かち、と大きな音が一つ。鍵が開けられてしまったのだ。それから十秒ほど静寂が訪れる。十一秒目、ノブがゆっくりゆっくりと回された。完全に回しきった所で、今度は五秒の沈黙があった。
俺はその間、一時も扉から目を離さなかった。現れる姿を確認するまでは瞬きだって出来やしない。ノブを回す時よりもゆっくり、扉が開き始めた。古い扉なのに軋む音も聞こえない。そうしてピッキングに成功した人は、俺を見てふわりと愛想よく笑った。
「相変わらず神経質だな、お前。銃なんてしまえよ」
その男は言った。手に持つ針金で遊びながらゆっくりと入り、ゆっくりと扉を閉めた。見覚えのある顔に俺は銃を懐に入れる。奴はさっき、何度か俺の携帯を鳴らした人物だ。彼も俺と同じ裏世界の住人。現時点では人を殺した事はないらしい。が、こうして人様の部屋に潜り込んでは、金目の物や秘密書類などを持ち出すのだとか。つまり。
彼はプロの泥棒だ。
「人の部屋の鍵を勝手に開けるなって。今何時だと思ってるんだ、シガー」
「ははっ、じゃあ何時なら開けていいんだよ」
黙れ、帰れ。と二言告げたが彼は靴を脱ぎ始めた。とりあえず俺は彼が完全に部屋に上がってくるのを待つ。帰れと言っても帰らないのだから待つしかない。丁寧に靴を揃えた彼は、ソファーの上で眠り込む女を見て、目を丸くしていた。
「何だ。先客か? へましたお前を慰めに来たのに」
「へまって言うな」
「実際へましたろ。さっきのあのニュース、見たぞ」
俺がため息をつくと、彼は変わりに微笑した。
「何ならこのシガーが始末を手伝ってやろうか?」
「俺を始末するのか?」
「は、何言ってんだか。いつの間に死にたがりになったんだよ、お前は」
シガーは腕を組み、女を見下げた。女と俺を交互に見た結果、俺の連れではないと悟ったのか。眉間にシワを寄せて「それで」と説明を求めてきた。手伝って欲しいとは一切言っていないはずだが、好意を無にするのも何なので、俺はボスに説明した事柄を同じ言葉でシガーに伝えた。
ただ、最後の殺したと言う台詞は変えておいた。
「で、これが叫んだ女か」
「あぁ。連れ来た」
「何で連れて来るかねぇ」
良心が働いて殺せなかった。その言い訳は、殺しを生業とする俺には似合わない気がして、シガーの質問には答えないでおいた。どうせ笑われるのがオチだろう。そんな事を考えていたら、お前何考えてんだよ、と結局笑われてしまった。
「まあ、冗談はここまでにしといてやるぜ。エルゼ」
シガーが真顔になった。さっきまでは笑っていたくせに。彼が急に表情を変えたものだから俺の心臓は少しだけ跳ねた。しかしそれは表情の変化に、と言うより「俺の嘘がばれたのではないか」という疑いにだ。
この数時間で俺は平生の五倍は肝が小さくなったと思う。へま一つで、自分がこんなにも動揺するとは思わなかった。俺はそれが気に入らなくて、まだ水が残っているペットボトルをシガーに投げつけてやった。彼は腕を盾にした。
「真剣に聞けよエルゼ。お前この事、当然ボスには」
「言ったよ」
「そうか。じゃあこれからどうする気なんだ?」
「考え中だ」
「考え中ってお前。あぁ。気分は良くないが、女を殺す他に手段はないぞ」
分かってる。そう告げるとシガーは分かってないと言った。まあ本当に分かっていたらあの場で女を殺していたはずだ。眠っている間に何処か別の場所へ連れて行き、殺すことだって出来たはず。シガーの言う事は正しい。だから、俺は言い返さなかった。
「そうだな――とりあえず赤ネクタイの始末は俺に任せておけ。お前は女を」
殺せ、とでも言おうとしたのだろう。しかしその言葉は女の寝言によってさえぎられた。瞬間、シガーと俺は息をも止めて静寂を作る。しばらくして女が起きないと知ると息を吐いた。俺は笑わなかったが、シガーはこの部屋に来た時の様にふわりと笑った。
「エルゼ、お前休憩しろ。女は俺が見張ってるから」
その言葉はありがたかった。部屋に戻ってきてからずっと、女を逃がさずにどうやって休息をとろうかと考えていたからだ。俺は少しだけ悩んだふりをして、彼に「頼む」と一言だけ告げた。それからすぐ壁にもたれ掛かり目を閉じた。
すぐには眠れなかった。物音がし出したので薄目で様子を伺うと、シガーが俺の投げたペットボトルを拾い上げた所だった。彼は女の持っていたペットボトルも取り上げて冷蔵庫に入れた。それからソファーの肘に腰をかけてじっと俺を見た。俺はもしかして様子を伺っていたのがばれたのだろうか、と思って急いで目を閉じ狸寝入りを決めた。
次に目を開けたのは日が昇り始めた時だった。意識がはっきりとしないまま時計を見て時間を確認する。いつもの癖だ。どうやら俺は二時間と寝ていないようだった。時間は七時を少し過ぎた頃。見張ると言っていたシガーは俺が立ち上がると頭を上げた。本当に見張りをしていてくれたのか。女はまだ起きていない。
「ご苦労様。水飲むか?」
シガーに声をかけたが、彼は黙って首を振った。ずいぶん疲れた様子だった。夜中に心配して来てくれたのはいいが、彼も仕事を終えてすぐだったのかもしれない。そう思ってシガーに真意を聞くと彼は「一人で暇だったから疲れただけだ」と一言呟いた。ついでにもう少し寝ろと言われた。俺がもう十分だと答えると彼は立ち上がり、茶封筒を一つ俺に手渡して言った。
「お前が寝てる間に、終えたぞ」
何を、と聞く前に「とにかく開けろ」と言われたので俺は茶封筒を開けた。中に入っていたのは十数枚の紙。一枚一枚目を通すとそれが何かが分かってくる。
それらは全て、昨日俺が殺した赤ネクタイ男の殺人事件の書類だった。現場写真から遺体のものまで全て揃えてある。俺は驚いた。
「シガー」
「礼は言うなよエルゼ。俺も――胸が痛いんだ」
立ち上がったシガーはため息をついた。わざわざ夜中の警察に忍び込んだらしい。それは疲れただろう。言うなと言われた礼の代わりに、俺は冷蔵庫から一リットルの水が入ったペットボトルを取り出し、彼に投げた。重たそうに受け取ると、苦笑いをしたシガー。
「悪いな」
そう言って彼は俺の部屋を後にした。来る時とは違って扉を開けるのも閉めるのもがさつだった。気を遣わないと言うのはこの事を言うんだろうな、と俺は密かに思う。あぁ、ほら。そのせいで女が起きてしまった。否、ようやく起きたと言うべきなのか。
部屋を見渡してから俺を見た女は、昨晩の事を思い出した。女は少しだけ身を引く。ソファーに座っているから引く身もあまりないのだが。俺は小さな声で、女に「逃げないでくれよ」と言った。女がどう思ったかは知らない。だが女は俺を見上げたまま、何か言いた気にしていた。が、それを口にする事なく黙り込んだ。俺はそんな女をしばらく眺めていた。
沈黙に飽きてテレビをつけると、既にシガーの警察侵入が速報として流れていた。詳しいことはやはり分かっていないらしい。昨日と同じようにまたすぐ違うニュースに切り替わった。しかし次のニュースを確認することは出来なかった。窓ガラスが割れて、テレビが消えた。俺はとっさに女の頭を押さえつけて地面に這わせた。急に騒がしくなった部屋は同じ様に急に大人しくなっていた。
女には動くなと釘をさしてから俺は窓の向こうの様子を確認する。ガラスは見事に撃ち抜かれていた。銃弾が通った辺りにはひびが入っている。そうして、撃たれたテレビには銃弾が埋まっていた。誰がやったか皆目検討もつかない。二発目を警戒していたら、不意に俺の携帯が音を立てた。
「もしもし、エルゼです」
ボスの番号が携帯に表示されていたので、俺は応答した。彼はやはり相変わらずの低い声で、俺の様子を伺った。殺しを持ちかけられる時はいつもだ。元気かとか。今なにをしているのかとか。それにしても今回は珍しいな。二日続けてボスから電話が着たのは初めてだ。他にも殺しを生業としてボスの下についている奴は山といるから、そう続けて頼まれる事は今までなかったのだが。
「ボスはどうです?」
元気だよ、と笑いを含みながらボスは応えた。それから彼はそのテンションのままで俺に仕事の内容を伝えた。シガーを殺せと。
なぜ、と言いかけたが、その言葉は呑み込んだ。誰であろうと殺しの理由を聞くなど野暮にも程がある。あぁ――しかし、なぜ。
俺が黙っていると、ボスも黙り込んだ。もしかして通話が切れたのでは、と何度か携帯のディスプレイを確認した。当然、通話は一度も切れていない。早く返答をしなければとしばらくしてから気づいて焦った。
俺はボスの頼みを断った事がない。今までは断る理由がなかったからだ。標的となる相手はいつも見知らぬ人ばかり。表の世界で幾ら有名でも俺には関わりの無い人だった。だから考えずに拳銃を向けられた。殺したって俺が悲しむ必要はないし、公開をする暇もない。そうして次々とボスの頼みを聞いていたのだ。
しかしどうだ。今回殺せと言われたのは知り合い。姿と名前だけでなくどの様にして仕事をこなすのか、どの様にして笑うのかを知っている人間だ。
「ボス」
どうすればいい、その思いを込めてボスを呼んだ。すると彼は答えは行動で示してくれと言った。つまり請けるなら殺せ、請けないなら殺すなと言うことだ。請けなくても俺は殺されないのだろうか。ふと、そんな思いが頭を過ぎった。今までは考えたこともなかったが、ボスについていた人間の最終地点は何処なのだろう。裏の人間は知らぬ間に消えていくから、人の記憶に残る事はまずない。
どうなってその状態になるのだろう。やはり殺されてしまうのだろうか。
ボスは返事をしない俺に大丈夫、と声をかけた。それからすぐに通話は切られる。銃弾が家に撃ち込まれた事も忘れて、俺はしばらく携帯を眺めた。シガー。
奴に電話しようかとも思った。狙われるぞ、と。
「あの」
女が言った。
「エルゼ、さん」
名前を呼ばれたのでその方を見ると、女は不思議そうに首を傾げていた。
「大丈夫ですか」
胸に込上げる怒りがあった。が、その怒りはただの八つ当たりだと気づき俺はゆっくりと深呼吸をした。すると、全ての事情を頭で整理することが出来て、心なしか落ち着くことが出来た。女の声は震えていたがなぜか、芯のある真っ直ぐな声だと思った。
「――お前、道に迷ったって言っていたよな?」
女は少しだけ戸惑ったが思い出したように応えた。記憶を探ったのだろうか、不思議な沈黙だった。
「はい」
「あの夜、あれからどこに行くつもりだったんだ」
また、数秒の沈黙。女は床の模様を眺めていた。
「どこだ」
俺がもう一度問うと、女はようやく答えた。だがその瞳は光を映さなかった。
「あの時は家に帰ろうとしていました。でも今は――式場に行かなきゃ」
「……式場?」
同じ台詞を繰り返すと、女は俺を見て頷いた。深い思案に浸ろうとした時、俺の目は不意に窓の外の光るものを捉えた。もう太陽は完全に出ているのに――二発目を撃つ気か。俺は女の腕を引き立ち上がらせて玄関に向かった。扉の鍵は開いていた。シガーが帰った時から開けっ放しだったのだろう。ノブに手をかけた時、二発目が発砲された。銃弾は丁度女が這っていた床に見事に埋まった。
今の俺には問題が幾つかある。ボスに嘘をついたこと、赤ネクタイの男がニュースに流れたこと、女を殺さなければならないこと、シガーを殺せと言われたこと、そして、今の銃弾。
今の女には問題が一つしかなかった。殺されるか否か。生きるか死ぬかだ。
「お前を生かしてやる。だから言う事を聞いてくれ」
扉を開け、階段を駆け下りながら俺は呟いた。女にそれが届いたかどうかは分からない。しかし、腕を放しても女は逃げなかった。それ所か真っ直ぐ俺について階段を駆け下りていた。一番下に足をつけて走り出した頃には、女には俺の背中しか見えていなかった。
「お前、結婚するのか?」
「はい」
「式はいつだ、何処で」
「明日です。六月一日、駅近くの少し古い教会で」
走りながら早口に女は言った。その後で、ドレスがどうとか行かなければ選べないとかそんな事を言ったが、俺は一喝してやった。
「そんなもん、全部旦那に選んでもらえ。当日会場に直接行くとも伝えろ」
明るめの路地に入り込み俺は自分の携帯を渡した。一応拳銃を突きつけて不要な事を言わないようにしたが、多分こんな事をしなくても助けてなんて言わないだろう。俺は何となくそんな事を思っていた。
「もしもし、葉巻さん」
女は抜かりなく俺が言った指示を守った。未来の旦那になるハマキとやらにドレスを選んで欲しいと伝えて、当日までは会えないけど、直接会場に行くからと言った。事情を説明しろと言われたのかは分からないが、女は自分を信じて何も聞かないでくれと付けた。
通話を切って俺に携帯を返した女は、まるで今から勝負事に臨むかの如く目つきだった。勝負と言えば勝負かもしれない。失うのは命、得るのは旦那。これはあまりに惨い勝負だが。
俺は路地から少し出て様子を伺った。遠くからも光るものは見えない。道には人が歩き始めていた。裏の世界は一時休止と言った所だろうか。人通りの多い場所で遠くから人を狙うなんて、無謀にも程がある。相手もそれに気づいたのだろう。もう狙って来ない。
「これから、どこに?」
女は俺に尋ねた。別に考えていた訳じゃない。だが答えなければいけない。生かしてやると断言したのだから。俺は少しだけ考えて歩き始めた。向かうべきは裏の世界だ。明るい場所に居たって事は進展しない。自ら危険に足を踏み入れることになるが、仕方ない。
俺が二、三日この女を守り通して女を花嫁にしたとしても、それ以後、女が生きられなかったら俺の負けだ。天寿を全うするまで生かさなければ、俺の言葉は戯れ言になってしまう。
「エルゼさん」
「何だよ、黙って歩け」
「――あなたはどうして、人を殺すんですか?」
その質問に何の意味があるのだろう。考えてみたが何の意味も思いつかなかった。だから答えなかった。
俺たちは歩き続けた。目的の場所はボスが用意した隠れ家だ。俺がいつも仕事をした後に向かう場所。他の行き先は残念ながら思いつかなかった。表を歩いて女の知り合い会うのも都合が悪い。かと言って裏の世界をただ歩き続けるだけでは女を狙っている輩に「殺してくれ」と言っている様なものである。
隠れ家に着くと俺は女を先に中に入れた。そして後ろ手で扉を閉めると、ゆっくりと息を吐いた。まず、考えなければならない。
問題が増えた気がする。あの銃弾は明らかに女を狙っていた。しかし分からない。どうしてこの女は狙われなければならないのだ。
俺やシガーの様に、裏の世界で恨みを買った訳でもないだろうに。例え誰かから恨みを買っていたとしても、あんなに大胆で正確に狙う表の人間が表の世界にいるものか。どう考えたってあの銃弾を撃ったのは裏の世界の人間だ。だが、どうして表の女に裏の人間との接点があるのだ。女が殺されなければならない理由は何処にあるのか。
あぁ、分からない。それに殺されると言えばシガーだ。どうしてボスはシガーを殺せと言ったのか。その理由も、未だに俺には分かっていないのだ。
頭が混乱する。俺は椅子に座って腕を組んだ。女が水を貰っていいかと聞いてきたので、勝手にしろと告げた。そして俺の思考はまた答えの出ない無限回廊へと戻っていった。静かに、ゆっくりと落ちて行くように――しばらくして、意識がはっきりとした。頭は真っ白で、身体は固まった様に動かなかった。
俺は無意識に伸びをしてから、いつもの癖で時間を確認した。時は正午を示している。深夜。否、今は昼だ。とっさに俺は隠れ家の様子を確認した。
「――何で」
何時間か眠ってしまったらしい。考えているうちに寝てしまっていたのだ。
「何で、逃げないんだ」
俺が眠っていたその何時間か。絶好のチャンスだったのに、女は逃げずにこの隠れ家に居た。場所は少しだけ移動していた。しかし女は俺の近くに座って、そうして今、俺を見ている。
「あなたが逃げるなと言ったから。生かしてくれるとも言った――だから」
何てふてぶてしい。さっさと逃げれば良いものを。なぜ信じることが出来たのか分からない。殺人鬼の言葉だぞ。考えれば考えるほど分からなかったので俺は自嘲的に少しだけ笑った。
「この先の事を考えていたら、寝てたんだ。途方もない事になってしまってる」
そうして、
無駄な事を口にした。
「俺のボスに、さっき仲間を殺せと言われたんだ」
「仲間って、あのマンションに来ていた人ですか?」
「あぁ。あいつだ」
眠ったおかげで頭はずいぶんスッキリとしていた。だから饒舌になったのかもしれない。言い訳をするなら「寝ぼけていた」と。俺はこう言うだろう。
女は俺が突然切り出した裏の話を聞いて頷いた。仲間を殺すなんて出来ないでしょう、なんてきれいごとも言ったくらいだ。俺はどうかしていた。本当にそう言う他に言い訳がない。
「顔は暗くて見えませんでしたがマンションに来ていた人、電話していました」
「電話ぐらいするだろう」
「違います。多分その、あなたのボスさんに。女が貴方の部屋に居るって」
驚いた。でも、そうか。
シガーはボスに告げ口していたのか。なら俺がボスに隠す事はもう何もない。運命は決まってしまった。身柄がばれる様な事を、俺はしたのだ。俺が捕まったら、ボスに繋がる何かが世間にさらされる事になるかもしれない。そうなる前にボスがすることは一つだ。
俺を、黙らせること。つまりは俺を――殺すこと。
「その後、少しだけ口論していたみたいですけど」
「……そうか。だが、もうどうでもいいさ」
どうせ死ぬのだ。あぁでも死ぬなら死ぬで良い結末かもしれない。俺は人を殺しすぎた。不本意だが、その報いだと思えばいい。
「あの、その人のこと殺してしまうんですか?」
まるで子どもが親に何処へ行くの、と質問しているみたいだった。そんな目で女は俺に問うて来る。もう怯えなど微塵も感じない。ただ俺の哀れさを心配してくれている気がする。とても惨めな気分だが、心配されていることは心地良かった。誰かに心配されるなんて、しばらくなかったものだから。少し変な気分だ。
「――殺さない」
と、言うより殺せない。俺はそう答えて、小さな冷蔵庫から水を取り出した。一口飲むと水が喉を通っていくのが分かる。これからどうするべきか。とにかく俺は女を生かせればそれでよかった。それがすべて。
ふと、携帯が鳴った。またボスからだろうかと少し怯えたが、どうやらそうではないらしい。ディスプレイには、昨夜と同じあの見覚えのある番号が表示されている――シガーだ。
俺は携帯を手に取り、通話ボタンに親指を乗せた。携帯はまだ、音を発している。俺は少し悩んでから、親指に力を入れた。画面に通話の知らせが出る。
「もしもし」
シガーは挨拶もせずに、突然言葉を発した。
『エルゼ、お前、どうして女を殺さないんだ』
「何だ、唐突に」
『どうせ殺せないんだろ。なんなら俺が殺してやる』
「やめろ。もう殺した」
シガーは笑った。
『嘘付け。知ってる。まだあの女と一緒に居るだろ』
俺の心臓が、一つ大きく鳴った。どうして分かるんだ。否、勘で言っているだけかもしれない。だが本当に知っている様な口ぶり。気のせいだろうか。しかし見張っていたのかもしれない。いやでもシガーが俺たちを見張る理由なんてあるのだろうか。そういえばマンションに来た時から女を殺せと言っていたが。
今何処にいるんだ。シガーにそれを聞いたが、奴は答えてくれなかった。
「お前には情ってものが欠けてるよ、シガー」
殺せ、とシガーが飽きるほど言うので、俺は言ってやった。裏の人間が何を言うかと思えば、と奴は呆れて笑っていたが。いつになく気に入らない笑い方だ。シガーは多分、こんな笑い方をする奴ではなかった。
「女は俺が殺す。遅れたってお前に支障はないだろ」
『遅れるってお前。殺しをためらう理由なんてないだろ。相手は知らない女だ』
あるよ。
こいつ、明日に結婚するんだ。頭の中で形成されたこの台詞はすぐに消した。だから何だと返されるのが目に見えている。しかし、どうして女を殺さないのかと聞かれたら、そう返すしかない。俺にだって本当のところは分からない。殺してはいけないとは思っていたが本当に生かしてやるなんて。もしかしたら、俺は自分の運命に従いたくなくて、無駄な抵抗しているだけなのかもしれない。
「今日、明日は都合が悪いんだ。だから明後日に」
『へぇ、成る程。じゃあ、女をわざわざ花嫁にしてから、明後日に殺すのか?』
「そうだよ。結婚式は明日だって言ってるから……」
明後日までは守り通す、だが、それで、どうして。
「どうして、お前。女が結婚するって知ってるんだ」
『エルゼより早く知ってたよ。二、三ヶ月前かな』
どうしてだ。
それを繰り返すとシガーは笑ってから、言った。
『俺はシガーだぜ』
妙な含み笑いを残してから、シガーは勝手に通話を切った。俺は色々な衝撃のせいで携帯を耳から離せないでいる。だが言うことを聞かない身体とは違って、頭はフルに回転していた。
いつになく早い。早くしないと時間がないと、本能が理解していたのだろう。
シガーは俺が女を生かしている事を知っていた。なぜか分からないが奴は女を殺したがっている。これはいつからだ。マンションに来た時は、ただボスに隠し事をした事の対処法として女を殺せと言ってくれていたはずだ。しかし今の電話は明らかに違った。
シガーの利益になる何かがあるのか。女を殺すことでシガーは得をするのか。
もしや、マンションのテレビと床に撃ち込まれた銃弾は、シガーが発砲したものなのか? なら、変化した要因はその前。俺が眠ったあの一時間半だ。女はシガーがボスに電話していたと言っていた。そこで何かがあったに違いない。ボスが女を殺せと言ったのか。
それとも。
「エルゼさん」
電話の会話が自分に関することだった知ったのか女は震えた声を絞り出した。俺はその声を聞いて我に返る。考えている暇などなかった。一刻も早く逃げなければ。もしも何らかの理由でシガーが俺たちを見張っていたのなら、居場所だって既に割れているはずだ。
俺は急いで扉を開けた。そうして、言葉を失った。
「そんなに急いでどこに行く気なんだよ、エルゼ」
片腕をぴんと伸ばしたシガーの手には、銀色の拳銃があった。逃げることしか考えていなかった俺の眉間に、それは真っ直ぐ向いている。距離は近い、撃たれたら避ける間なく終わる。
俺は扉を静かに閉めた。
「何で女を殺さないんだ」
「何で、殺したがるんだ」
シガーの言葉に俺は返した。すると奴は――自分の為に、と答えた。女に殺しを見られたのは俺なのに、どうしてお前の為になる。
お前がボスにその事を告げたから逃げなければいけないのは俺なのに。殺されなければいけないのは俺なのに。なぜ女を殺すんだ。
早口にそれだけを言うとシガーは真っ直ぐ俺を見て静かに首を振った。
「ボスはお前のことを本当に信頼しているな」
「何を」
「殺しを見た女がエルゼの部屋にいるって言ったのにボスは信じなかった」
シガーは不気味に、片方の口角をつり上げた。
「それどころかエルゼを陥れる気かって言われたよ」
これが女が言っていたあの、シガーとボスの口論の正体か。動きたくとも動けない俺は、さらに頭を使った。それしか出来ないのだから仕方ない。だが、この状況を打破する策を考えたのではない。シガーの言葉をじっと考え、現状を理解しようと考えていたのだ。
「ボスに嫌われちゃ、裏の世界じゃ生きていけない」
「だから証拠のために、保身のために女を殺すのか」
シガーは頷く。
「悪いが、お前が止めても俺は彼女を殺すよ」
「それは、俺を殺してでも女を殺すって意味か?」
「違う。お前、ボスに俺を殺せって言われたろ?」
そうだ。ボスはシガーを殺せと俺に言った。今ようやくその意味を理解した。俺を陥れようとしているシガーを、自らの手で消せと言ったのだ。ボスは何も気づいていない。本当の事を何も知らないのだ。
「あぁ。言われた」
「やっぱり。でもお前は俺を殺さなかったよな?」
「それは」
「ま、理由は何であれ、その礼って事だ。俺はお前を殺す気なんて端からない」
「でも、女は殺すんだろ」
「それは何度も言ってるだろ。まさか命張って守るってのか? 人の女を」
俺は死ななくてもいいのか。まだボスに嫌われていないらしい。今さら気づいた事実に俺は少しだけ、安堵した。だが、女が殺されるのを黙って見る事は出来ない。それこそ今さらだ。
もう遅い。
人の女、それが何だ。俺は世の中の殺人鬼と同じにはなりたくないんだ。
「お前が女を殺すって言うなら、俺はそれを止める」
「本気かよ。やめてくれって、後味悪い事を言うな」
シガーは笑った。
「そういや、女の結婚相手の名前、知ってるのか?」
奴は突然、そんな的外れな言葉を俺に投げかけた。確か女が電話で言っていたが。今、それを思い出す余裕は残念ながら、ない。
――いや。思い出そう。
俺は重大な事実を目の前にしている。と言うよりはシガーがわざわざ前に置いてくれたのだが。名前を思い出して全てを理解した俺は考えることを止めた。考えて何になるというのだ。結局、俺にシガーの思いは理解出来なかった。
「シガー、お前どうして」
「どうしてってだから、俺の為だって言っただろ」
銀色の拳銃は、俺の眉間から扉の方へ向いた。ここから撃つ気か。当たるわけがない。扉はさっき、俺が閉めたのだ。仕事で銃を使う俺だって目標が見えないのに当てる事は出来ない。
「旅行とか行くだろ。そうすると旅館では決まって」
カチリ、と音がした。これで引き金を引けば、もう発砲出来る状態になる。
「窓際にテリトリーを作る奴がいるんだ。お前の周りにも一人はいるだろ?」
当たらない、絶対に。
俺は心の中で思った。その反面、どうすればシガーが止まるのかを考えている自分がいる。当たるかもしれない。身を挺して守ろうか。でも、当たらないかも知れない……いや、だが。
「知らない部屋に来ると心配になるんだろうな。外を確認しておかないと」
一息ついてシガーは引き金を引いた。瞬間、耳の横でひどく重たい音がした。それとほぼ同時に部屋の中で音がする。椅子ごと何かが倒れていくそんな音だ。ありえない、まさか当たったのか。そんな事はない。まさか、そんな事は。
俺は奴に気づかれないように深呼吸をした。それからゆっくりと扉を開けた。シガーはその横で息を吸い込み、話の続きを呟いた。
「残念ながら、秋子はその類の女なんだよ」
*
何処の世にも、表があれば裏があると俺は言った。
生を選んで女を殺したシガーと死を選んで女を守ろうとした俺、女を殺して生きたシガーと女を見殺しにして生きた俺。この場合、果たしてどちらが裏で、どちらが表なのか。
それは誰が決めるのか。
「遅いわね秋子。式の当日だって言うのに遅刻?」
駅前にある小さな古ぼけた教会の一室で、小太りの女性が呟いた。何度も腕時計の針を確認しては窓の外から教会の入り口を見る。
教会の入り口には大きな門があった。数十分前はそこに沢山の人が通っていたが、今はもう誰一人として通ってはいない。
「ねぇ、本当に電話があったのよね? 葉巻さん」
「はい。当日は直接行くからって言っていました」
「そう。でももう一時間も経つのに――来ないわね」
小太りの女性はため息をついて、もう一度だけ時計を見た。今は三時だ。つまり約束の時間は二時か。結婚式の招待客は、教会の中で待ちくたびれているだろう。女性は外を見てくるわと葉巻に一言告げて、忙しなく部屋を出て行った。
俺はその始終を見てから歩き出した。教会を出た女性とはすれ違い様に会釈をし、教会の中に入る。右手には携帯を持っていた。左手には小さな花束がある。黒いスーツに白いネクタイをして、新郎の控え室と書いてある方へ足を進めた。
その部屋の扉を前にして俺は小さく咳き込み、無駄に声を整えた。そうして扉を二回ノックした。中から軽快な返事が聞こえて来たたので、俺は扉を開ける。
「来ない花嫁を待って何が楽しいんだ、シガー」
俺は花束を見せてから机に置いた。そして後ろ手で扉を閉めるとシガーに寄った。彼は新郎らしく黒のタキシードを着込んでいた。
「俺は葉巻だ」
「一緒だろ、葉巻もシガーも。言ったのはお前だぞ」
「昨日の今日で少しは落ち込んでいるかと思ったが」
「お前の花嫁だろう。落ち込むならお前が落ち込め」
「ははっ。自分で殺しておいて、落ち込めるかよ」
「まあ、そうだな」
生きるために花嫁を殺した新郎『葉巻』が、シガーだと気づいたのは昨日のことだ。シガーが女を撃つ数分前、奴は饒舌になり色々なことを俺に話した。そうして、女の結婚相手の名前を知っているかと俺に聞いた。最初は戯言だと思っていたが、違ったのだ。
その会話から時間を遡ることまた数分。シガーが俺に電話をかけてきた時、女が花嫁であると知らないはずのシガーがそれを言い当てた時。俺は奴にどうして知っているのかと聞いた。
奴は答えた。
『俺はシガーだぞ』と。
それが答えだったのだ。葉巻は英語でシガー。きっとボスが洒落でつけた名前なのだろう。俺のエルゼと言う名の由来は知らないがまあ、今度ボスに聞いておくことにしよう。
「皮肉だな」
「何が」
「お前、秋子を花嫁にする為に生かしたのに」
「黙れよ、お前が殺したくせに。落ち込まないなら喋るな」
「そうだな。それで、エルゼ。お前何しに来たんだ」
「何って、祝いに来たんだよ。花束持って来たろ」
俺が真面目な顔をして言うとシガーは笑った。そして彼は立ち上がり、窓の方へ歩いていく。本当に皮肉だな。知らぬ場所に来ると窓際に行くという癖を持っていたのは、女だけではなかったらしい。見たところお前も、それが癖になっているようだぞ、シガー。
「残念だな。俺、お前に招待状出してないよな?」
シガーは言って振り返った。俺はただ、頷く。
「出せばよかった。お前の本名知らないけど。エルゼ様で届くなら出したぜ」
「届くわけないだろ」
ふわりと笑ったシガーは未だに外を見ている。空は晴れていた。こんな青空の下しかも六月に結婚出来たなら、あの女も幸せだっただろう。俺は女を生かすと言いながら守れなかった。結局、シガーが殺すのを黙って見る事しか出来なかった。銃弾が届かなければいいのにとか。当たるわけがないとか。ただ俺は運命に全てを任せていただけだ。
だから俺は、私情でシガーを責める事は出来ない。
「シガー。お前、あの女のこと、どう思ってたんだ」
「どうって。そりゃ、好きだったよ。現にこうして結婚しようとしたぐらいだ」
「そうか、なら」
なら。
「シガー、お前も礼は言うなよ。俺も胸が痛いんだ」
「何だって?」
俺の言葉を不審に思ったシガーは、少し笑いながら振り返った。俺は既に懐から拳銃を取り出していた。あの、真っ黒な銃だ。笑っていたシガーはそれを見た途端、表情を強張らせた。
「今さら――秋子の、敵討ちでもする気かよエルゼ」
「俺はお前とは違って私情で人を殺したりはしない」
「なら、どうして」
「どうして? そんな事ぐらいお前も知ってるだろ」
俺は引き金を引いた。呆れる程真っ青な空を背に、新郎は窓の向こうへ倒れて行く。真っ白なタキシードからは、赤黒い鮮血が次々と溢れ出していた。
「悪いな」
だが、新郎に殺された花嫁よりは幸せだろう。お前は今から好きな相手のところへ行けるんだ。来ないと知っても待ち続けるくらい好きなら、あっちで結婚するがいい。きっと花嫁はお前を待ってくれている。
俺は倒れた新郎を眺めながらため息をついた。そうして、ゆっくりと部屋を後にする。俺が非常口から出た後、発砲の音に気づいたらしい人々がシガーを見つけた。途端に教会は悲鳴と戸惑いで騒がしくなった。
知らないふりを決め込んで教会の裏口から路地に入り込んだ俺は、今までずっと右手に持っていた、通話中の携帯を耳に当てた。
そして、俺はいつもと変わらない淡々とした調子であの台詞を口にした。
「ボス、標的を殺しました」
end




