R2、一周
合図が出た。
二台が動いた。
最初の数百メートルは、様子見だった。
ケインのA80が前に出た。スタート直後の加速で、あっさりと半車身の差をつけた。エンジンの出力が違う。踏んだ瞬間の押し出しが、RPS13とは別物だ。
シャルはそれを予想していた。
焦らなかった。
ギアを上げる。3速、4速。タコメーターの針が上がる。エンジンが軽い。RPS13のSRは、A80の2JZとは音が違う。高くて、乾いた音。回転が上がるのが速い。
前のA80との差が、一車身になった。
一般車が一台、左車線をゆっくり走っていた。
シャルは右から抜いた。ハンドルを切る量を最小限にして、車線変更のロスを減らした。A80も同じように抜いていった。
最初のカーブが見えてきた。
緩い左カーブだった。
R2の入口に近い、半径の大きいコーナー。速度を落とさなくてもいける。でも、ここでラインを外すと次に響く。
シャルはブレーキを踏まなかった。
アクセルを少し緩めて、車の荷重をフロントに移した。ハンドルを切る。RPS13の車体が、路面に吸い付くように向きを変えた。
ルシアンのセッティングが正確だった。
アンダーが出ない。コーナーの内側に、きれいに車体が向いていく。出口が見えた瞬間、アクセルを踏んだ。
前のA80が、コーナーの出口で少し膨らんだ。
半車身だった差が、わずかに縮まった。
シャルはそれを見た。
A80は重い。コーナーで膨らむのは物理の話だ。ケインの腕の問題じゃない。200キロの車重の差が、コーナーの出口で数十センチになって現れた。
ここで仕掛けるのは早い。
シャルはそう判断した。まだ序盤だ。タイヤを温める時間がいる。ルシアンが言っていた。最初の数キロは馴染ませろ、と。
差を縮めたまま、ついていった。
長い直線に出た。
A80のエンジンが唸った。
低くて、太い音が前から聞こえた。そのままスピードが上がっていく。A80の赤いテールランプが、少しずつ遠くなった。
シャルもアクセルを踏んだ。
でも、差は広がった。
一車身。一車身半。二車身。
直線ではどうにもならない。これも予想していた。だから、焦らなかった。
速度計を見た。深夜の都市高速。数字は見なかったことにした。
前のA80のラインを読んだ。
直線の終わりに、右カーブがある。浅いカーブだが、その先にすぐ左への切り返しがある。S字の始まりだ。
そこだ、とシャルはもう一度思った。
右カーブに入る前。
A80のブレーキランプが光った。
シャルはその一瞬後にブレーキを踏んだ。
A80より遅くブレーキを踏んだ。ギリギリまで引きつけた。RPS13の方が軽い分、制動距離が短い。同じポイントでブレーキを踏んでも止まりきれる。
右カーブに入った。
ハンドルを切る。フロントが向く。リアがわずかに動こうとした。シャルはカウンターを当てる前に、アクセルを少し戻して荷重をかけた。リアが収まった。
コーナーの内側ギリギリを通った。
A80との差が縮まった。
一車身半。
左への切り返し。
ハンドルを逆に切る。車体の重心が右から左に移る。RPS13は軽いので、この切り返しのレスポンスが速い。A80は重い分、切り返しでわずかに遅れる。
シャルはそこを突いた。
右カーブから左カーブへの切り返しで、ハンドルを素早く逆に返した。車体が追いついてくる前に、次のコーナーの入口を狙った。
A80の右後ろまで来た。
一車身を切った。
でも、S字を抜けた先にまた直線がある。
シャルはA80の右後ろにつけたまま、直線に出た。
また、差が広がった。
A80のエンジン音が前に遠ざかっていく。直線では追えない。わかっていた。
シャルはA80の走り方を観察した。
ケインのラインを読んだ。どのポイントでブレーキを踏んでいるか。どのラインでコーナーを通っているか。次の仕掛けポイントを探した。
R2の地図が頭の中にある。
直線の先に、タイトな右コーナーがある。その後、短い直線を挟んで、連続する左右のS字。その出口を抜けると、また直線。
タイトな右コーナー。
そこだ、と思った。
一般車が二台、左車線に並んで走っていた。
A80が右から抜いた。シャルも右から抜いた。
タイトな右コーナーが近づいてくる。
コーナーの手前で、A80のブレーキランプが早めに光った。
早い。
シャルは気づいた。このコーナー、ケインは少し手前でブレーキを踏んでいる。A80の車重を意識したブレーキポイントだ。
シャルはもっと奥まで引きつけた。
コーナーの手前、A80がブレーキを踏んだポイントより、もう一呼吸分だけ奥まで引きつけた。
ブレーキを踏んだ。
RPS13が沈んだ。フロントに荷重が乗った。タイヤが路面を掴んだ。
ハンドルを切った。
コーナーの内側が見えた。アペックスを狙った。コーナーの一番深い点。そこを通れば、出口で膨らまない。
通れた。
コーナーの出口で、シャルはアクセルを踏んだ。
A80の横に並んでいた。
一瞬だった。
並んだのは、コンマ数秒の話だった。
でも、確かに並んだ。
バックミラーに、A80の赤いボンネットが見えた。
シャルは前を見た。次の直線。A80はすぐに加速する。引き離される。でも今は前にいる。
今は、前にいる。
アクセルを踏んだ。RPS13が直線を加速した。
案の定、直線でA80に抜かれた。
タイトなコーナーの後の直線は短かった。シャルが前に出たのは数秒間だけで、A80はすぐに加速して前に戻った。
でも、差は縮まっていた。
半車身。
さっきまでの二車身ではない。
シャルはA80の後ろについた。
タイヤの感覚を確認した。フロントが少し熱い。ブレーキを使いすぎている。あと何周も走れるわけではないが、今夜はスプリントの一周だ。問題ない。
次のコーナーが見えてきた。
連続するS字区間に入った。
左、右、左、右。
A80のテールランプが揺れながら前を走る。コーナーごとに、わずかに膨らむ。わずかに、だ。ケインの腕は本物だった。200キロの重量を積んだ車で、この速度でこのラインを通すのは、並の腕じゃない。
でもシャルは、その「わずか」を積み重ねた。
左コーナーで詰めた。
右コーナーで詰めた。
切り返しのたびに、RPS13の軽さが差を生んだ。
S字を抜けたとき、シャルはA80の右後ろにいた。
コーナーの入口が見えた。
最後のコーナーだ。R2のこの区間、最後の右カーブ。その先に直線が続いて、チェッカーが待っている。
シャルはギアを落とした。
ブレーキを踏んだ。フロントが沈んだ。
ハンドルを切った。
コーナーに入った瞬間、A80のラインが見えた。
ケインは少し外側を走っていた。
内側が空いている。
シャルは内側に車を寄せた。アペックスを狙った。コーナーの奥まで、ギリギリまで車を持っていった。
タイヤが鳴った。
かすかに、リアが動いた。
シャルはハンドルを微修正した。カウンターじゃない。荷重のかけ方を変えた。リアが戻った。
コーナーの出口が見えた。
A80と、ほぼ並んでいた。
シャルはアクセルを踏んだ。
RPS13がコーナーの出口を抜けた。
A80も抜けた。
二台が直線に出た。
並んでいた。
直線でA80に抜かれた。
じわじわと、確実に、A80の加速がRPS13を上回った。
最終的には、チェッカーをA80が先に受けた。
一車身。
それが、最後の差だった。
二台が速度を落とした。
R2のループを外れ、路肩に車を寄せた。
エンジンを止めた。
シャルはシートに背をあずけて、天井を見た。
息が上がっていた。気づかないうちに、ずっと呼吸を詰めていたらしい。今になって肺が動いた。
負けた。
それは事実だった。
でも、最後の直線で並んでいた。コーナーで並んだのは一度だけじゃなかった。
負けたが、何もできなかったわけではなかった。
ドアが開いた。
シャルはRPS13を降りた。
夜の道路に立った。夜風が顔に当たった。
A80のドアも開いた。
ケインが降りてきた。
二人の間に、少しの距離があった。
ケインはシャルを見た。
「コーナーで三回並んだ。」とケインは言った。
「でも負けました。」
「そうだ。」ケインは否定しなかった。「直線では追えない。」
「わかってました。でも、コーナーで詰めれば勝負になると思ってたので。」
「なった。」
シャルは少しだけ間を置いた。
「合格ですか。」
ケインはまた、声を出さない笑い方をした。口の端が上がる、あの笑い方。
「最初のコーナーで、俺のブレーキポイントを測っていた。二周目に仕掛けた。バックミラーに映るお前の走り方が変わった瞬間がわかった。」
「……見えてたんですか。」
「見えていた。」
シャルは何も言わなかった。
「本気になるしかない人間の目だった。」ケインは続けた。「走る前から、そういう目をしていた。」
夜風が吹いた。
R2の高架の上を、一台の一般車が通り過ぎた。赤いテールランプが遠ざかっていった。
「合格だ。」
ケインはそれだけ言って、A80に向かって歩いた。
シャルはしばらくその場に立っていた。
RPS13のボンネットが、夜の明かりを反射していた。パールホワイトの、深みのある白。
シャルはゆっくりと息を吐いた。
それから、車に乗り込んだ。




