第一話 世界のソースコード
走っていた。
理由はない。朝の通学路を走るのが好きだ。足が地面を蹴って、体が前に進む。それだけのことが気持ちいい。靴底がアスファルトを叩く音が、朝の空気に跳ね返って、耳の奥で反復する。
六月の朝は湿度が高い。吸い込むたびに喉の奥が湿る。汗が眉毛の端から目に入る。でも止まらない。信号が赤でも走った。そういう朝もある。走っているとき、頭の中は空っぽになる。考えなくていい。何も考えなくていい。足と地面だけがある。
走りながら、小さく声を出した。あ、え、い。息の通りを確かめる。
後ろからすごい声量で誰かが誰かを呼んでいる声がした。振り返らなかった。
坂を下りて、角を曲がって、駅が見えたとき、息がまだ整っていなかった。走り足りない、と思った。もっと走っていたかった。
◇◇
半年かかった。
ホワイトボードのインクがかすれて、途中で二回マーカーを替えた。三畳半の部室は換気が悪くて、アルコール系のインクの匂いがまだ鼻の奥に残っている。六月の湿気と混ざって、空気がねっとりしている。あたしは鼻で息をしている。湿った空気が喉に張り付く。
でも、できた。
ホワイトボードの左端から始まって右端まで、三段に折り返して、合計二百十七行。物理定数の比に出てくる137。なぜこの値なのか、誰も説明できない数。あれとプランク定数と光速の関係を、ある形式体系の中で記述し直したとき、そこに形式的矛盾が導出される。
P∧¬P。
ある命題が真であり、かつ偽である。
この宇宙の物理定数の関係が、論理的に矛盾していることの証明。
つむぎが腕を組んだまま、ホワイトボードの前に座っていた。制服の袖から覗く手首が太い割に、右手の中指だけ硬く盛り上がっている。鉛筆だこ。数学研究部で一番怖い顔をした、一番正確な手。
つむぎが黙って最終行を見ていた。眼鏡の奥の目が、左から右へ何度か往復する。ポケットから鉛筆を出して、いつもの、芯が柔らかい2Bを三本持ち歩いているそのうちの一本、手元のノートに何かを走り書きし、消し、また書いた。あたしは待った。つむぎの検算は信用できる。あたしが飛ばす行間を、つむぎは一段ずつ踏む。あたしが見落とす符号の向きを、つむぎは一つずつ確かめる。
二分くらい経って、つむぎが鉛筆をポケットに戻した。ノートを閉じる前に、一瞬だけ自分のページを見た。あたしの証明とは関係ない何かが書いてあるページ。その右側の頁には小さな計算式が鉛筆で書かれていて、ほぼ全部が消しゴムで擦られていた。何か重いものが、つむぎの奥底にあるのかもしれない。すぐ閉じた。
「合ってる」
そう言って、少し間を置いてから、
「嫌だけど」
あたしは笑った。嫌だろうな。合っていたら、この宇宙は論理的に矛盾していることになる。矛盾を含む体系で古典論理が成り立つなら、爆発律で何でもありになる。物理法則も因果律も崩壊する。
でも現にあたしたちはここにいて、重力で椅子に座っていて、酸素を吸っている。矛盾があるのに世界は壊れていない。
ってことは、この宇宙は古典論理で動いてない。少なくとも、全部は。
「面白い」
あたしは言った。面白い。こんなに面白いことがこの世界にあるのか。なぜ壊れていないのか。どうやって矛盾を抱えたまま成立しているのか。それが次の問題になる。
右手がもう新しいマーカーに伸びていた。
窓際の席で、よはんが本から顔を上げた。逆光で、肩にかかるかかからないかの髪の輪郭だけが光っていた。
「ようやく辿り着きましたか」
いつもの丁寧な声。よはんはいつもそうだ。何かを知っていて、あたしたちが追いつくのを待っているような話し方をする。聞き返しても、少し微笑んで何も言わない。
「よはん、あんたこれ知ってたの?」
「さあ。僕は十六夜さんの証明を読んだだけですよ」
いつもの答え。
まあいい。
あたしはスマホを取り出した。
◇
LOGICAはあたしが去年の夏に作ったアプリだ。スマホのCMOSセンサーの暗電流ノイズに、もし物理法則の論理構造の痕跡が乗っているなら、という半分冗談のアイデアで書いたコードが、半分じゃない結果を出した。
カメラを通して見ると、対象物にタグが浮かぶ。T——真。F——偽。B——真かつ偽。N——真でも偽でもない。ほとんどはT、普通に存在している。
でもたまに、赤いBが出る。真であり、かつ偽。存在して、かつ存在しない。
最初はノイズだと思っていた。つむぎにコードを見せたら「ロジックは合ってる」と言われた。信号処理のフィルタ部分は名取がLeanで型を書いてくれた。PC部と掛け持ちしている子で、証明のないコードは気持ち悪いらしい。三台のスマホで試して同じ結果が出た。
今日、証明を書き上げた今なら、わかる。Bはノイズじゃない。この宇宙に実際に矛盾があって、LOGICAはそれを拾っている。
あたしはカメラをホワイトボードに向けた。
白い面にタグが並ぶ。T、T、T、T。白く光る粒。どこもかしこもT。普通のホワイトボード。
左上の隅を除いて。
B ⚠
赤い表示。真かつ偽。警告の記号が脈動している。
ホワイトボードの左上に、小さな矛盾がある。この空間に、存在しない何かが詰まっている。
ピンチアウトで拡大した。LOGICAの解像度を上げていく。あたしが去年から少しずつ改良してきた、信号処理のフィルタが重なっていく。ノイズが削がれて、構造が現れる。
B値の点が、拡大するにつれて広がった。その中にさらに細かいパターンがある。タグの粒が散らばっている。粒の中に粒がある。どこまで拡大しても構造が現れる。階層ごとに違うパターン。だが何か一貫した規則がある。自己相似的な。
もう一段。
指が止まった。
見えているものが変わった。
T/F/B/Nの粒が描くパターンが、あるスケールを超えた瞬間に、別のものに見えた。
点の配置。点と点を結ぶ線。線が作る網。
知っている構造だった。
教科書で見たことがある。論文で読んだことがある。
銀河のフィラメント構造。宇宙の大規模構造と呼ばれる、銀河団が網の目のように並ぶ、あのパターン。
ホワイトボードの表面の、肉眼では見えない微細構造の中に、宇宙の大規模構造と同じパターンがある。
声が出なかった。
出なかったので、もう一段拡大した。
パターンはまだ続いていた。銀河フィラメントの中に、さらに細かい構造がある。それを拡大すると、また別のパターンが現れる。底がない。どこまでも構造がある。
あたしの手が震えていた。スマホの画面がぶれる。ピンチアウトを繰り返す度に、画面には幾何学的な美しさが広がっていく。赤いBの粒が星のように散在して、複雑な網を織りなしている。
深呼吸した。六月の湿った空気を吸い込む。
息を吐いて、画面を見て、言った。
「ちょっと。ホワイトボードの中に宇宙あるんだけど」
つむぎが顔を上げた。
「何言ってんだ」
「いや、あるの。見て。LOGICAの解像度上げてったら、ホワイトボードの表面の微細構造が、宇宙の大規模構造と同じパターンなの。底がない。どこまでいっても構造がある」
あたしはスマホをつむぎに渡そうとした。つむぎが眉をひそめて受け取り、画面を覗く。
「……何も見えないが」
「え? あ、あたしのアカウントじゃないとフィルタが」
あたしはスマホを取り返して、画面を二人に見せた。ピンチアウトしながら構造を追っていく。つむぎは黙って見ていた。よはんも窓際から近づいてきて、あたしの手元を覗いた。
「これ、たぶん」
あたしは画面を拡大しながら言った。思考が口から溢れる。止まらない。
「この宇宙がある形式体系の定理として実装されてるなら——自己言及型の体系には必ず不動点が存在する。クリーネの定理。体系自身を記述する構造が、体系の内側に少なくとも一つある。でも——もしこの宇宙がフラクタルなら、一つじゃ済まない。ホワイトボードだけじゃない。この机にも、壁にも、あたしの手にも、全部に同じ構造がある。縮小された宇宙が、あらゆる所に。——」
「十六夜さん」
よはんが静かに言った。
「何」
「その通りです」
よはんの目が、いつもと少しだけ違っていた。何かを待っていた人が、ようやく荷物を受け取ったときの目。待つ時間が終わったような、そういう目。
「……やっぱり知ってたんじゃん」
「僕は、読めていただけです。十六夜さんは書いた。それは違うことです」
あたしは画面に目を戻した。
拡大された構造の中で、T/F/B/Nの粒が明滅している。ひとつひとつが命題で、命題と命題のあいだに推論の経路があって、それが網目のように広がって、その網目の形が宇宙の形と同じで、宇宙のコードそのものがここに刻まれていて。
あたしは椅子を回して、ホワイトボードに向き直った。新しいマーカーを取った。さっきの証明の続きを書き始めた。もし宇宙のコードがどこにでも刻まれているなら、ここから読めるはずだ。そしてもし読めるなら。あたしはスマホでホワイトボードの文字を読み取ると同時に、LOGICAに反映させ、パターンを追っていく。
ふと、今朝の数学の授業で黒板に書かれていた微分方程式が頭をよぎった。あの式も、読み直せるかもしれない。
まあいい。今はこっちだ。
◇◇
六花
学校に着いて、昼休みになって、放課後になって、あたしはようやく部室のドアの前に立った。教室を出るとき、窓際の三列目の遠野さんの笑い声が聞こえた。朝の通学路で聞こえたのと同じくらいでかい声だった。顔は見なかった。
まどかの背中は、いつ見ても部室より大きい。三畳半の壁も天井も関係ないみたいに、あの子だけが別の空間にいる。右手にマーカー。左手にスマホ。スマホの画面とホワイトボードを交互に見ながら、何かを書いている。
廊下の窓から見えた空はもうオレンジ色だった。あたしはドアの前で鞄を持ったまま立ち止まって、それから中に入った。
今日は行けると思っていた。先週見つけたクレープ屋、期間限定のマンゴーが今月末で終わる。まどかはマンゴー好きだ。去年の夏、コンビニでマンゴーアイスを三本買って二本食べたのを見た。「マンゴーだけは譲れない」って真顔で言ってた。あたしはその顔が好きだった。数学の話をしてるときと同じくらい真剣な顔で、アイスの話をしてた。
その店をまどかに教えたくて、今日を楽しみにしていた。
インクの匂いがした。ホワイトボードのマーカーの、アルコールっぽい匂い。あたしはこの匂いが少し苦手だ。部室に入るたびに、まどかの世界に入る感じがする。あたしの知らない記号と数字で埋め尽くされた世界。でも、嫌いかって聞かれたら、それは違う。まどかの匂いだから。
ドアに貼ってある紙——「数学研究部」って油性ペンで書いてあるだけの紙——を、ノックする前にちょっと見た。去年まどかがテスト用紙の裏に書いたやつ。あたしが「もうちょっとちゃんとしたの作ろうよ」って言ったら「読めればいいでしょ」って返された。まどかはそういう子だ。
つむぎくんは机に突っ伏して寝ていた。眼鏡を外して、腕を枕にしている。検算を終えてからずっとこうなのだろう。長い検算のあとはいつもこうなる。
よはんさんは窓際で本を読んでいた。制服のボタンが首元まで全部留まっている。背筋がまっすぐだった。あたしに気づいて、小さく会釈した。あたしも会釈を返した。よはんさんはいつも気づいてくれる。まどかは気づかない。
机の端でノートパソコンが開いていた。名取のだ。画面にコードが走っている。あたしに気づいて一瞬顔を上げて、すぐ画面に戻った。
「まどかー」
声をかけた。
返事がない。
「まどか。帰ろ。クレープ約束したでしょ」
駅前の新しい店。先週あたしが見つけて、今日一緒に行こうって言って、まどかが「いいよ」って言った。言ったはず。LINEで。既読もついてた。
まどかの背中は動かない。マーカーがホワイトボードの上を走る音だけがする。きゅ、きゅ、きゅ。小さな音。規則的な音。その規則性の中に、何か必死な感じがある。
あたしは鞄を持ったまま、ドアのところに立っていた。
一分くらい待った。
まどかがスマホの画面を覗き込んで、「ここ、二重になってる。なんで」と呟いた。あたしに言っているのではない。独り言。あるいはスマホの中の何かに話しかけている。
もう一分くらい待った。
よはんさんがこちらを見た。何か言いたそうな顔をしたけれど、何も言わなかった。
まどかはまだ振り向かない。
知ってる。こういう時のまどかは、声が届かない。中学のときからそうだった。
腹は立たない。
もう慣れた。
慣れたはず。
あたしは足を一歩前に出そうとして、止めた。何か言おうとして、止めた。
小さく言った。「帰ろー」
まどかには聞こえなかっただろう。聞こえていても気にしなかっただろう。
あたしはドアを閉めた。
廊下を歩いた。壁の向こうから、陸上部の声が聞こえた。「もう一本!」。演劇部の部室と体育館側の壁一枚しか違わないから、いつもこの声が聞こえる。階段を降りた。校舎を出た。六月の夕方の空気はまだ明るくて、汗ばむほど湿っていた。あたしは制服の首元を引っぱって、湿った空気を吸った。
一人でクレープを食べる気にはならなかった。
駅まで歩く。改札を通る。ホームで電車を待つ。
駅前の看板が、少しぼやけて見えた。文字の輪郭が曖昧になっていた。『○○銀行』って書いてあるのに、文字がはっきりしない。目が疲れてるのかもしれない。
あたしはスマホを取った。
まどかにLINEを送った。
『今日クレープ行けなかった。また今度ね』
ホームのベンチに座って、画面を見ていた。
電車が来た。乗った。座った。
隣の席でOLが二人、スマホを見ながら話していた。
「最近さ、物忘れ多くない? 昨日も取引先の名前ど忘れしちゃって」
「わかる。あたしも。なんか頭にもやがかかってる感じ」
「疲れてるのかな」
「疲れてるんだよ、たぶん」
あたしは自分の担任の先生の名前を思い出そうとした。——出てきた。佐藤先生。出てきたのに、なぜ確認しようとしたのかわからなかった。
季節のせいだ。たぶん。
スマホの画面を見た。既読はつかなかった。
---
まどかのノート #1
【四値論理】
Belnap-Dunnの四値論理。通常の論理では命題は「真(T)」か「偽(F)」。四値論理では「真かつ偽(B)」と「真でも偽でもない(N)」が加わる。矛盾した情報を、矛盾したまま処理できる。
【爆発律】
古典論理では矛盾(P∧¬P)が一つでもあると任意の命題が証明可能になる。でも実際には世界は壊れてない。なぜ?
【クリーネの不動点定理】
自己言及する体系には必ず不動点が存在する——体系自身を記述する構造が、体系の内側に少なくとも一つある。宇宙が自己言及型の形式体系なら、その不動点がホワイトボードの表面に現れていてもおかしくない。
【LOGICA v0.1 検出原理】
宇宙が自己言及型の形式体系なら、そのコードはあらゆるスケールに自己相似的に現れている可能性がある(不動点の存在+物理的自己相似性からの推測。定理からの直接の帰結ではない)。CMOSセンサーの量子ノイズは、そのスケールの窓の一つ。
暗電流ノイズ。普通はPoisson分布に従う。でも一部のピクセルで分布が偏る。偏りのパターンを高次統計量(尖度・歪度)で分類すると、四つのクラスタに分かれる。四つ。二つじゃなく。Fisherの判別分析で分離度を確認済み。三台のスマホ、異なるメーカーのCMOSセンサーで同じ四クラスタ。センサー固有のアーティファクトではない。物理的な自己相似構造の表出。
この四クラスタがBelnap-Dunnの四値束と同型であることに気づいたのが六月三日の午前二時。T・F・B・Nのタグを自動付与するフィルタを書いた。三時間で書けた。手が勝手に動いた。面白すぎて。
普通の高校生の視点で描く実験的作品です。楽しんでもらえたら幸いです。




