第三話 墨の匂い、煙の行方
山に入ったのは、夜が明けきって間もない頃だった。
昨夜のうちに荷をまとめ、李 華蓮には「少し写生に出る」と言い残してきた。あの娘のことだ、嘘だとは思っていないだろうが、どうせまた何か面倒事を抱えたのだと、鼻を鳴らしたかもしれない。
黎 傑は黙々と山道を登った。
足元の土はまだ夜露を含んで柔らかく、踏みしめるたびに小さく沈む。鳥のさえずりもどこか遠く、あたりは朝靄に包まれていた。
目的地は、香煙の寺。かつてこの地にひっそりと佇み、行者の間で信仰されていた山寺だった。
だが数年前に火事に見舞われ、本堂の一部を焼失。修復もままならぬまま、今では訪れる者もないと聞く。
にもかかわらず——。
「……道が、荒れていない」
草は生い茂っていたが、踏み分けられた痕が随所に残っている。
手折れた笹の葉、泥に残る浅い足跡、最近括られた竹柵の補修。どれも、昨日今日のものではないにせよ、朽ちたままにはされていない。
誰かが、ここを通っている。
視線を巡らせながら進んでいくと、やがて寺の門が現れた。
柱は黒ずみ、鬼瓦は一部崩れている。だが山門は開かれ、奥にはかすかな香の匂いが漂っていた。
——墨と香の混じる匂い。
黎はそっと息を吸い込み、その香りを肺の奥に運ぶ。
どこかで嗅いだことのある匂いだった。最近……そう、あの絵の紙片。鴻信が遺したあの一枚に、微かに染みついていた香りと、似ている。
*
本堂の前庭には、苔が広がっていた。
かつての修行者たちが丹念に手入れしていたであろう石畳の隙間には、今では緑が這い、土が盛られている。だが、苔の一角が不自然に剥がれていた。
近づいて見ると、そこに泥のついた草履が片方だけ落ちていた。
手に取り、鼻を寄せる。草履には新しい糊の匂いがわずかに残っていた。
裏には、街で見かける履き物問屋の印。庶民が使うような粗雑な品ではなく、ある程度の身分の者が使うような、簡素ながら丁寧な作りの品。
思い当たる名前は一人しかいなかった。
(……馬 鴻信)
それだけでは断定できない。だが、この場に彼が来ていた可能性は、強まった。
本堂の奥へと足を進める。床板は所々たわみ、柱の一部には煤の跡が残っていた。
廃寺と言うには、まだ「生きている」空気がある。
堂内には、老僧が一人、静かに座していた。
「拝見いたします」
そう声をかけても、老僧はしばらく無言だった。
やがて顔を上げ、澄んだ目を黎に向ける。
「……客とは、珍しい」
「山を越えて、ふと思い立ちました」
「思い立って来るには、骨の折れる場所じゃ」
言葉に棘はない。だが、探るような視線が黎の動きに注がれている。
老僧の衣は煤け、縫い目はほつれていたが、身のこなしには乱れがなかった。
「最近、こちらに人の出入りはありますか?」
「ないな」
即答だった。まるで、問われることを予測していたかのような。
「では、この履物は?」
草履を見せると、僧は視線をわずかに動かしただけで、すぐに目を伏せた。
「それも……捨ててあったのを、狐が運んだかもしれん」
無理のある理屈だった。
けれど、これ以上問い詰めても、口を割ることはないだろう。
この寺には、何かが“来て”いた。そして、僧はそれを庇っている。
それだけは確かだった。
*
峠道を下る頃には、陽は高く昇っていた。
朝靄はすっかり晴れ、蝉の声が谷に響いている。
寺での応対は空振りに終わったが、履物と香の匂い、そして足跡。得たものは少なくない。
峠下の茶屋で一服しようと腰を下ろしたとき、隣の席から会話が漏れてきた。
「馬家の若旦那、最近見ねえよなあ」
「まさか駆け落ちってやつか?」
「そうそう、聞いたぞ。女に入れあげてたって話だ」
「どこの誰よ?」
「春芳楼の……何だったか。胡蝶とか言ったか?」
名が耳に入った瞬間、黎の背筋に微かな緊張が走った。
胡蝶。
どこかで耳にしたことがある名前だ。妓楼の名も覚えがある。数年前、絵の納品で春芳楼を訪れた際、入り口に飾られていた見世絵の中に、その名があった気がする。
茶屋の柱には、色褪せた見世絵が何枚も貼られていた。
その中に、ひときわ目を引く華やかな衣装の妓女がいた。目元を隠すように扇子を持ち、踊るように片足を引いた姿。添えられた名は、確かに「胡蝶」。
扇の下から覗く眼差しに、絵師としての直感が疼いた。
ただの妓女ではない。鴻信が心を寄せた相手が、ここにいる。
*
日が傾く頃、黎は自室に戻っていた。
荷を解き、紙片を取り出す。光に透かしてみると、紙の下にうっすらと文字が浮かんでいる。
——蝶。
それだけ。けれど、それで十分だった。
「次は……妓楼か」
また、煙草盆に火を入れた。ゆらりと立ち上る煙の向こうに、女の影が見えるような気がした。
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