第ニ話 二枚の絵
まだ空が白みきらぬ時刻、黎 傑は早くに目を覚ました。
昨夜の来訪者の残り香が、室内に薄く残っている。香の名は知らない。だが、庶民の長屋には似合わぬ、柔らかで上等な香だった。
あの女——馬 雪玲が残していった紙片。あの絵に、見覚えがある。いや、厳密に言えば、“似たような何か”を描いたことがあった気がするのだ。
その記憶を掴むように、黎は無精髭の頬を撫でながら、部屋の隅の箪笥に手を伸ばした。下段の引き出しには、過去の注文帳と、束ねたスケッチ帳が乱雑に詰め込まれている。客ごとに付けた薄い仕切りをめくり、順に頁を繰る。
注文帳には、名前と注文日、依頼の内容、渡された資料や注意書きが簡素に記されている。
墨のかすれ具合や紙の色から、およその時期が分かる。春先、まだ肌寒かった頃。そんな記憶が、ふと手を止めさせた。
「……馬 鴻信」
馬家の次男。柔らかな眼差しに似合わぬ、どこか夢想的な気配を持った若者だった。
注文内容は「風景画 一幅」。備考には「写し元あり」「原図持参済」と走り書きされている。
その頁に、一枚の小さな紙片が挟まっていた。控えめな筆致で、霞をかぶった山並みと、山中にひっそり佇む寺の姿。
筆圧は弱く、線は不揃いだが、描かれた構図は奇妙に心に残る。
黎はその紙を卓に広げ、昨夜、雪玲が置いていった紙片と並べた。
両者の構図は酷似している。山の稜線、谷の奥の寺、遠景の霞のかかり方。どちらもやや俯瞰で描かれ、中央に配置された建物が目を引く。
違いは、筆の技量と意図の濃淡。
鴻信の絵は、どこか怯えたような、輪郭をなぞるだけの控えめな絵。
一方、雪玲が持ってきたものは、それをもとに誰かが書き写したような、やや整った線で構成されていた。
そして、ふたつの絵に共通して記されていたものがある。左下、山影の外れに、小さな印が記されていた。
まるで落款のように、しかし印章の形ではない。装飾とも違う、黒い墨だけで描かれた線の組み合わせ。
(……これだ)
言いようのない違和感が、黎の脳裏に残る。
絵の本体よりも、むしろこの印の方が強く、記憶の奥に引っかかっていた。
だが、何の印だろうか。誰のものか。絵の注文にこの印の話は出なかったはずだ。
煙草盆に火を入れ、煙管に葉を詰める。ゆっくりと煙をくゆらせながら、卓上の絵を見つめる。
細く上がった煙が、紙片の上を這うように揺れる。まるで絵の中の霧と重なるような、その流れに、黎の記憶が少しずつ引き寄せられていった。
(何かで見た。どこかで見た。……護符、だったか?)
小さな炎のような感覚が、記憶の片隅に灯る。
その確信を得るため、黎は立ち上がり、部屋の奥にある竹の箱を引き寄せた。
箱の中には、過去に訪れた各地の寺社で手に入れた符札や紙札、護符が無造作に折り重なっている。使い道も忘れられたそれらの中から、一枚の黄ばんだ紙を取り出した。
墨で描かれた、円と折線から成る印。周囲には古い梵字のようなものが薄く印刷されている。
「……香煙の護符、か」
思い出した。二年ほど前、旅絵師の縁で訪れた山中の寺。すでに参拝客は少なく、閑散とした雰囲気の中、短く対話を交わした僧侶がこの護符を授けてくれたのだ。
印の意匠は、雪玲の持ってきた絵のそれとよく似ていた。形はやや崩れていたが、根幹となる図案は同じものだと分かる。
単なる偶然にしては、符号が多すぎた。
(香煙の寺は、その後火災に遭い、ほとんど廃寺になったと聞いた……)
なぜ、今になってその印が絵の中に現れるのか。
鴻信は、かつて香煙寺を訪れたことがあるのか? それとも——絵の中に込めた意図が、そこに向かっていたのか。
印の存在が、単なる落款や装飾ではないと確信したとき、黎の表情はわずかに引き締まった。
(これは……ただの風景画じゃない)
描きたかったものは「景色」ではない。
絵の中に、何かを隠したのだ。もしくは——記したのだ。
*
支度を整えていたとき、戸を叩く音がした。
「黎さん、起きてる?」
李 華蓮の声。戸を開けると、湯気を立てた包みと椀を載せた盆を持っている。
「どこか行くの?」
「まぁね。しかし、また来たのか。世話好きが過ぎるぞ」
「余計なお世話。食べなきゃ動けないでしょ」
盆を受け取ると、彼女は部屋の中をちらりと覗き見た。
卓に広げた紙の上を、一筋の煙が漂っていたのを目にして、ふと眉を寄せる。
「……昨日、夜、誰か来てた?」
「どうして分かる?」
「香の匂いが違った。うちじゃ焚かないような、高い香」
鋭いな、と黎は苦笑する。
「ちょっとしたお使いの話さ」
「また厄介事?」
「そうかもな。でも、まだ分からない」
それ以上詮索はしない。華蓮は器を置いて一言。
「今日はちゃんと野菜入ってるから、文句なしで食べてね」
「感謝するよ」
「じゃあ、いってらっしゃい。……気をつけて」
その言葉に、黎はふっと笑みを浮かべた。
*
器に残った粥のぬくもりを感じながら、黎は包みの中の絵と護符をもう一度確認する。
行き先は決まっている。——香煙の寺。
かつて信仰の場だった山寺。
廃れ、火事に見舞われ、今は誰も近づかぬ静寂の地。
けれど、そこに何かがある気がしてならなかった。
煙の奥に沈む記憶。絵の中に込められた意図。見えぬままに封じられた言葉。
それを拾い上げるのが自分の役目なら、行くしかない。
煙管に火を入れ直し、ひとくち吸ってから、そっと息を吐く。
その煙が天井へ昇りながら、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。
朝の光が差し込みはじめる。
黎は風呂敷に絵と護符を包み、静かに立ち上がった。
——霞む山の向こうへ。
絵の“続きを”確かめるために。
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