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烟霞《えんか》にまぎれて  作者: まるまめ珈琲
絵にならない依頼
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第一話 消えた若旦那

 墨の香りがかすかに漂う、静かな奥座敷だった。


 黎 傑(リー・ジエ)は畳の上に一幅の巻物を丁寧に広げた。そこに描かれているのは、柔らかな眼差しを湛えた老女の肖像。淡墨と輪郭を最小限に抑え、微かな皺の揺れまでをも墨の濃淡で描き出す、彼なりの渾身の一枚だった。


 番頭の男は「おお……」と低く唸ったきり、しばし言葉を失っていたが、後ろから聞こえた細い声がその空気を一気に打ち砕いた。


「違うわ」


 絹問屋・呉家の未亡人が、絵を一瞥しただけで顔をしかめる。


「母はこんな顔じゃなかった。もっと……こう、眉が吊り上がっていたし、目だってこんなに優しくなかった」


 黎は心中で溜息をついたが、顔には出さなかった。


「はあ……眉の上がり具合ですか。では、もう少し凛々しく描き直しましょう」


「それだけじゃ駄目よ。雰囲気が違うの。三日で仕上げて」


 番頭が慌てて取りなそうとしたが、未亡人は一歩も引かない。客の言葉が絶対である以上、絵師はただ従うしかない。


「承知しました。三日で」


 絵を巻き直し、頭を下げた黎が部屋を後にする。その背を見送りながら、番頭が小声で囁いた。


「すまんな。あの方、最近は何を見ても気に入らんのだ」


「構いませんよ。絵なんて所詮、煙のようなもんですから」


 外へ出ると、まだ日は高い。けれども心はすでに暮れかけていた。


     *


 傾きかけた陽を背に、黎は裏路地を抜けて長屋へと戻った。


 木造の古びた棟の一角、自室の戸を引き開けようとしたとき、隣の戸口から顔を出したのは、李 華蓮(ホア・リエン)だった。


「おかえりなさい、黎さん。また突き返されたの?」


「おや、見てたのかい。なら言うまでもないな」


 華蓮は呆れたように息をつきながらも、手にしていた布包みを差し出した。


「余り物だけど、晩ごはん。食べないとまたやせちゃうよ」


「ありがたく頂戴するとも。食うことは煙ほどには儚くないからね」


 受け取った包みは温かく、重みがある。煮込み豆腐と高菜炒め、それに米がぎっしりと詰まっていた。


「煮込みはちょっと味濃いかも。あと、豆腐、崩れた」


「むしろ望むところ。煮崩れた豆腐こそ至高ってやつだ」


「はいはい、詭弁ご苦労さま」


 華蓮は髪をかき上げて笑うと、ふいと顔を背けた。


「……今日、昼前に呉家の番頭が通ってた。大きな風呂敷抱えててさ」


「こっちが抱えてたのは希望。向こうがくれたのは三日の猶予さ」


「また無茶ぶりされたんだ」


「人の記憶ってのは、都合よく変わるもんでね。“前に見たあの人”と“今の絵”が違ってる気がするなら、描き直せってなる」


「それでも描くんだ?」


「描くさ。描かないと腹が減る」


「……うちで毎日食べてけば?」


 その言葉には、からかいとも本気ともつかぬ響きがあったが、黎はあえて乗らなかった。


「それじゃ俺の筆が鈍る」


「ふーん」


 ふいに華蓮がくるりと背を向け、戸口の影に身を引く。


「じゃ、湯が冷めないうちに入っちゃいなよ。描き直すなら、夜は寝とかないと」


「優しさが重いなあ、まったく」


「うるさい」


 その背に軽く手を振ってやってから、黎は弁当の包みを下げ、部屋へ入った。


     *


 弁当を空にし、煙を三服くゆらせたころ、戸を控えめに叩く音が響いた。


 こんな時間に誰だろうかと怪訝に思いながら、黎は静かに立ち上がって戸を引いた。


 そこに立っていたのは、見覚えのある女だった。


 整った眉、端正な輪郭、そして品のある佇まい。月明かりがその横顔を静かに照らしている。


「ご無沙汰しております、黎さま」


 馬 雪玲(マー・シュエリン)。街でも名の知れた大商家・馬家の長女。以前、兄の婚礼画の相談で訪ねてきたことがあった。


「こんな夜更けに……随分とこっそり来たもんだね。門限破りでもしたかい?」


「申し訳ありません。どうしても、人目につかぬうちにお話したかったのです」


 その表情はいつになく切迫していた。黎は黙って部屋へ招き入れ、灯りをひとつ足して卓を挟む。


「弟が、姿を消しました」


 一息置いたのち、雪玲はそう切り出した。


馬 鴻信(マー・ホンシン)、でしょう?」


「はい。ここ数日、戻っておりません。書き置きもなく、行き先も告げずに」


 馬家の次男・鴻信は礼儀正しく温和な若者として知られていた。街でも顔を見れば誰もが挨拶するような存在だ。


「家の人間は、“すぐ戻るさ”と言うばかり。まるで何も気にしていない様子で……」


「気にしてない、ねえ」


「でも、違うんです。あの子はここ数ヶ月、家の中で何かを探していた。帳簿や、古い手紙や、倉の中の記録まで……。何を見つけたのかまではわかりません。けれど、顔つきが変わったのは確かです」


 雪玲は目を伏せた。震える手を膝の上でぎゅっと握りしめている。


「家の誰かが、彼に何かをさせたのか。それとも、何かを隠したのか。……わたしには、どうにも解らないのです」


 静かな間が落ちた。黎は煙管に刻み煙を詰め、火をつけた。煙がふわりと舞い上がり、卓の上でたゆたう。


「探し屋に話すってことは、つまりそういうことだ。表に出せない何かを追いたいってこと」


「はい……お願いできますか。あの子を、探していただきたいのです」


「馬家の若旦那の家出……探して見つけてどうする。連れ戻すか?」


「それは……彼の意思次第です。ただ、生きているのかどうか、それだけでも確かめたい」


 その声には、決意と一抹の哀しみが滲んでいた。


「ほかの誰にも頼めなかった。誰も、本気で探そうとはしてくれないんです」


 そう言って雪玲は帯の中から一枚の紙片を差し出す。


「これを、あの子が描いてほしいと言っていたそうです。数ヶ月前、誰かに頼んでいたようで……どこで手に入れたのか、わたしには見覚えがありません」


 黎が受け取って広げると、それは素描きの風景画だった。薄墨で描かれた、山と寺のような輪郭。だが、どこか実在感が薄い。夢か幻か、あるいは記憶の中の景色といった印象。


 紙の片隅には、妙な墨の滲みが残っていた。


「これは……印?」


 じっと目を凝らす。書判や落款には見えない。護符のようにも、呪符のようにも見える奇妙な形状。


「鴻信は、この場所を知っていたのか?」


「いいえ。……ただ、気になっていた様子はありました」


 ふたたび沈黙。やがて黎は煙を吐き出しながら呟いた。


「妙な絵だ。けど……面白くなってきた」


 その声は、いつもの冗談めいた調子とは違っていた。


     *


 雪玲が静かに去ったあと、黎はしばらく紙片を見つめ続けていた。


 描かれた山寺。墨の滲み。消えた若旦那。隠される家の事情。


 ——何かが、煙の向こうで揺れている。


 彼はゆっくりと眼帯の下を指で押さえ、苦笑した。


「さて、見えるかね。煙の奥にいるあんたが」


 夜はまだ静かだった。だが、風が変わった。

ずっと書いてみたかった推理要素の作品です。

書いては直しで1話だけでも10回くらい書き直しました笑


悩みながらゆっくりやってく予定なので生暖かい目で見守ってください。


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