道草
道草をむしゃむしゃと食べていると、実は本当にイデオロギーの塊なんじゃないかと思う。この草も、草の隣に埋もれたように佇んでいる石も。怖い? 怖くはないさ。本当に怖いのは天使の純粋な微笑みだけさ。今思い出してもゾッとするよ。なにせ今さっきとってつけたようには思えない継ぎ目のない完璧な笑み。けど、あっちは全然そうじゃないんだろうな。心からの笑み。本当に怖いよ。背筋が芯から震え上がるくらい、ただただ怖いよ。何が彼ら彼女らをそうさせるのかは分からないけど。
主体性を堂々と標榜する彼ら彼女らの元には天使がぴくりとも微笑まず、空っぽな器でもって癇癪を起こし、そこかしこでなりふり構わず大暴れしている。それに対して、主体性をやんわりと忌み嫌い、天使とにらめっこしている我等に主体性が宿っているかのように傍目には見えるとは。何と皮肉なことか。身を焦がすほど欲するものには嬉々として与えられず、丁重に退けるものには意気揚々と預けられるとは。自由だ自由だと叫んでいるものに不自由さが付き纏い、不自由さを感じているものが比較的自由を謳歌できるという一見矛盾した状況、それと似ている。欲望は中途半端が一番バランスが良いのだと、ちょっと不満はあるがそれを笑い飛ばせるぐらいが良いんだと、口一杯に広がる草の苦味を淡々と味わいながら思う。突き抜けられるならそれに越したことはない。自分の背中に四六時中追い回される覚悟があるのなら。
「アイデンティティなんていう嘘くささの権化みたいなもの欲しくなかった。それよりも……」
「ぐだぐたと贅沢言うな。欲しくてたまらない人だっているんだぞ」
「これが……? 」
「そう、それが」
「……はぁ。酔狂な人もいたもんだ」
「……どの口が言う」
「……そうだよね。あの頃は、同じ場所を志向していると無邪気にも信じていたのになぁ……」
夫婦喧嘩は犬も食わない。アイデンティティもそう。なのに……。そんなもの欲しがるくらいなら道草を食えって言いたくもなる。やっぱりアイデンティティの喪失、欠落が大きいか。それだから、欲しがるのかとも思う。ないから欲しい。子供じみた物言い。そうだよ。欲しいなら何だってする。おもちゃ売り場の前でみっともなく駄々を捏ねることだって、仰向けになって手足をバタバタさせひっくり返った甲虫みたく振る舞うことだって。しっぽを切り落として、生え変わることのないしっぽをずっと待ち続けることだって。仕方ないからそこら辺に生えているしっぽを拾ってきたり、川から流れてきたしっぽを拾ってきたりなんてことはする訳もなく。自分の魂を悪魔に二束三文で売り付け、天使から高値で買い戻すことだって。欠落はそれに相応しいピースでピッタリと埋めなくちゃ。……まあ、そうだよな。道草は食べないもんな。道草が美味しくないからとか、苦いからとかじゃなくて、そもそも見えてすらいないんだもんな。眼中にない。視界に入ってすらいないんだもんな。こっちもそうか。あまり偉そうなことは言えたもんじゃない。私がねじれているということは、おそらく彼らにとってもそうなのだろう。彼らは彼らなりの仕方で浮かんでいるだけなのだ。それが彼らのスタイルであり、それに文句をつけることは何人たりとも許されないが……。少なくとも溝があることだけは分かる。しかし、それらに直面してもどうすることも出来ない。私が私でないのと同じぐらい、彼らも彼らではないのだ。影踏み。影踏み。鬼はだ〜れだ?
道草に夢中になるのも悪くないとも思う。道草よ、いつまでも道草であれ! 自らが呼称する限りそれらはひっそりと続いていくのだから。我々がそれを道草と呼ばなくなったとしても、思い出せなくなったとしても、遠い昔に誰かがそうであると確信しているのならば。