あそこへ帰る
道の先に大木が現れた。見上げるほど高く、幹も太い。大人が四、五人手を伸ばしても、まだ手は届かないだろう。
その木を見て、首を傾げてしまった。この道を毎日歩いているが、今までそんな大木を見た覚えはない。あれだけの大木だ、見落としていたということもないだろう。
訝しんでいると、大木の陰からひょこりと老人が出てきた。やや腰の曲がった細身の老人だ。笑顔を浮かべているが、なぜか厭な感じがする。
老人がひょこひょこと近づいてきた。顔がはっきりと見えるようになって、違和感を持った原因がわかった。老人が浮かべている笑顔が、作り物めいているのだ。
目の前までやって来た老人が、やおらに話しかけてきた。
「お帰りですか?」
「今から行くところです」
いきなり訊かれて面食らったが、咄嗟にそう答えた。
老人とはそのまますれ違った。
大木の横を通り過ぎて少し歩くと、また道の先に大木が現れる。やはり見上げるほどの高さで、幹も太い。そして、再び老人が大木の陰から出てきた。細身でやや腰が曲がり、笑顔が作り物めいている。
先ほどと同じように近づいてきた老人が、同じように話しかけてくる。
「お帰りですか?」
「今から行くところです」
同じやり取りを繰り返して、老人とすれ違った。
歩いていくと、三度、大木が現れた。そして、その陰から老人が出てくる。
障られているな、と気がついた。
怖くなって、ヒデトシは祖父に抱きついた。祖父の体は大きくて、幼いヒデトシでは腕が回らない。抱きつくというよりも、しがみつくと言ったほうが正確かもしれない。
祖父の胸にぺったりと顔の右側をくっつけると、祖父がいつも吸っているタバコの匂いが鼻についた。普段は顔をしかめるその匂いが、その時ばかりはヒデトシを安心させる。
頭に重みがかかって、頭を撫でてくれているのだと気がついた。祖父の手のひらの熱がじんわりとヒデトシの髪を越えて、その下の頭皮も抜けて、もっと奥のヒデトシの心を温める。
「大丈夫」
祖父の言葉でヒデトシの強張りがいくらか解れると、祖父は続きを語りだした。
叩きつけるような蝉しぐれの姦しい、夏の午後のことだった。
*
夏の日射しは朝でも容赦がない。まだ、朝の八時にもなっていないが、すでに気温はじりじりと上がっている。額に浮いた汗が首元へと流れ落ちて、着ているワイシャツの襟を濡らしている。スーツのジャケットは端から羽織らずに、左手に提げ持っていた。
ヒデトシはわずかに顔を伏せるようにして歩いていた。ちょうど太陽がヒデトシの進行方向にあり、日射しがまともに降り注ぐ。顔を伏せたところで日射しからは逃れられないが、それでもという、僅かばかりの抵抗だ。
朝日を浴びることでその日一日の活力が得られる、という者もいるが、ヒデトシには朝日が暴力的に思える。とくに、今朝の朝日はことさらにそうだ。
原因はわかっている。昨夜の母との電話をまだ引きずっているのだ。
「最近はどうなの?」
「どうって、別に変わりはないよ」
電話口の母に、ヒデトシは気のない返事を返した。
「そう?ちゃんとご飯は食べてるの?あんたのことだから、仕事が忙しいって言って、きちんと食べてないんじゃないの?」
「大丈夫だよ、ちゃんとやってるよ。うるさいなあ」
「またあんたはそんなふうに。だいたいあんたは――」
またいつもの母の小言が始まった。こうなると母の口はなかなか止まらない。ヒデトシはスマートフォンから耳を離して、母の話すに任せた。ときおり「ああ」だの「うん」だのと相槌を打っておけば、母の小言は聞き流せる。
母が心配してくれているのはわかっている。母に愛されているのは知っているが、それとこれとは話が別だ。仕事終わりで疲れているときに、いちいち母の小言に付き合いたくはない。
「ちょっと、ヒデトシ。聞いてるのっ?」
「聞いてるよ」
「そう、それならいいんだけど」
いいと言いつつ、母の口調には不満がありありと表れている。
まるでヒデトシが母に対して不当な扱いをしていると言外に言わんばかりで、これにはヒデトシも母に対して言い返したくなるが、以前、実際に言い返してひどい目にあってからは、これは我慢の一手だと自分に言い聞かせている。
「それでね……」
それまで流れるように話し続けていた母が、この日初めて言いよどんだ。ここからが電話の本題であるようだが、ヒデトシには、母の話を聞かずとも内容に察しがついた。きっと祖父のことだ。
「あんた、今年のお盆、帰ってくるのよね?」
母の声が微かに震えていた。
ヒデトシに問いかける体だが、帰ってくるのは決定しているという口振りである。それは正しく母の願望の表れなのだろう。
「帰らないよ。仕事が忙しいんだ」
ヒデトシは間を置かずに答えた。努めて、他意はないことを示そうとしたが、かえって平坦な声が出て、ヒデトシ自身が驚いた。
「仕事って、お祖父ちゃんの初盆なのよ」
「しょうがないだろう、仕事なんだから」
「それはわかるけど……一日くらい休めないの?」
「無理だよ。今、新しいプロジェクトを任されたところで、本当に忙しいんだ」
嘘だった。たしかに新しいプロジェクトで忙しいが、休みを取れないほどではない。後ろめたさが、ヒデトシの語気を強くした。
「そう」
母はそれだけを言って、この話を切り上げた。ヒデトシが拍子抜けするほどのあっさりさだった。あるいは、最初からヒデトシの答えを予期していたのかもしれない。
それから二、三話して、「体に気をつけて」と言って、母は電話を切った。ヒデトシの中に、仕事の疲労とは違う、もっと尾を引く疲れが残った。
ふとした拍子に顔を上げ、うっかり朝日を見てしまい目が眩んだ。一瞬、世界が白くなり、そこから今度は黒くなる。細めた目尻に涙が滲んだ。
くらりと揺れた視界で、対向してくる人の群れの中に祖父の姿が見えた。一瞬のことで、すぐに雑踏に紛れてわからなくなる。きっと見間違いだ。ヒデトシは軽く頭を振る。それで疲れは抜けないが、視界ははっきりとした。祖父の姿はどこにもない。それはそうだ、祖父はもう死んでいるんだから。
よほど昨日の電話を引きずっているな、と思うと、知らず苦笑が浮かんだ。すれ違おうとしていた男が、怪訝な顔をヒデトシに向けたが、すぐに顔を逸らした。そのままお互い何もないふうを装ってすれ違った。
幼い頃は祖父に懐いていた。ヒデトシは、よく祖父の膝の上に座って、祖父に話をねだったものだ。その度に、祖父はヒデトシの頭をなでながら、色々な話をしてくれた。童話や民話、道徳的な話から滑稽話、そして、恐ろしい怪異譚。ヒデトシは祖父の話を通して世界を理解していた。
ただ、長じるにつれて、だんだんと祖父との距離は開いていった。祖父は良くも悪くも昔気質の人だった。男はかくあるべしという価値観だったし、ヒデトシは当然地元に残って家を継ぐものだ、と信じて疑わなかった。その祖父の態度が、いつからか、ヒデトシには自身を縛りつける鎖に思えた。
祖父との間に最初の明確な溝が出来たのは高校進学のとき。地元から離れた高校に進学を決めたヒデトシに、祖父は不満を隠そうとはしなかった。そこから県外の大学に進学し、県外の会社に就職を決めたことで、祖父との溝は、暗く深い断絶となってしまった。就職の報告をしたヒデトシに、祖父は「何を考えてるんだ!」と怒鳴った。
「お前はこの家を継ぐんだろうがっ。県外の会社になんぞ就職して、一体どうするつもりだっ!」
怒る祖父にヒデトシも頭に血が登ってしまい、売り言葉に買い言葉で、収拾がつかなくなってしまった。最後には
「祖父ちゃんには関係ないだろうが!」
と言い放って、ヒデトシは地元を離れた。以来、ほとんど地元には帰っていない。祖父とまともに話したのも、それが最後である。
いつかは、また祖父と昔のように話せるようになるだろう、祖父と分かり合える日が来るだろう。根拠もなく、そう思っていた。だから、祖父の訃報は、ヒデトシに大きな衝撃を与えた。通夜の前に見た棺に納まる祖父は、記憶にある祖父とは違う、ひどく異質な別物に成り果てていた。ヒデトシには、それが祖父の怒りにも自身の罪にも思えた。
葬式が終わると、仕事を理由にさっさと地元を離れた。火葬場には行かなかった。これ以上、祖父の形が変わるのは耐えられなかった。
初盆には顔を出すべきだ、というのはわかっている。ただ、どうしても祖父の仏壇の前に座る勇気が出ない。
朝日に目を焼かれぬよう、ヒデトシはまた顔を伏せ気味に歩いていた。そうしたら、ふいに日射しが遮られた。いま歩いている道は、毎日使っている通勤路である。太陽を遮るようなものはなかった筈だが、と訝しみながら伏せていた顔を上げて、ヒデトシは目を瞬かせた。
木があった。大木だ。見上げるような高さで、それが日射しを遮って、ヒデトシを影の中に収めている。幹も太い。大人が四、五人手を伸ばしても、まだ幹は囲えそうにない。
車道と歩道の境目の、やや歩道よりのところに生えている。どう見ても、昨日、今日に植えられたようには見えない。しかし、ヒデトシがいくら記憶をさらっても、そんな大木を見た覚えはない。
まさか、幻覚を見ているのだろうか、と思った。朝日に目が眩んだ拍子に、そこにないものを見ている。もしそうなら、自分が思うよりも、体と心の調子は深刻なのかもしれない。そう考えはしたが、幻にしては、いやに存在感がある。ざらついていそうな、ひび割れた木肌まで鮮明に見えていた。
思わず立ち止まってしまったヒデトシを、後ろを歩いていた女が迷惑そうに横目で見て、避けて追い抜いていく。その女は、ごく自然に先にある大木も避けて、そのまま歩いていった。それで、ああ、どうやら幻覚ではないらしいぞ、と気がついた。
幻を見ているのではないのなら、あと考えられる可能性は二つだ。ヒデトシがぼうっとしていて道を間違えたのか、それとも、ヒデトシの頭がおかしくなってしまったのか。
ヒデトシは前方を見た。大木がある以外は、見慣れた風景が続いている。オフィスビルがあり、銀行があり、一度も利用したことはないが、美味しいと評判の弁当屋がある。コンビニでは、三人の学生が自転車に跨ったまま雑談している。
道を間違えてはいないようだ。ならば、おかしいのはヒデトシの頭なのか。それはにわかに認めがたい。きっと気鬱で頭が混乱しているだけなのだ。
ヒデトシが動けずに大木を眺めていると、その陰からひょこりと老人が出てくる。やや腰の曲がった、小柄で細身の老人だ。真っ白な髪の下の顔は笑っているが、奇妙な違和感がある。笑顔が作り物めいているのだ。
ヒデトシと老人の目が合った。老人はヒデトシをひたと見つめて歩いてくる。ゆっくりと、ひょこひょこと。いくらもしないうちに、老人はヒデトシの目の前に立った。
「お帰りですか?」
やにわに老人が話しかけてきて、ヒデトシは面食らう。突然のことでまごついていると、老人は再度問いかけてきた。
「お帰りですか?」
「い、いや、今から行くところで……」
どうにか答えると、老人は笑顔を浮かべたまますれ違った。
その途端、ヒデトシは強烈な罪悪感に襲われた。自分は今、あの老人になにかとんでもない不義理を働いてしまったのではないか。今すぐ謝らなければ、という焦燥に駆られるが、不思議と老人を追いかけようとは思わない。ともかく先へ行こうと、ヒデトシは歩き出した。
木を避けるために、大きく回りこんで歩いていく。そうしていくらも歩かないうちに、また大木が現れる。
先ほどと同じ木に見える。高い樹高に太い幹。木肌はひび割れている。やはり、見覚えはない。
大木を前に立ち止まっていると、再びその陰から老人が現れた。先ほどすれ違ったばかりの老人だ。
その老人は、ひょこひょことヒデトシの目の前まで来ると、やおらに問いかけてくる。
「お帰りですか?」
「今から行くところです」
今度はすぐに答えた。
老人は、笑みを浮かべたまますれ違っていく。
今度は、耐えがたい郷愁に襲われた。帰らなければ、という思いが、まるで強迫観念のようにヒデトシを責め苛む。それでもヒデトシは歩き出した。
なにかおかしなことが起こっている。それは理解できたが、なにがおかしいのかはわからない。心が追い立てられている。
ふいに、祖父の話を思い出した。幼いときに祖父の膝の上で聞いた怪異端だ。たしか、これと似たような話を、祖父がしていた気がする。祖父はその話の中で、怪異を払っていたはずだ。どんな話だっただろうかと思い出そうとするが、浮かんでくるのは祖父と怒鳴りあった記憶だけだ。
そうこうするうちに、三度、大木が現れた。そして、陰から老人が出てくる。
老人が近づいてくる。
罪悪感が胸を刺す。
祖父の話は思い出せない。
老人が近づいてくる。
郷愁が胸を締めつける。
祖父の話は思い出せない。
老人が目の前に立つ。
ああ、もう逃げられないのだと悟った。
「お帰りですか?」
「はい、帰ります」
ついに答えてしまった。
老人は、作り物めいた笑みを貼りつけたまま、すっと右手を横に伸ばした。つられるように、ヒデトシは自身の左側を見る。そこには、あったはずの車道は影も形もなく、ただ原っぱが広がっているばかりで、その原っぱを突っ切るように、踏み固められただけの土の道が一筋伸びている。その道の先、一軒の平屋の家が建っていた。
「帰り道はこちらです」
老人の声が心にしみ込む。ヒデトシはすべてを理解した。あそこは自分が帰るべき家だ。
老人に促されるまま、ヒデトシは家に向かって一歩を踏み出す。続いて二歩目を踏み出そうとした瞬間、肩を掴まれ、ぐっと後ろに引かれた。とっさのことで、ヒデトシはたたらを踏む。何事かと背後を振り向けば、そこには祖父が立っていた。
祖父は左手でヒデトシの肩を掴んだまま、器用に右手一本で胸ポケットからタバコを取り出した。それを口に咥えて、おもむろに火をつける。一度、深く煙を吸い込んで、それを老人へと吹きかけた。
煙に吹き散らされるように、老人の姿がたちどころにかき消える。大木も、いつの間にやらなくなっている。あれだけざわついていたヒデトシの心も、嘘のように平静を取り戻していた。
ああ、助かったのだ。そう、思った。生前は、ついに和解することが出来なかった祖父が、それでも助けに来てくれたのだと思うと、胸が熱くなる。こみ上げてくるもので、祖父の姿が滲んで見えた。
「ありがとう、祖父ちゃん。ありがとう」
ヒデトシの声が震えてかすれる。
祖父はヒデトシを見ると、笑みを浮かべた。作り物めいた笑みだった。祖父がゆっくりと口を開く。
「お帰りですか?」
祖父の後ろに、大木が立っている。