48 エレナと約束のケーキ
朝食を終えたわたしは、メリーを連れて客間に滞在されている殿下の元を訪れる。
殿下の許可の声を聞き扉を開く。
ランス様やウェードはひっきりなしに訪れる役人たちの対応で屋敷の中を行ったり来たりしていて、今は殿下お一人で書類の山に埋もれている。
エレナにとって見慣れた客間だとは思えないほどにテーブルが何卓も置かれていた。
山積みにされた書類は、イスファーン語の書類ばかりだ。今回の交易やお兄様とアイラン様の婚約に絡んだ内容だというのは、説明を受けなくても誰でもわかる。
王太子として通常課せられた公務でさえ大変なはずなのに、イスファーン王国絡みの事案は全て殿下に一任されているらしい。
お兄様とアイラン様のプロポーズ騒動もわたしがけしかけたのが原因だけど、そもそもシーワード子爵のイスファーン王国への不正な貿易の実態を掴んだ事から、その尻拭いで今回の貿易交渉が大々的に始まった。
シーワード子爵の疑惑追及は、わたしが転生者だからってありもしないチート能力に期待して騒ぎ出したのが発端だ。
この山積みの書類は元を正せば全部わたしのせいだ。
殿下はわたしが増やした仕事を寸間も惜しんで遂行していらっしゃる。
わたしのせいなのに、わたしに対して殿下は一言も文句を言わない。
騒ぐだけ騒いで後始末を何もしないでいるエレナをどう思っているんだろう。
わたしはチラリと顔色を窺う。
殿下は相変わらずイケメンだけど、疲労の色がありありと見える。
いつものキラキラエフェクトが弱い気がする。
昨日から碌に食事を取っていないらしい。
まぁ、ここは王宮じゃないから毒味係とかいないし、出されたものを自由に食べたりはできないっていうのもあると思うけど……
それにしても何か食べないと心配だ。
メリーが用意すれば少しくらいは召し上がって下さるかもしれない。
わたしは深呼吸して殿下に向き合う。
「ねぇ、殿下。お茶でもいかがかしら? 何もお召し上がりになってないのでしょ? 簡単につまめるものでもお召し上がりになったらいかが?」
「ありがとうエレナ。ただ、わたしはまだやらねばならぬことが山積している。わたしのことは気にせず過ごしてくれ」
殿下は書類から視線を上げず、そう答えた。
「いいえ、殿下。少し休憩された方がいいわ。根を詰めすぎると冷静な判断ができなくなるわ」
このまま引き下がったら何も召し上がらないに違いない。じっと待つ。
「……そうだな。では少し休もう」
「じゃあ、メリーにお茶を入れてもらいましょう」
そう言って書類が積み上げられていないテーブルを探す。
「殿下もこちらにいらして」
文机から動こうとしない殿下をお呼びする。
「空いてるテーブルはここしかないのね」
「……あぁ、ここに書類の受け渡しで文書係の官吏が座るからな」
「あら、座ってて平気かしら」
「しばらく帰ってこないだろうから問題ない」
疲れ果てた様子の殿下はため息をつく。
やっぱりエレナのことを怒ってるのだろうか。
何も言えないわたしが下を向いていると、メリーが配膳のために近づく気配がする。
「昨年からエレナ様が『領地の祭りには胡桃のケーキを』と手配しております」
メリーはわざとらしくそう言って、胡桃のケーキをわたしたちの前に置く。
エレナが小さな頃から一番そばにいるメリーは、どんな思いでこの胡桃のケーキを用意していたかよく知っている。
そんな言い回しをして、殿下に思い出せとでも言いたいんだろう。
胡桃のケーキが視界の隅で主張する。
七年前エレナは、殿下が急に王宮に戻ることになって食べられなかった胡桃ケーキを、また来た時に一緒に食べる約束をした。
エレナにとっては大切な約束でも、殿下にとっては忘れてしまうくらい瑣末な事だったに違いない。
……ううん。違うわ。わかってるくせに。
殿下はきっと覚えていらっしゃる。
覚えているからこそ、エレナの浅ましい執着心を断ち切らせるためにあえて召し上がらなかった……
この場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
だめよエレナ。落ち着いて。
いつもみたいに泣いて逃げ出したりしちゃいけないわ。
「何か召し上がって頂こうと思ったけど、ここには毒味係がいないから召し上がれないわよね。失礼いたしました。よかったらお茶だけでも召し上がってくださいませ」
誤魔化す様にそう言って、わたしは殿下の目の前に置かれた胡桃ケーキに手を伸ばし一口齧る。
お行儀が悪いけれど、手をつけられないまま殿下の前に置かれている胡桃のケーキなんて見たくない。
泣いたらいけないと我慢すれば我慢するほど、涙がこぼれそうになる。
嗚咽を堪えて咀嚼できない胡桃のケーキを手に持ったまま、身動きできないわたしの手首を急に大きな手が握る。
大きくて、暖かくて、骨張っていて、少しだけゴツゴツとした手。
驚いてぱっと視線を上げると、殿下がわたしを真剣に見つめていた。
「エレナ」
優しく囁きかける様な殿下の声に呼ばれ、身体が跳ねる。
顔が熱い。
涙も溜まってぐちゃぐちゃなのに真っ赤になっていて、きっとみっともない顔をしている。
不貞腐れたふりして顔を逸らしたいのに、深い湖の様な紺碧の瞳はわたしを捕らえて離さない。
殿下は真っ赤になったわたしから視線を逸らさずにじっと見つめる。
さっきまで躊躇う様にそっと握られていた手が、優しく……でもしっかりと握りなおされた。