26 エレナ、領地を案内する
まずは、イスファーンの使者も連れて紡績工房の視察に向かう。
到着すると恭しくアイラン様をエスコートするお兄様に続いて、先に降りた殿下が何も言わずにわたしに手を差し伸べてくれた。
ブラウス一枚の軽装でもやっぱり殿下は王子様だ。キラキラしていて眩しい。
大きな手にそっと乗せたエレナの小さな手。前に手を取ってくれた時は指先に殿下の唇が触れた。思い出すと恥ずかしくなって手が震える。
殿下は揶揄うようなことは言わないで、そのままエスコートしてくれた。
そのうえ馬車から降りると、殿下は腕を組めるように待ってくれている。
えっ! いいの⁈
牽制する相手なんて誰もいないのに。
ドキドキしながらわたしが手を伸ばしたタイミングで、イスファーンの使者が殿下に話しかけに来た。
きっとイスファーン王国内でも重鎮なのだろう。王太子殿下相手でも遠慮ない。
牧羊と紡績について質問責めだ。
イスファーン語が多少できるからと通訳をしていた王宮の役人たちは、国内の紡績産業について質問されてうまく答えられなかったみたい。
『──牧羊についても紡績産業についても、こちらの……トワイン侯爵家のご令嬢が詳しい。イスファーン語も堪能なので貴殿の期待に応えられるだろう。紹介させていただこう』
殿下はイスファーンの使者の質問に対してかいつまんで回答をしたあと、わたしを紹介してくれた。
婚約者……じゃなくてトワイン侯爵家のご令嬢としてだけど。
まだ、正式に公表されてるわけじゃないもんね。そうだよね。
『トワイン侯爵家が娘、エレナ・トワインと申します。わたくしがご案内いたします』
わたしは伸ばしかけていた手を引っ込めて殿下の隣に立つと、淑女らしいお辞儀をしてイスファーンの使者の案内係を引き受けた。
アイラン様をちやほやするのに忙しそうなお兄様は放って、工房の中に入る。
この時期の工房は嵐の前の静けさだ。
顔馴染みの親方だけが、管理のため工房に残っていた。
親方に案内してもらいながら、わたしはイスファーン語で通訳や補足の説明をする。
紡績を行う工房は、刈ったままの羊毛を洗って汚れを落とし、糸を紡ぎ、染色までを行う。
暑くなる前に毛刈りをするからこれから忙しくなる。
紡いで枷にした毛糸は農閑期に各村に配られて、絨毯などの毛織物が作られる。
村ごとの伝統的なデザインで織られた絨毯は貴重なトワイン領の冬の収入源だ。
それでも農業が主産業のトワイン領では、毛織物はあくまで農閑期に作る程度なので、たくさん羊毛があっても使いきれない。
イスファーンが輸入してくれたら使いきれない羊毛も収入になるし、毛糸にしたり製品にして付加価値をつけて輸出できるなら、新たな主産業になり収入だけじゃなくて領内の雇用にも繋がる。
他の領主たちだって新たな産業は喉から手が出るほど欲しい。詐欺だって横行している。
国内にはトワイン領以外にも牧羊や紡績をしている地域がある。
殿下がわたしを案内役にしてくれたのは、トワイン領が他領に先立って取引できるようにとの気遣いに違いない。
わたしは隣に立つ殿下を見上げる。
「ありがとうございます」
お礼を伝えたら、殿下は一瞬驚いた顔のあと「なんのことかな」と意味ありげに笑った。
イスファーンの使者は工房視察だけで満足したのか、王宮の役人たちと契約に関する取り交わしなどを行うために王都に戻ることになった。
わたしたちはせっかく用意してくれたお昼ご飯を食べるために整備された河川敷で絨毯を広げる。
「ねえ、お兄様。もう契約は決まったから別荘に戻るの? 牧場に行かなくてもいいんじゃない?」
わたしはメリーとユーゴがその場で仕上げてくれる豚の煮込み入りのバケットサンドをかじりながら、お兄様に尋ねる。
メリーが仕上げてくれた方がやっぱ美味しい。ユーゴが作るサンドイッチは繊細さに欠ける。リエットを挟めるだけ挟んでいて胸焼けがする。
「牧場は行くよ。もう準備もしてもらってるもん」
お兄様はユーゴの作ったサンドイッチを頬張る。
「でも殿下はたくさん書類に囲まれてお忙しいのに来ていただいたのよ。連れ回すようなことしたら悪いわ」
「そっか。じゃあ、殿下はランスと先に戻っていただこう」
契約が決まれば用はないとばかりに、殿下たちを追い出そうとする。
「勝手に決めるな。私も同行する」
「心配しなくても問題なんて起こさないのに」
殿下から注意されたお兄様は不満げにそういった。