20 エレナと晩餐会前の準備
もう晩餐会に参加するための準備をしないといけない時間だ。
参加予定のないわたしはハーブティーを飲みながらお兄様達の準備を眺める。
殿下はあまり多くの従者を連れ回ったりしていないから、できることは自分でされる。
今もウェードが上着を持って後ろに控えているけれど、自分のボタンは自分でしめ、付けた胸飾りが曲がってないかお兄様とお互いに確認して、お兄様がふざけて殿下の胸飾りを斜めにしてみたり、それをランス様が呆れた顔して直したり、上着を着た時にお兄様の髪の毛が乱れたのに気がついた殿下が撫でつけるふりしてさっきの仕返しとばかりに余計に乱れさせたり、それをランス様が呆れた顔して直したり……
えっ。なにここ。
楽園なの?
これが日常なの?
永遠に見てられるんだけど。
お茶が進む。
「ねぇ、ウェード。おかわりちょうだい」
メリーに頼む気分で気軽に声をかけてウェードに冷ややかな視線を向けられる。
やってしまった。
ウェードはあくまでも殿下の侍従だ。
主人である殿下のお着替えについてウェードのする事はほとんどないとはいえ、いまお茶を入れてもらおうなんてもってのほかだ。
なにを言っても取り繕える気がしない。
黙るしかない……
「ウェード、私とエレナに新しいお茶を入れてもらえないか」
重苦しい雰囲気に気がついてくれたのか、着替えを終えた殿下が私の隣の席に腰を下ろして、ウェードに指示を出す。
ウェードは何事もなかったように殿下とわたしの前に新しいお茶を出した。
一口飲むとミントと柑橘の清廉な香りが通り抜ける。
昼間の軍服みたいな正装も凛々しい王子様って感じで素敵だったけど、夜会の為に着飾った盛装は甘い雰囲気で、本当の本当におとぎ話の王子様みたい。
……お兄様があつらえたばかりの長上着も素敵だったけど、殿下のお召になっている象牙色の天鵞絨に金糸刺繍のジュストコールと胴着のセットアップは繊細な刺繍がふんだんに施されていて、見ているだけでうっとりする。
「……ふぅ。さすが王室お抱えの針子が刺す刺繍は丁寧で細やかだわ。糸は一本取りだし、ロングステッチなのに私のショートステッチくらいの幅よ?」
「そうだね。エレナ。素敵な刺繍だけど周りから見るとレディらしからぬ振る舞いだから離れた方がいいと思うよ?」
お兄様に言われてハッとする。
豪奢な刺繍に目を奪われて、つい殿下の下腹部に顔を近づけていた。
殿下はものすごーく気まずそうに顔を逸らして眉間を摘んでいる。
良くない! エレナ、これは良くないわ!
「ごめんなさい」
素直に謝って顔を離そうとした瞬間、ジレについている刺繍の入ったくるみボタンがひとつだけ違うのに目が止まる。
「ジレのくるみボタン、一つだけ違うわ」
「えっ。違う? ……全部同じにしか見えないじゃないか」
お兄様はそう言って、わたしと反対側の殿下の隣に座って殿下のジレを覗き込む。
「お兄様。ちゃんと見て? 全然違うわ。ほら、糸の色が少しだけ違うし、他のボタンの刺繍のステッチ幅は均等だけど、一番上のボタンは少し針を刺す幅が不均等だわ」
「……それって、一番上のボタンだけ下手ってこと? 僕にはどれも丁寧に刺繍してるようにしか見えないけど……」
「違うわ。他のボタンは針の運びが均等で丁寧な仕事が職人の矜持を感じるけど、一番上のボタンは丁寧だけど温かみがあって想いを込めて刺しているのが伝わるわ。きっと御守りになる様に願いを込めているのね」
わたしが自慢げに持論を展開するとお兄様の視線がどんどん冷ややかになっていく。
「……エレナの刺繍に対する常軌を逸した情熱はよくわかったよ」
「からかわないで」
「エレナには違いがわかるんだね」
わたしとお兄様の会話を聞いていた殿下がそっとボタンに触れる。
慈しむような優しい笑顔。
ボタンに向けられたその眼差しにチクリと胸が痛む。
そうだ。
王室のお抱えの針子だとしたらみんな職人の矜持を感じる仕事をしてないと不自然だ。
御守りになるような心のこもった刺繍は、王室に勤められるような優秀な針子の仕事として違和感がある。
もしかして、殿下を慕う女性からの贈り物なのかしら……
そして、その女性を殿下は寵愛していたりするの?
エレナは殿下の婚約者なのに、普段の殿下の事をほとんど知らない。
小さい頃に妹のように可愛がって下さったって記憶があるだけ。
「このボタンはね、昔母上が私のために刺繍を入れてくれたものを付け替えてもらったものなんだ。失敗できない大切な場に赴く時にこのボタンが着いた服を着ることで母上が私を護って下さるんだ」
そう言ってボタンに向けた優しい眼差しのまま私を見つめる。
殿下のお母様である王妃様は、殿下が子供の頃亡くなられている。
マザコンな発言も、殿下が言うと亡くなった王妃様の事を本当に大切に思われている事に胸がキュッとする。
「想いを込めて刺した刺繍を、こんなに大切にしてもらえたら、きっと嬉しいわ」
「そうかな」
「えぇ。こないだ殿下が私が刺繍したハンカチを大切に使って下さっていたのを見てわたしはとても嬉しかっもの。きっと王妃様も嬉しいと思うはずだわ」
そう言って笑いかけると、殿下は自分の胸元に手を触れて嬉しそうに笑った。