31 夢見る少女レイシャの誤算【サイドストーリー】
招き入れられたのは普段王太子籠っていると噂されている部屋だった。
あまりいい噂の聞かない王太子ではあるものの、レイシャにしてみれば王太子は王太子であり、国内有数の権力者であるその王太子に側近候補として認められ、部屋を貸してもらえるエリオットが誇らしかった。
「レイシャ」
名を呼ばれて腕を引かれる。壁に追いやられ両腕に囲まれると、息がかかるほど整った顔が近づく。
「なぁにエリオット」
レイシャは期待を込めて憧れの貴公子を見上げる。
王立学園に再び通い出したエレナは相変わらず周りが見えないのか、ご令嬢相手に騒ぎを起こしたりしている。
いまは王太子殿下も外聞を気にしてか、エレナを気にかけている素振りを見せているけど、そんな日は続かない。
側近候補のエリオットならわかるだろう。
エリオットを救えるのは自分だけだという自負がレイシャにはあった。
「レイシャ。やっていい事と悪い事がある。今までみたいに大目に見てあげることはできない」
耳元で囁かれたのはプロポーズの言葉ではなかった。
いつもの優しい笑顔は目の前にない。真剣な眼差しがレイシャを射抜く。
「エリオットったら、なにをいってるの?」
「あの日街にエレナを連れ出したのはレイシャでしょ? エレナが心を痛めるような事になると思わなかったの?」
(また、エレナ……)
完璧に思えるエリオットに傷があるとすればエレナの存在だ。心優しいエリオットは使えない役立たずのエレナの心配ばかりしている。レイシャはため息をつく。
「流行り物も何もわからないエレナを街に連れて行っただけよ。わたしは何もしていないわ」
「なにも? レイシャはエレナを街に連れ出して悪い噂をわざわざ聞かせてなにもしてないっていうの?」
「わたしはエレナが街を歩いた事がないっていうから連れて行ってあげて、人気の舞台を見せてあげただけよ」
真剣な眼差しはいつしか侮蔑を含んでいた。
「エレナを街に連れ出せば、なにが起きるのか想像出来るだろう?」
「わたしは、エレナが子供の頃『レイシャは王都に詳しいのね。わたしも行ってみたいわ』なんて言ってたから夢を叶えてあげただけよ? それにそもそも王太子殿下から婚約破棄されるんだから早かれ遅かれこうなっていたわ。エリオットこそいいの? 傷物になったエレナを相手にするご令息なんていないわ。我が家のレイモンド兄様くらいよ」
レイシャはそう言ってエリオットに手を伸ばす。
「……なにがあってもエレナがレイモンドに嫁ぐことはないし、レイシャが僕に嫁ぐこともないよ」
レイシャが伸ばした手を振り払いエリオットはきっぱりと宣言した。
「いやだわ。親戚じゃない。困った時は助け合わないと」
「親戚? まあ、一族みな親戚といえば親戚かな」
「一緒にしないで!」
「……君たちの曾祖父が侯爵家の人間だったというだけだ。没落寸前の男爵家なんかに侯爵家のご令嬢が嫁ぐなんてありえない」
「没落寸前……?」
「君の曾祖父が造らせていた蒸留酒の樽はほとんど残っていないんだろう? 残り少ない蒸留酒を安酒と混ぜて卸している。高名な美食家達はもう君たちの蒸留酒は飲まない。名を汚す者にいつまでもトワインの名を名乗らせることはできない」
エリオットは侮蔑した眼差しのままだ。
「父上が貴族院に告発するための証拠を集めている。近いうちに告発は受理されて領地は接収し廃爵される」
レイシャは急に事実を突きつけられて、目の前がガラガラと崩れていくように感じる。
「いやよ! 平民なんかになりたくないわ! そうだわ! エリオットはもうすぐ十八歳になるのに婚約者は決まっていないんでしょう? わたしが婚約者になってあげる」
レイシャがしなだれかかろうとした瞬間、エリオットは身をかわす。
バランスを崩して座りこんだレイシャを見下ろすエリオットの視線は冷たいものだった。
「敬称が抜けてるよ。身分をわきまえてね。王立学園では家柄にとらわれずにみな同じ学生として扱われるなんて建前なのはわかってるでしょう? 自分は領主の娘だって身分を笠に着せた振る舞いをしてるものね」
「エリオット。そんなこと言わないで」
「もう一度言わないとわからないほど頭が悪いのかな? そうだったね。一族の茶会では、いつもエレナの話が理解できなかったものね。レイシャたちはエレナがお茶会でまともな話が出来ないなんて馬鹿にしていたけど。流行り物の話がまともな話だと思ってるならもう少しまともなお茶会に参加した方がいい。まあ、もう貴族のお茶会なんて参加することはないんだろうけどね」
「エリオット! ねえ! エリオットってば!」
レイシャがどれだけ媚びて呼んでも、冷たい視線は変わらない。
いつも優しく穏やかなエリオットは目の前にいない。
憧れのその人は深いため息をついてレイシャの前から立ち去っていった。
***
王立学園が終わりレイシャが女子寮に戻ると、男子寮にいるはずのレイモンドがレイシャを待ち構えていた。
「レイシャ。寮の荷物をまとめるんだ。退学する事になった」
真っ青な顔のレイモンドはそう言って自分の腕で身体を抱え込む。
「どうしたの兄様。顔が真っ青よ」
「先ほど王太子殿下に呼び出されたんだ。僕たちにはもう未来がない」
「もしかして蒸留酒のこと? 大丈夫よ、エリオットは侯爵様がこれから準備をするといっていたわ。いまからお父様に連絡すれば証拠を消す事だって出来るはずよ。ああ、きっとエリオットはわたしたちに準備の期間を与えてくれたのよ! やっぱりエリオットは優しいわ。役立たずのエレナと大違──」
レイシャの口は慌てたレイモンドに塞がれた。
「……いいか。二度とエレナを貶めるようなことを言うな。王太子殿下の耳に入ったら命はない」
そう言ってレイモンドは何かを思い出し怯えたように身震いをする。
真っ青な顔で「まさか王太子殿下の逆鱗に触れるとは」とつぶやいたレイモンドの声はレイシャには届かなかった。