53 領地の土産物屋は振り回される【サイドストーリー】
がらんとした店で過ごさねばいけなくなったのは、自分がまんまと美女に鼻の下を伸ばしていたからだということを思い出す。
店主は自業自得だったとため息をつく。
とはいえ少しの仕事と聞いていたはずなのに、これほど仕事を押し付けられるとは思わなかった。
(くそっ。ただより高い物はないってわかっていたのに)
目の前の役人は店主の後悔など気にも留めず、先ほどまで印刷していた依頼をうけて作成した本を確認してしていた。
「頼まれた仕事は終わりましたよ」
「上出来だ。では、こちらは国内の礼拝堂に配布するように」
「は?」
「配布の際は子どもたちの勉強に使うようにと説明も忘れぬようにしろ」
「ちょ、待ってくれ。配布って誰が」
役人の男は黙って店主を指さした。
「はっ? えっ? これから稼ぎ時で、若様とイスファーンのお姫様の版画を……」
「王都でこれほどまで広い店舗を構えるのだ。少しくらい働いてもらわないといけない」
「はぁあ⁈ えっ? すでにもうめちゃくちゃ働いてますよ! 王太子様がお気に召すような挿絵を描くように絵師に依頼をしたのも俺だし、印刷して製本したのだって俺だ! 俺の本職は土産屋で印刷工じゃないんだぞ。どれだけ大変だったと思ってんだ!」
店主は言葉が乱れていることに気が付いたが、そんなこと気にしていられなかった。
「ご苦労なことだ。あとひと踏ん張りだな。明日には出発できるよう馬車はこちらで用意している」
「なっ勝手なこと……」
役人の男は返事も聞かず、見本を一冊手に取ると去っていった。
***
(なんだよ。南の街道沿いの町を海まで往復するだけだったじゃねぇか。びびらせやがって。国内の礼拝堂なんていうから本気で全ての礼拝堂巡りをさせられるのかと思ったぜ)
一年以上の旅を覚悟した店主は、十日ぶりに王都に戻ってきた。
迎えにきた馭者が店主の旅支度を見て困惑していたのを思い出しただけで腹立たしい。
(にしても、あの野郎。揶揄うような嫌がらせしやがって。俺になんか恨みでもあんのか? あいつの言うことを聞かずに美女の誘惑に負けたからか?)
繁華街から少し離れた停留所で馬車から降ろされた店主は毒を吐きながら歩く。
(しかしまぁ、王都ってのは祭りでもないのにすごい人手だな)
さっさと店に帰って休みたいところだが、王都に来てからも仕事ばかりで歩く暇もなかったため安全な近道を知らない。店主は嫌でも混雑した道を行くしかない。
繁華街に近づくにつれ、身動きが取れないほどに混雑していた。
押し寄せる人々は興奮しており何かを見ようと必死に背を伸ばしていた。
「なんかあったんすか」
店主は隣に立っている男に話しかけた。怪訝な顔で見返される。
「ここ数日王都は大騒ぎだってのに知らないのか?」
「いやぁ。仕事で十日ほど王都を離れてていたもんでね」
「なるほどな。じゃぁ驚くぜ」
にやりと笑った男は店主の背中を馴れ馴れしく叩く。
「王太子殿下がここ数日お忍びで視察している」
「はぁ。視察?」
「驚いただろ? 王太子っていや感情のない操り人形で貴族のお偉いさんたちの言いなりで俺たち庶民のことなんて虫けらほどにも思っていないなんて噂だったのに、庶民の生活を知ろうと女官を連れて歩いてるんだ」
「女官? って女の役人だよな?」
「ああそうだ。王太子が惚れるのも無理がないくらいのいい女らしいぜ」
「は? 王太子が惚れてる? 勘違いじゃないか?」
王太子が惚れている相手は侯爵家のお嬢様だ。女官なんかじゃない。
「それがさぁ、見たこともないくらい綺麗な女官らしいんだけど、そんだけじゃなくて王太子相手にはっきり意見を言うんだけど、出店の店員なんかには優しくて手を取って笑いかけたりすんだってよ。それで今日もいらした王太子殿下御一行を一目見ようと集まってるってわけさ」
隣の男の発言を皮切りにほかの野次馬たちも口々に王太子と噂の女官について知っていることを話し出す。
「私腹を肥やすシーワード子爵の悪事を、民のために突き止めるようにと王太子様にお願いしてくれたらしいぞ」「じゃあ景気が良くなったのもその噂の女官のおかげだな」
「なんでも隣国との貿易が始まるってんで貴族のお偉いさんだとかでっけぇ商会なんかが好き勝手言ってるのを王太子様が調整を買って出てお忙しくされてたのをお手伝いされたのがその女官様らしい」「王太子様のお手伝いをされるってくらいだ。ずいぶん優秀なんだ」
「俺は直接見たわけじゃないが聞いた話によると市場を視察にいらした際に胡桃の菓子を試食をすることになって、その女官が毒見をした食べかけを王子が食べたらしい」「心を通わせてらっしゃる証拠だ」
「王太子殿下と女官様はまるであの芝居から出てきたみたいじゃないか!」
店主は噂話を聞きながら領都の店に来たあの美しい女官を思い出す。
とんでもなく綺麗で、でも王太子付きの役人相手でも臆することなく意見を言い、店主に助け舟を出してくれた。
(そりゃいい女だったけど。だからって……そんなはず……じゃぁ俺は今まで何のために……)
落ち着けと頭では冷静に考えても「騙された」という気持ちで、はらわたが煮えくり返る。
店主は人混みをかき分け前に進む。悪態をつかれようが押し返されようがひるまない。
背の高い王太子は人混みの中心で見つけることができた。あのいつも冷静で感じの悪い王太子付きの役人もいる。
……そして、そのそばには美しい女官がいた。
「王太子殿下!」
いてもたってもいられず店主は声を上げた。王太子には声が届かない。役に立たないと噂の治安維持隊が店主を取り押さえようと近づいた。
「王太子殿下‼︎」
拘束しようとするのを振り払い、伸ばせば手が届く距離まで近づく。王太子は店主の声にゆっくりと振り返る。
背の高い王太子の影に隠れて小柄な女官が立っていた。
その小柄な女性は栗色の豊かな髪にに翠色の大きな瞳が美しかった。
(女官の制服を着ているがこの方は女官なんかじゃない。俺だってトワインの民だ。見間違えるわけがない……)
礼拝堂で祈りをささげる石像がそのまま命を与えられたようなその姿を毎日自分で印刷しながら見ていたのだ。
「エ……むぐぅっ――」
「ごめんなさいね。お忍びなの。騒いではいけないわ」
細くしなやかな人差し指が唇に触れる。困ったように微笑む目の前の女官に店主は顔を赤らめる。
観衆はうっとりとしたため息をつくものや、声にならない悲鳴を上げるものが続出した。
(あぁ。女神さまのご加護だ)
民衆が噂する女官の正体を知った店主は心の中で祈りをささげた。
──そして。店主の男が歯ぎしりの音に顔を上げ嫉妬にまみれた王太子と目が合うまで、もう幾ばくも無い。