38 王太子殿下と淡い恋の物語【サイドストーリー】
──あの夏から毎年エレナの誕生日に自分が興味を引いた本を送っている。
私の誕生日に、エレナからその本の感想をしたためた手紙と刺繍の入ったハンカチを一緒に送ってくれるのを楽しみにしていた。
エレナらしい真っ直ぐさを兼ね備えながらも、どこに私が興味を持って贈ったのかを見透かしたような感想に毎年感心した。
清廉潔白で正義感の強いエレナに恥じない本を贈りたい。
その思いが王太子教育を口実に重鎮達が自分たちの都合いいことばかりを押し付けてくる日々の中で正しい道から踏み外さずに歩み続ける道標となっていた。
聡明なエレナが、自分を卑下し自尊心を失っている。
私もエレナも同じなのだ。
似通った流行りのドレスで着飾り髪型も化粧も同じ様に施した令嬢達の顔が区別出来ないことも、流行り物ばかり話す彼女達を喜ばせる様な会話ができないことも、私が責められることなのだろうか。重鎮たちの苦言という名の嘲りに不満を吐いてはいけないのだろうか。
馬鹿らしいと思いながら、如才なく振る舞うことはできない事実は間違いないのだから言い返すこともできない。傷つかない様に心を殺し、ただ操られるままの人形の様に茶会で曖昧な笑みを浮かべ過ごしていた。
エレナが茶会で如才なく振る舞えなくとも、エレナの本質は聡明で気高く美しいのだからなんら価値を損なうものではないのに。
自分と同じように茶会で如才なく振る舞えない事に傷ついていた。
傷ついているエレナを、同じ様な思いをしている自分なら救ってあげる事ができる。私と婚約すればエレナもくだらない茶会に出なくて済むのだ。互いに利がある話ではないか。
「エレナ。幼い頃の夢を叶えたいのだけど、いいかい?」
あの夏……エレナに対して「お嫁さんにしてあげる」だなんて言ったのは子供の思いつきではあったが、兄のように慕ってくれるエレナから離れがたかったのは事実だ。
別荘からの帰路、私がエレナに求婚したことを聞きつけた陛下付きの補佐官たちから「政治的になんの利もない領地のご令嬢と結婚するなどありえない」と言い募られて諦めたのだ。
王太子の婚姻は王室が切れる最大の切り札だと派閥の駆け引きに翻弄されている間に、わたしの婚姻はいつしか誰もが引きたがらぬ道化師の札となっていた。
道化師の札が、目の前の可愛らしい少女から兄の様に慕われて心穏やかに生きる幸福を得ようとしてはいけないのだろうか。
幼い頃のように野原を駆け回り木によじ登るようなことはなくとも、本を読み語らいあうことや刺繍する姿を眺める幸せを、エレナの膝枕で聞きなれない旋律の歌を聞きながらうたた寝をする幸せを再び手にしたいと願ってはいけないのだろうか。
いや。
エレナはあのリストに名前が上がっていたではないか。エレナを選ぶことを非難される筋合いはない。
返事のないエレナの顔を覗き込む。
私の言葉の意味を理解していないのかエレナは、差し出したハンカチを受け取り涙を拭くと私の顔を見つめ返した。
重鎮たちや婚約者候補に選ばれていた令嬢達の品定めする様な視線でもなく、親から私に気に入られるよう指示を受けて茶会に参加する令嬢達の取り繕う様な愛想笑いでもない。
真っ直ぐな瞳を宿す真摯な表情はなんのてらいもない。
あぁ、なんと愛らしく可憐なのだろう。
誰も本当にエレナの清らかな可愛いらしさに気がついていないのだろうか。
じっと私を凝視する濡れそぼった瞳はエメラルドを嵌めた様に煌めき、柔らかそうな頬はほのかに色づいている。
少し開いた紅色の唇が私を誘惑するかのようにかすかに動いた。
「……殿下?」
「────っっ!」
衝動的に抱きしめようと伸ばしかけている手に気が付き、慌てて手を引き掌を強く握りしめる。
頭の中まで早鐘を打った様な心音が聞こえ自分の呼吸が乱れていることに気がつく。速くなる呼吸を整えるためにゆっくりと息を吐き出す。
いま、エレナを抱きしめて、何をしようとしたというのだ?
自問自答をする。
慰めるために胸を貸したかったのではない。
私はエレナを自分だけのものにしたいなどという浅ましい独占欲をむき出しにして、華奢な身体を力一杯に掻き抱き、あまつさえ唇を塞ぎそのまま押し倒してしまいたいなどと思ったのだ。
不能な王太子などと揶揄されても否定できないほど他者に興味のなかった私が……
衝動的な感情が自分にある事に驚く。
危険だ。感情に任せて動いてはいけない。
エレナは昔と同じように私を兄の様に慕っているだけだというのに。
可憐に咲く真っ白なマーガレットを土足で踏み荒らし手折る様なことはあってはならない。
深呼吸して、決意を固める。
手紙を書こう。
エレナとの大切な思い出一つ一つが互いに愛や恋と呼べる様になるように。
***
あの時の決意から今日までエレナの気持ちが分からず、ただ闇雲に思いを募らせていた。
いや違う。エレナは聞けば話してくれると知っていた。
気持ちが分からなかったのではない。気持ちを知るのが怖かったのだ。
とんだ腰抜けだな。
言葉に出して直接伝えていれば……
「……本来ならこの一年でエレナとの大切な思い出がもっと増えていてもおかしくないはずなのにな」
エレナは憐れんだのか、おずおずと手を伸ばし私の頭を撫でる。
あの夏母を失い心まで失いかけていた私を癒した小さな手に撫でられるのを任せる。
「……婚約を申し出たあの日から、幼い頃と同じようにエレナと触れ合いたいと思っていたのに、手紙を送っても返事はないし顔を合わせる事もなく日々が過ぎて……」
「あの……ごめんなさい。あんなにたくさん手紙を送ってくださっていたのに……」
謝らせたかったわけではない。私はかぶりを振る。
「いや、エレナのせいではないのだから謝る必要はない。ただ、あの時は手紙がエレナの手元に届いていないなど微塵も思わず、私の思いがエレナの負担になっていると考えてしまった。その中、去年の茶会でエレナが皆の前で婚約についてままごとだと揶揄された時に、兄と慕う私とのおままごとのような婚約の何が悪いのか、与えられた役割は全うすると宣言したのを聞いて……私は兄でいようと自分に律したのだ」
勝手に手紙を送り、勝手にエレナの気持ちを決めつけていたのだ。
これからは自分の思いを伝えよう。エレナは応えてくれるのだから。
エレナに思いを尋ねよう。エレナは答えてくれるのだから。
私は腕の中のエレナを強く抱きしめた。
殿下の思い出話はこれでおしまいです。
お付き合いいただきありがとうございました。