36 王太子殿下と淡い恋の物語【サイドストーリー】
誕生日当日に喜んで僕から本を受け取ったはずのエレナは、談話室で日なが一日ずっと同じ頁を眺めていた。
文字を指で撫でたと思うと、小首を傾げてまた頁を眺め、しばらくすると文字を指で撫でて繰り返している。
そして、とうとう今は本を開きもせずに膝に乗せてボーっと上の空だ。
僕からもらったから仕方なく読んでいるように見えて、なんだか悲しくなる。
でも悲しい理由を突き詰めると、僕が大切にしていた本なんだからエレナにも同じくらい大切にして欲しかったなんて勝手な考えだし。
あげたらもう自分のものじゃないってわかっているのに、大切にしてくれないならあげなきゃよかったなんていう、そんな狭量な自分にもっと嫌な気持ちになる。
そんな事をうじうじと考えていると、何故か当事者じゃないエリオットがエレナと僕に怒りはじめた。
「あぁもぅ! ねぇ。エレナ。絵のない本なんて読んだ事ないくせに、どうしておねだりしたの! 読めないなら素直に読めないって言いなさい! だいたい殿下だって、エレナにあげたくせにあげなきゃよかったって後悔するような大切な本だったら最初からあげないでよ!」
図星を突かれて少したじろぐ。エレナはエリオットが怒ることに慣れっこなのか、チラリと見ることすらなく上の空のままだ。
「……珍しいね。エリオットは何があっても怒らないと思ってたよ。でも、なんでエリオットがそんなに怒るの?」
「なんでって……思ったことを言えば解決するのに、二人とも自分の世界に閉じこもってるんだもん! 話して解決して次に進んだ方が賢明でしょ」
確かにそうなんだけど、大切にしてくれないならあげなきゃよかったなんて僕はやっぱり言える気がしない。
思ったことを素直に口にできるエリオットを羨ましく思いながら、一つの疑問に行きあたる。
「確かに僕はエリオットの言う通りかもしれないけれど、どっちかっていうとエレナはエリオットに負けないくらいおしゃべりだし、思った事は遠慮せずに言うと思うんだけど」
エリオットは大袈裟にため息をつく。
「いつもはね。でもエレナは自分がわかる範囲を超えて『なんで』『どうして』がいっぱいになると、頭の中のエレナとおしゃべりを始めちゃって僕たちと話さないんだよ。『無理』とか『わからない』って素直に言えばいいだけなのに」
「頭の中のエレナ?」
「そう。ほら、考え事するときに自分で自分に問いかける事があるでしょ。それをエレナは頭の中のエレナとおしゃべりするって言うんだよ。しかも頭の中のエレナは別の世界に住んでた前世のエレナでお姉さんだからおしゃべりすると一緒にいろいろ考えてくれるんだって」
エリオットがわざとエレナに聞こえる様に話しても相変わらずエレナは上の空だ。「ほらね」とばかりにエリオットは肩をすくめる。
それにしても自問自答することを「頭の中のエレナとおしゃべりする」って表現するのはちょっぴり面白い。
しかも前世だなんて。
「とにかく僕はこんなうじうじしたの好きじゃないんだ。殿下がエレナに難しい本あげたのが原因なんだから、責任とってね!」
エリオットはそう言うと僕とエレナを残して席を外してしまった。
しょうがない。
「……エレナ」
返事はない。
「ねぇ、エレナってば」
近づいて声をかけるけど、やっぱり返事はなくて、僕は少しムッとする。
「ねぇ、エレナ。読めないなら無理しなくていいよ」
冷静になって話そうと思っていたはずなのに思ったよりも冷たい声でエレナに声をかけた事に自分で驚く。
でも、普段の僕の声じゃないことを感じたからか、やっとエレナは僕を見る。
「……読めるわ」
「エレナが文字が読めないなんて思ってないよ。でもわからないから進めないんでしょ」
「わからないけど……でも読めるもの!」
エレナは読めないことを認めない。
いつもの素直なエレナじゃなくて、頑固でテコでも動かないつもりのエレナに僕は苛立ってしまう。
「いい? 本を読むっていうのは書いてある内容を理解して、新たな知識を身につけて、自分の世界を広げる事を言うんだ。文字を読んでるだけじゃ本を読んでいるうちに入らない。今のエレナは読んですらなくて本を眺めているだけじゃない」
僕の言葉に肩を震わせエレナは俯く。
いけない。泣かせてしまった。
この国を統べるものとして感情を表に出すようなことはいけないのに。
やっぱり冷静じゃない時に想いを伝えようとするのは危険だ。
「エレナ……」
泣かせるようなことを言うつもりじゃなかったんだ。そう伝えるためにエレナの顔を覗き見ると、僕のことを睨みつけていた。予想外の形相につい笑いそうになる。
「違うわ! ちゃんと読めるもの! 読めるけど意味がわからない事があるってだけなのに、そんな意地悪な言い方するなら、もう……シリルお兄ちゃまとはお話してあげないんだから!」
エレナが怒ってるんだから笑ってはいけないと思ったのに。「お話ししてあげない」と啖呵を切られて吹き出してしまう。
「そうやって私のこと笑うなら出てって!」
怒りあらわになったエレナに僕は部屋を追い出された。