31 王太子殿下と淡い恋の物語【サイドストーリー】
エレナの自室に招き入れられると設えた大きな本棚に沢山の本が並んでいた。
ソファに座り本棚を眺める。エリオットの言う通り私が贈った本だけでなく、理解するために手に入れたと考えられる多くの本が並んでいた。
自分で理解するために努力を惜しまないのだろうというのが手にとるように分かる。
エレナが昨年送った本を持ってきた。何度も何度も読み込んでいたのだろう。贈った時よりも擦れなどが目立つ。
「この頁なのですが……」
「どれ……」
エレナを隣に座らせて本を覗き込むとエレナの顔が耳まで真っ赤になっているのが見える。
「昔のように膝に座るかい?」
「もう! からかわないでください!」
真っ赤になったエレナに、持論や疑問に至った経緯などを確認する。自信が無いなどと言っていたが道筋のしっかりとした考え方をしており感心すら覚えた。
お茶会でご令嬢達に尋ね口ごもられてしまった質問を、エレナにしたらなんと答えるのだろう。
「……なあ、エレナ。トワイン領で何か困っている事はあるだろうか?」
私の急な質問にエレナが驚き逡巡する。
多かれ少なかれどこの領地でも懸念事項を抱えている。尋ねられて何も考えず弱みを晒してしまうのか、そもそも領地に興味もなく答えることすらままならないのか。それとも……
エレナはどんな回答をするのだろう。
お茶会に参加していた令嬢の多くは「領地についてはよくわからない」などと言って私から逃げるように離れてしまった。
「殿下が直接要望を聞いてくださるの? 領地の運営をしているのはお父様だから、お父様に訊いてからでもいいかしら」
「ああ、そうだな。失礼した」
……期待しすぎてしまったな。
エレナなら何か感心する答えをするのではと勝手に期待をして、がっかりしている自分の愚かさに呆れる。私の気持ちなど知らないエレナの満面の笑顔を眺めた。
「お祝いに来てくださっただけじゃなく、領地の困り事まで気にかけて要望を聞いてくださるなんて嬉しいわ。きっと殿下の敬愛するひいお爺様のように、殿下も素晴らしい治世者として歴史書に名を刻む事になるわね」
先々代の国王である曾祖父は海向かいの隣国との長年に渡る争いを終結させた名君だ。私が幼い頃から曾祖父のような君主を志していることを覚えていたのだろうか。
笑顔のエレナから発される真っ直ぐな回答に、自分がエレナを試すような質問をしてしまった事を恥じる。
そのくせ何としてもエレナの領地に対する考えを聞いてみたいと言う興味が抑えきれなくなった。
「そうか。ありがとう。では後ほど侯爵に直接確認しよう。ちなみにエレナは領地で何か困っている事はあると思う?」
エレナは瞬きをして一瞬こちらを見たかと思うと視線が宙に浮きじっと黙る。うわの空に見えてもこれは自問自答しているだけでエレナが考え事をする時の癖だ。子どもの頃から変わっていない。
「……あ! 二年前に羊がいっぱい産まれたんです」
急にそう言って手を叩いた。自問自答が終わったのか突飛な話が始まるのも変わらない。
「……羊がいっぱい産まれるのは困りごとではなく、喜ばしい事では?」
「ええ。羊がいっぱい産まれるのは嬉しかったんだけど、でも羊の毛刈りは大変だし、刈ったあとの羊毛が農閑期に作ってる毛織物じゃ使いきれないくらいになっちゃって……わたしは編み物が好きだから、編み物をしたらいいのにって思ったんだけど、お父様もお兄様も毛織物と違って編み物は作る人の器用さが出やすいから均一な商品にならない、それじゃあ売れないって。だから結局羊毛は肥料にしちゃったんです」
「紡いで毛糸として売るのではいけないのか?」
「だって毛糸は原料だもの。製品にして付加価値をつけないと利益が小さいのよ。それじゃあ領地のみんな働き損になっちゃうわ」
「そうか。エレナは羊毛を使って儲けの出るトワイン領の新たな特産の品を作りたいんだね」
「えぇ。お父様達と一緒にわたしも考えたけど思いつかなかったの」
「そうか。何か有益な情報を手に入れたら伝えよう。トワイン領が潤えばこの国も潤うからね」
「わぁ! ありがとうございます」
きっとトワイン侯爵に尋ねても羊毛の使い道に困ってるなどという要望は出ないだろうが、エレナが自分の興味関心の範囲でしっかりと領地の運営や発展を考えている事に好感を覚える。
そういえば、私の誕生日にエレナから送られてくるハンカチの刺繍や縁飾りのレースが年々華やかなものになっていた。
「もしかして去年もらったハンカチの縁飾りのレースはエレナが編んだ物?」
エレナは顔を輝かせる。
「そうなの! 気がついてくれて嬉しいわ! あのレースは木綿糸で編んだのだけど、細い糸用に図案を自分で考案してすごく素敵に編めたのよ。今年はわたしが育てた蚕で紡いだ絹糸を使ってレースを編もうと思ってるから楽しみにしていらしてね」
「蚕? エレナは虫は平気だったっけ?」
「平気よ。蚕は可愛いもの。苦手なのは蜘蛛だけよ」
「あぁそうだった。昔エレナがかくれんぼで蜘蛛の大群に遭遇して隠れる事が出来ずに別荘の裏庭で大騒ぎしていたね」
「違うわ! あの時に蜘蛛の大群をみてしまってから怖くなってしまったの! もう楽しい日に蜘蛛の話なんてなさらないで」
また頬を膨らませた愛らしいエレナを笑いながら見つめていると、子供の頃トワイン領地内にある王室の別荘で過ごしたあの夏を思い出す。
あの夏、母上が亡くなって気落ちしていた私が再び心から笑う事ができるようになったのはエレナとエリオットがいたからだった。
会話もままならないなど、自分には人として大切な感情の機微を持ちあわせていないのではと落ち込んでいた私を、エレナがまた救ってくれたのだな。
エレナの膨らませた頬を突き久しぶりに穏やかな気持ちに身を委ねた。