26 エレナの記憶
男らしい大きな手がわたしの頬をためらいがちに包み込む。涙を拭う指は優しい。
苦しげに無理して笑う顔は、痛々しい。
殿下は幼い頃からエレナのことを好きだと言う事実は、本当なら喜ばしいことだ。
前世の記憶を思い出したわたしは、エレナが一方的に殿下に片想いをしていて、殿下に大切にしてもらえているのは妹のように思っているからだって、そう考えていたから。
だから、エレナとして過ごしていくうちに、殿下のことを好きだと気付かされる度に苦しかった。
婚約者に据えてもらえているのは、侯爵家という家柄だとか、幼馴染の妹でより相応しい婚約が現れて破棄を破棄してもお兄様を重用することでトワイン家への補償は済む便利な立場だからだと思っていた。
だからまるで物語の悪役令嬢みたいに……いつか捨てられるのが決まっているって……
エレナは殿下に愛されるわけがないんだから、だからエレナが破滅しないようにフラグを回避しなくちゃって、そう思って行動していたのに。
そもそも根底から違った。
でも、だからって偽物のエレナでしかないわたしが、殿下のことが好きだからって、このままエレナのふりをして殿下の思いを受け入れたらいけない。
殿下が好きなのは本物のエレナなんだから。
ああ、そうか。
わたしが殿下の思い人の身体を乗っ取った悪役なんだ。
破滅フラグを回避するためには殿下に真実を伝えなくちゃいけない。
「殿下にお伝えしたいことがあるの」
殿下の大きな手に自分の手を添える。
「私もエレナに伝えなくてはいけないことがある」
……殿下もわたしがエレナじゃないことに気がついたのかしら?
決意が揺らがないように、真剣な顔を見つめ返す。
「こちらにいらして?」
わたしは殿下を部屋に招き入れた。
***
「この部屋に入ったのは、春にドレス姿を見た時以来だな」
殿下はあの時と同じようにソファに深く座った。
「そうですね」
殿下がエレナの初舞台のために用意してくださったドレス。
殿下の髪色に似た金糸や銀糸で丁寧に刺繍が施された白い絹生地。たっぷりのレースやフリルがあしらわれた、まるで結婚式に着るようなドレスは、白を基調としながらも殿下の瞳の色に似たブルーリボンのパイピングが、デザインを引き締めていた。
受け取った時は、殿下をイメージしたドレスだからと浮かれてはいけない。殿下の婚約者として発表される日が来るわけないと思っていた。
ドレスを着た時の殿下の様子はどうだったかしら。
そうだわ。婚約破棄されると信じていたから、ドレスを用意いただいたことに自分を卑下するような事を言ってしまった。
あの時「似合っている」って「未来の王妃なのだから、そんなに卑屈にならず、もっと自信を持って胸を張ればいい」って。
──未来の王妃。
はっきりそういっていた。
あの時はそんなことにならないなんて思ってだけれど……
今にして思えば、あのドレスは殿下をイメージしたドレスなんてレベルじゃない。
侯爵家令嬢のエレナは正装で許されるのは白地に銀糸の刺繍だ。色付きのリボンをつけるなら、赤と青のバイカラーじゃないとおかしい。
金糸と銀糸の刺繍も瑠璃色一色のリボンも王族しか許されない。
エレナを王族として迎え入れたいと、そんな殿下の決意が込められたドレス……
殿下はずっとエレナに想いを伝えようとしてくれていた。
エレナが記憶を無くさなければ……前世の記憶を思い出さなければ、エレナは殿下の思いに気がつけていたの?
咳払いが聞こえて慌てて顔を上げる。
「その……私から先に伝えても良いだろうか」
考え事で本来の目的を後回しにしてしまったことに気がつく。慌ててわたしは首肯する。
殿下は深呼吸して真剣な眼差しでわたしを見つめる。
「すまない」
「えっ?」
「その……浮かれていたのだ。自分の気持ちを一方的に伝えただけなのに、エレナが拒絶しないのをいいことに、思いが通じ合ったなどと勘違いをして……エレナをこれほど苦しめていたことに気が付かなかったのだ」
目の前の真剣な眼差しは苦悶に歪む。
「な、何をおっしゃっているの? そんな……そんなことないわ」
「エレナは優しいな。兄のように慕ってくれる少女にこんなに気を使わせてしまうなんて……それでも……エレナを思う気持ちを自分で止めることはできないのだ。だから……拒絶するならはっきりと言ってもらえないだろうか」
苦しげな殿下の表情に胸が苦しくなる。
エレナと殿下は両思いだったのに。
わたしの……恵玲奈のせいで……
「拒絶なんてそんなこと。殿下の気持ちは……嬉しいわ」
「──っ!」
「でも……わたしも殿下にお伝えしなくちゃいけないことがあるの」
殿下はわたしを見つめ発言を待っている。
「ご存知かもしれませんけど……わたしは春先の階段から転落した事故が原因で記憶を無くしているんです」
「……ああ。トワイン侯爵から話は聞いている。ただ、全ての記憶を無くしたわけではないのだろう?」
「ええ。でも……その……殿下と婚約が決まった頃からの記憶が、その……あまり思い出せないのです」
「エレナが記憶を失ったと聞いた時に調べた……辛い記憶から身を守るために、その辛い記憶に蓋をしてしまうのだろう? はっははっ。そうだったな。自分で調べていたのにな……」
「違うわ。殿下との婚約が辛い記憶なわけないです」
殿下を責めたいわけじゃない。
から笑いをする殿下の隣りに慌てて座り直し、膝の上で震える拳にそっと手を重ね首を振る。
「その……信じていただけないかもしれませんが、わたしは記憶を無くした代わりに……」
ほら、言うのよ恵玲奈。
緊張を和らげるために深呼吸をする。
「前世の記憶を思い出したのです」
「……前世の記憶?」
驚いた顔の殿下を見つめて、わたしは頷いた。