25 エレナの気持ち
扉の向こうには困り果てて泣きそうな顔のユーゴが立っていた。
「父様がいない日に王太子殿下がくるなんて聞いてないですぅ……」
家令のノヴァがお父様と事業についての手続きで不在がちなうえ、王都にノヴァ達を呼ぶ代わりに普段この屋敷を取り仕切る執事は領地にいっている。
不在時はお母様やベテランの使用人たちのサポートを受けながらユーゴが代わりを担っている。
よりによって今日はその不在の日なのね。
でも、まだ見習いとはいえ、お兄様の侍従のユーゴは今後お兄様の付き添いとして殿下とお会いする機会がグッと増える。いつまでも殿下に怯えていたら仕事にならない。だいたい殿下に目をつけられたのはユーゴが領地の祭りで騒ぎを起こしたからだもの。自業自得だ。
そもそも、もうすぐユーゴだってミルズ男爵家の嫡男として社交界に出る歳だわ。貴族の子息として礼節を持って殿下の対応をしなくっちゃ。
「大丈夫。殿下は寛大な方よ。ユーゴの礼儀が完璧ではなくても、誠心誠意真心を持って振る舞えば無碍な態度はされないわ。それにユーゴは王室の別荘で使用人たちを差配して殿下にお過ごしいただいた実績があるじゃない。いまだってイスファーン王国のアイラン王女殿下のお世話をしているんだから自信を持ちなさい」
「エレナ様、いい雰囲気で誤魔化そうとしないでください! そもそもエレナ様が急に帰ってきちゃったから王太子殿下が追いかけてきたのに。エレナ様のせいで僕に迷惑かかってるんですけど……」
文句ばかりのユーゴの口を人差し指で塞ぐ。黙ったのを確認して両手をギュッと握る。
「ユーゴならできるわ」
「無理です!」
「エレナ!」
ユーゴと二人で揉めていると凛と響く声が廊下に響いた。
声の方に顔を向ける。窓から入る陽光に照らされて淡い金色の髪がキラキラと輝く。
わたしの顔を見て湖のような深い青の瞳は揺れて光る。
殿下が追いかけて来てくださった。本当に心配してくださったんだわ。
謝らなくちゃと思っていたのに、殿下の顔を見ると心拍数が上がって胸がキュウっと苦しくなる。
目が合って一瞬嬉しそうな顔をした殿下が視線を下に逸らすと、青い瞳から光が消えた。
まるで新月の夜のような暗い瞳。ギリリと歯軋りの音が響く。
「ひいぃ!」
ユーゴが慌ててわたしの手を振り解いた。
「どっ、どうぞエレナお嬢様のお部屋でお待ちください! ぼっ僕……違っ、わたくしはお茶の用意をして参ります!」
「ちょっと! ユーゴ! 殿下はお客様よ! 応接室にお連れして!」
わたしの指示を無視して、ユーゴは脱兎の如く逃げ去った。
信じられないわ! 礼儀がなってない。みんなユーゴに甘すぎるのよ! だいたいユーゴのお茶なんて不味すぎて殿下にお飲みいただくなんて無理なのに……
「応接室でなくとも私はエレナの部屋で構わないよ」
わたしが頭の中でユーゴに文句を言おうとしていると、殿下が部屋の中に向かっていた。
殿下の手を握って引き留める。びくりと肩が揺れる。
「殿下、待ってください! わたしは構います!」
部屋が散らかってるとかそういうわけじゃないけど、それとこれは別よ。
階段から落ちてすぐの時に部屋に入ってもらったことはあるけれど、あれはまだ自分の気持ちもよく分かってなかったし、だいたいそもそも殿下はエレナのことを好きなんでしょう?
何かあったら責任取れないわ。
わたしは偽物のエレナなのに!
必死に引き留めるわたしに殿下は光のない瞳のまま顔を向ける。
「……あの男は出入りを許すのに、私は許されないのか」
「あの男ってユーゴのこと? ユーゴは我が家の使用人ですよ」
「エリオットの侍従であってエレナの侍従ではない。それにあの男はただの使用人ではなく男爵家の息子だろう」
「そうなんですけど、でもユーゴは弟みたいなものですから」
「私だって……エレナにとっては兄のようなものだろう⁈ 兄だから……だから……エレナは、躊躇いもなく私の手を取れるのだろう? わたしはエレナにとってまだ『シリルお兄ちゃま』なのだろう……」
「……わたしだってもう社交界デビューしていてもおかしくない歳だもの。殿下の事をシリルお兄ちゃまって呼んだらいけないことくらい理解しているわ」
否定するわたしの手を殿下はギュッと握りしめる。
「エレナはあの時と同じことを、今度は泣きそうな顔で言うのだな」
「あの時?」
「……覚えていないのか?」
エレナは前に殿下に同じことを言っていたの?
それはもしかして……思い出せないエレナの記憶?
「去年、エレナの誕生日を祝いに来た時に、エレナは同じことを言って笑っていた」
エレナの誕生日……
確かその日に殿下との婚約が内定したはず。
そんな大切な記憶を無くして、前世の記憶を思い出した。
偽物だという真実を殿下からも突きつけられた気がして、目の前の景色が濡れて滲む。
頬を伝う涙がポタポタと床に染みを作った。
「そうか……本当にエレナはあの時の記憶を無くしてしまったんだね」
そう言って殿下はわたしの頬を大きな手で包み、親指でそっと涙を拭った。