22 エレナ、殿下の手紙を受け取る
──親愛なる私のマーガレットへ。
まずは婚約の意向を受け入れてくれたことに感謝の意を伝えたい。
ありがとう。
受け入れてくれたのは本意ではないことはわかっている。
君が私を兄のように慕ってくれる純粋な気持ちと私が君に対して向ける気持ちに差が生じているのは理解しているが、実際に君が私の妻となるその日まで、少しでも君に男として意識してもらえるように努力しよう。
いつの日か兄としてではなく男として見てもらえると私は信じ行動することを誓う。
人の気持ちは変わる。君の気持ちを変えてみせる。
私とて、君に婚約を申し出たあの日、君と久しぶりに会うまでは君を妹のように純粋に庇護したいと思っていたのだから。
今の時期、幼い頃に駆け回ったあの丘は真っ白なマーガレットで埋め尽くされているだろうか。
そんなことを考えながら君の誕生日を祝うために訪れたトワイン侯爵家の屋敷で、私はマーガレットの妖精に再会した。
成長した君を見た時、私はそうとしか思えなかった。
私を迎える君は淑女らしく美しく成長していたのに、私に向ける笑顔は幼い頃の面影を残し、まるであの丘に咲く清廉無垢な真っ白なマーガレットを彷彿とさせた。
私のことを思って婚約者を探しているのだなどと言いながら、重鎮達が自分の地位をより高めるために行っていたくだらない駆け引きに振り回され疲弊していた私が、純真で可憐な、まさにマーガレットのような君の満開の笑顔にどれだけ癒されたかわかってもらえるだろうか?
君の成長に驚いた私にあと一年で社交界にデビューする淑女だものと誇らしげに胸を張る姿。
私の贈った本の感想を雄弁に語り、分からなかった疑問を私の助言で理解した時の輝かしい表情。
領地で困り事がないかと尋ねれば「羊毛でトワイン領の特産品を作りたいのにいい案が思いつかない」と真剣に悩む様。
誰もが薄ら笑いを浮かべ心にもない言葉ばかりが飛び交う社交界の女性たちと違い、取り繕うことのないエレナの振舞いに、私の世界が色づいた。
母上が儚くなられたあの時、傷つき閉ざされていた私の心を開き、傷を癒してくれたのも君だった。
君は私を癒す私だけの聖女だ。
君はあの丘で私と追いかけっこをしたのを覚えているだろうか?
あの時の君はただ純粋に私と追いかけっこをしたいという一心で、木陰で本を読んでいるからと断った私に、寄り添い私の気分が変わるのを待っていた。
あまりに健気なその姿に絆され、君と追いかけっこを始めた時には、小さな策略家である君の企みにまんまと乗せられていた。
久しぶりに体を動かし、笑いながら追いかけっこをしたことも、走り疲れて転んだ君を背負って丘を登ったことも、私にとってかけがえのない宝物のような経験だった。
王宮内のくだらない駆け引きに振り回されていた私は、君が私と遊ぶために知恵を働かせた駆け引きにどれだけ救われたかわからない。
君が本当の妹だったらいいのに。
あの時そう思っていたのは紛れもない事実だ。
君にとって兄のような、庇護者でいたいと思っていたのだ。
それは信じてほしい。
君にとって私はまだ兄のような存在だということは理解している……──
わたしは殿下から送られるはずだった手紙全てに目を通す。
どの手紙も、殿下の思いが溢れている。
ポトリ。
最後の手紙に落ちた涙の染みが滲む。
ああ。どうして、エレナとして殿下と過ごしたいだなんて、わたしは思い上がったことを考えてしまったんだろう。
殿下が好きなのはエレナなのに。
エレナとして振る舞っているうちに、わたしはもう自分が恵玲奈なのかエレナなのかわからなくなってしまった。
……でも、わたしはエレナだけどエレナじゃない。
わたしは階段を踏み外して転落した時に記憶を失った代わりに前世の記憶を鮮明に思い出した。
階段から落ちた日の一年くらい前の記憶が曖昧なままだから、前世の恵玲奈のままの感覚の方が強い。
エレナの小さい頃の記憶は思い出せたけど、それはエレナの記憶であってわたしの記憶じゃない。
わたしは殿下の好きだった幼い頃のまま純真で可憐に育ったエレナじゃない。
わたしは地味でさえないオタクの恵玲奈だ。
幼い頃のエレナと殿下が過ごした日々が二人の思いを育んだのに、その大切な記憶をわたしなんかが利用していいと思っているの?
「……無理よ!」
そう叫んだわたしは、衝動的に立ち上がり部屋を飛び出した。
殿下の声やお兄様の声……みんなの声が聞こえるけれど、わたしは振り返れない。
いつのまにか授業が始まっていたみたいでがらんとしていることに感謝しながら王立学園の廊下を走った。