55 恵玲奈は転生先の物語がわからないまま(第四部最終話)
2026.6 第五部再開に際し第四部まで全編編集して再投稿しています。
お兄様とユーゴがずっとおしゃべりを続けて賑やかだった行きの車内から一転して、帰りの車内はシンと静かだ。
わたしの心音だけがバクバクとうるさい。
「言葉に出してしまえば存外平気なものだな」
目の前では、ちょっと前までわたしよりよっぽど心音をうるさくしていた殿下が楽しげに笑っている。
お兄様やユーゴだけじゃなく、子どもたちもたくさんいる中で告白をやってのけて憑き物が落ちたのか、泰然とした態度でわたしと目が合うたびに「好きだ」「可愛い」「愛おしい」と囁いてくる。
逆に何かにとり憑かれたのかもしれない。
リリィさんとユーゴによって半ば強引に二人きりにされた王宮の馬車は、最新式のスプリングに柔らかな座面の椅子で座り心地がとても良いはず。
なのにとってもすわりが悪い。居たたまれない。逃げ出したい。
もちろん馬車から飛び降りることはできないし、馬車の隣はランス様と殿下の護衛としてブライアン様やジェレミー様が馬で並走している。
逃げ出したとしても逃げられるわけがない。
わたしは手元に視線を落とす。
リリアンナさんから預かった手紙だ。
殿下が去年エレナに送るために書かれたという手紙は、受け取るときにリリアンナさんから「覚悟して読んでくださいませ」なんて脅されて、恐る恐る便箋を広げたけれど……
手紙には幼い頃の思い出ばかりが綴られていた。
詳細に書かれた思い出話を読んでいると、忘れてしまった記憶が色鮮やかに蘇る。
七年前のことだから時間の経過で忘れていたのか、それとも前世の記憶が蘇った反動で忘れてしまっていたのかはもうわからないけれど。
殿下がエレナと過ごした日々をとても大切にしてくれていたことがよくわかる。
──ねえ、エレナ。殿下から去年この手紙が届いていたら、市井の噂なんかに振り回されずに階段から落ちて記憶を無くすことはなかった?
久しぶりに心の中に呼びかける。もちろんエレナからの返事なんてない。
わたしは殿下を見つめる。
「ねえ、殿下。送ってくださっていた手紙が届かなかった理由はどうしてなのか、もうお分かりなんですか」
「まだ推測の域は出ていない」
殿下はそう言って眉を寄せ、困っているそぶりをする。
そんなこと言いながらすでに犯人はわかっていて、いつでも相手を追い詰められるんだろう。
「そうですね。可能性が多すぎて的を絞るのは大変ですもんね」
一応話を合わせると殿下は口の端を上げ「エレナはどうしてそう思う?」と尋ねる。
わたしを試しているのね。
「だって、国内には色々な思惑を持つ派閥がたくさんありますもの。どこの派閥も、殿下に婚約者が決まっていなかったり決まっていても婚約者が悪評高い方が都合がよろしいのでしょう。陛下を傀儡にして政を牛耳っている王宮の重鎮たちは殿下に王位を継がせるのはできるだけ先送りさせたいし、自分達に都合のいい婚約者を据えたいはずです。王太后様からすれば、我が子である王弟殿下に王位を継がせたいでしょう。隣国のようにクーデターを起こそうと画策している軍部にとっても、聖女様を担ぎ出して王室よりも権威を高めたい教会にとっても、殿下の地位が不安定であって欲しいはずです」
殿下はわたしの回答に穏やかに頷く。
王宮内を女官見習いとして歩いていると、否が応でも殿下の評価が耳に入る。
『婚約者候補の優秀な公女様が無能な王太子から逃げ出したが、王太子は自分の執務を押し付けるために公女を必要としていて、いつでも婚約破棄ができるように自分の意のままに操れる幼馴染の令嬢をかりそめの婚約者に据えた』
『無能で不能な王太子に国内の貴族達は見切りをつけ、誰からも相手にされないようなご令嬢しか、相手が見つからなかった』
『愚かな王子が、自分の見栄えを良くするために小太りの醜女で愚かな令嬢を選んで勝手に婚約者に据えてしまった』
『わがままなご令嬢に大国の王太子妃は務まらないから、侯爵令嬢が結婚出来る年齢になるまでに、政治的に有利でこの国に恩恵をもたらすお相手を探してすげ替える予定だ』
エレナと殿下の婚約は好き勝手な評価に晒されていた。
「私は噂は噂で真実ではないのだから、くだらぬ噂は放っておけば消えると考えていた。むしろ慌てて噂を否定すれば噂を立てる者達の思う壺だとさえ思っていた。だか、噂は大きくなると真実を覆い隠し真実を喰らい尽くしてしまう。あいつらの好きにはもうさせない。エレナ。私と一緒に噂話を覆してくれないか」
殿下の手がわたしの耳に伸びイヤリングに触れる。視界の端にはマーガレットのカフスボタンが光る。
わたしは真っ赤に顔を染める。
転生先の物語や役割もわからないけど、わたしはエレナとして殿下とともに生きていくことを決意した。
~第四部・完~
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