46 エレナと胡桃が実る時期
「えっ……?」
わたしが見上げた先で、殿下は唇を噛みしめ苦しげにしている。
自分だけのものにして誰の目にも触れさせたくない?
二度と手を伸ばさない?
殿下が苦しげに告げる言葉にわたしは違和感を覚える。
まるで叶わぬ相手に恋でもしているみたいな口ぶり。
目が合うと殿下の身体がびくりと跳ね、わたしから顔を背け視線を外す。
耳まで真っ赤だ。
わたしよりも頭ひとつ分以上は背が高くて、肩幅もがっちりしていて、しっかりと男らしい体格をしている殿下が、身体を小さく縮こめる。
まるでイタズラして叱られた子犬のように怯えている。
驚いたわたしの涙は止まる。
「殿下?」
呼びかけるとヒュッと息をのむ音。それに続いて少しの沈黙の後に深く息を吐き出す音。
真っ赤な顔は背けられたままだ。
いつもわたしに呆れて咎めるように聞こえていた殿下のため息が、今日は違う意味に聞こえる。
「ねえ、殿下。こちらを向いてくださらないの?」
わたしの問いかけに殿下はギュッと目を瞑り眉間に皺を寄せて顔をゆっくりこちらに向ける。
ご自身の腕を押さえつけていた手を解放し、今度は顔を覆い眉間を揉む。
何度も見ていた仕草一つ一つに今までと正反対の理由を見出す。
今までため息だと思いこんでいた深呼吸が再び聞こえ、殿下は微笑みの仮面をかぶる。
「ああ、エレナ。泣き止んだね。よかったよ。エレナが泣いているのを見るのは私も心苦しいからね」
こちらを見ているようで目線は合っていない。
顔色は元に戻っているように見えても耳は赤い。
「殿下。おつたえしたいことがいるの。先ほどは手を振り払ってしまって申し訳ございません。わたしは──」
「いや、言わなくてもわかっている。「ままごと」だと揶揄されても婚約者として与えられた役割を果たしてくれるのは責任感が強いからで、私に対しては幼いころから兄のように慕ってくれているだけだということも、その、『かりそめの婚約者』とエレナが言い続けているのが、私の執着を拒絶して傷つかないようにしてくれるエレナの優しさだということも、王宮に出仕して手助けをしてくれたのだって本当は私のためではなくイスファーンとの友好をはかるためで、エリオットのためだということだってわかっている。わかってるんだ。だから何も言わないでおくれ」
わたしもの発言を遮り、間も無く早口で捲し立てた。
殿下の言っている言葉は頭では理解できるのに、心の中ではなかなか理解できない。
「何も言うなって……そんな一方的に。殿下はいい加減エレナと話し合ったらどうなの?」
「話し合い? 何を話し合えと言うのだ。無責任なことを言うな」
呆れた様子のお兄様に咎められて、殿下は言い返した。
「わたしと話をしてくださらないの?」
殿下は「グゥッ」と唸り胸を掻きむしるようにブラウスを掴む。手の甲には血管が浮き出ている。
今まで怒りを隠しているように見えた浅い呼吸も、震える唇も、殿下の一挙手一投足が今までと全て違う意味に感じるけれど……もしそうなら疑問だらけだ。
単純に喜ぶことはできない。
だって、エレナは……わたしは殿下と婚約してからずっと苦しかった。
「おままごと」だと揶揄されることも、きっと婚約破棄される「かりそめの婚約者」だとしか思えなかったことも。
今感じている殿下の気持ちが真実なのだとしたら……
なんで婚約してからずっとエレナのことを放置していたの?
別に毎週会いにきてとか、頻繁に贈り物が欲しいとかそんなこと考えてなかったように思う。
メッセージカード一枚だってよかった。
大好きな殿下に大切にされていることが感じられれば、周りから何を言われても耐えられたはず。
それなのに……
わたしは、堪えきれずに部屋を飛び出す。子どもたちの待つ庭に向かって走った。