45 エレナと胡桃が実る時期
「やっぱり、今日になっちゃったね」
お兄様はそう言うと入り口で立ち尽くしているわたしの腰を抱き寄せ部屋に入る。
子どもたちは嬉しそうにわたしの後をついてくる。
緊張ももちろんしてるんだろうけど、手も届かないくらい遠い人だもの。芸能人に会った! くらいの気分よね。
わたしたちを見た殿下はよそ行きの微笑みを少しだけ歪める。子どもたちは気がついていないけど、わたしはわかる。
殿下はかなり不機嫌だ。
「ねえ、その貼ってる版画なに? わざわざ殿下ご自身が奉仕活動?」
お兄様だって殿下の機嫌が悪いのに気がついてるはず。
なのに何も取り繕おうとは考えていないみたいで、いつも通りニコニコ話しかけている。
殿下が自ら作業して掲示したポスターを見る。
それは神話の一幕を版画にしていたものだった。
エレナが幼い頃から何度も何度も読み返していた物語。
「始まりの神」と「恵みの女神」が湖のほとりで出会うシーンだ。
どことなく殿下に似た「始まりの神」は凛々しく前を向き、「恵みの女神」はその隣に立っている。
子どもたちに連れてきてくれたことにお礼を伝えて、庭で待つように促す。
素直に頷き走り去っていった。
後でお菓子を配るときに、いっぱい褒めてあげよう。
「いま正教会の中央は『聖女信仰』に傾倒しているからな。十二柱それぞれの神を祀る旧市街の礼拝堂に私が自ら訪問することで相手の出方を窺うのを目的にしている。訪問する際に理由づけがあった方が私も動きやすい。旧市街の礼拝堂にはそれぞれ同様に祀る神の版画を届けるつもりでいる」
殿下はわたしたちに向かって歩く。
中央礼拝堂へ嫌味を言われても祭司様は何も言えないだろう。肩身を狭そうにしている。
今度は殿下が祭司様に下がるように伝えた。
ほっとした様子で祭司様も部屋を出る。
ランス様もウェードもこの部屋にいない。私たち三人だけになる。
「っていうのがリリィが考えた女神様の礼拝堂に来る大義名分ってことね。それにしてもこの版画、随分殿下とエレナに寄せて描いてる気がするけど……」
お兄様は殿下の嫌味は無視して版画をまじまじと見る。
「もしかして、殿下ってばわざわざこのために画家に依頼したの?」
「この版画は、以前トワイン領の祭りに赴いた際に領都で販売されているのを見つけた物だ。『始まりの神』の子孫である私や『恵みの女神』の子孫であるエレナに似ているのは当たり前だ。わざわざ似せるようになどと指示して書かせたものではない」
殿下は不機嫌そうな微笑みのまま、お兄様に言い返す。
「本来であれば衆目環境に晒すなどしたくないが仕方ない。ここなら見るのは祭司殿と子どもたちくらいだ」
お兄様が「うわっ狭量」と小さな声でつぶやく。殿下は聞き逃すことなくお兄様を睨みつけた。
二人の姿に胸がズキンと痛む。
殿下は心が狭いわけじゃない。自分と嫌われ者の婚約者であるエレナに似せて描いた版画なんて、みんなの目に触れさせたくないわよね。
きっとみんな版画を見て笑うに違いない。
わたしのせいで未来の為政者である王太子殿下が笑われ者にされてしまう。
「ごめんなさい。領地のみんな悪気はないのよ」
領地のみんなはわたしが生まれてから不作がないからわたしのことを「女神様」として扱ってくれる。
王都で嫌われてるなんて知らない。
だからわたしに似せた版画なんて刷っちゃうのよ。
「……トワインの民たちに悪気がないのはわかっている」
わたしが謝るなんて思っていなかったのか、殿下は驚いた様子でこちらを向いてそう言った。
わたしは自分の置かれた立場は恵まれてると思うように心がけても、それでも好きな人に愛されない、足手まといにしかならないのが悲しくてしょうがない。
自然にポロポロと涙が溢れる。
「エレナ? どうして泣いて……」
殿下がわたしに近づく。肩に触れようとする手を払いのける。
なぜか傷ついたような表情の殿下に、わたしは泣いたまま見つめかえす。
「……すまない。エレナが多くの民から『恵みの女神』だと慕われているのは。わかっているのに自分だけのものにして誰の目にも触れさせたくないなどと狭量なことばかり考えているなどと言うのは、エレナに怯えられても仕方がないな。もう二度と手を伸ばさないので泣き止んでもらえないか」
殿下は肩に触れようと伸ばした手を、もう片方の手で押さえつける。
切なげな表情で懇願を口にした。