10 エレナの働く文書室
「だから、誰かから何か言われても気にしないんだよ」
優しく頭ポンポンまでしてくれる。
お兄様は、なんだかやたらとわたしが騒ぎ出したり、気に病んだりするだろうことを心配している。
「さっきから何を心配してらっしゃるの?」
「……そんなこと……僕の口からは言えないよぅ」
無駄にアンニュイな雰囲気を醸し出しながら大袈裟に首を振り泣き真似をする。
わたしはもう振り回されない。
メアリさんとハロルド様を見ると、二人ともお兄様みたいに大袈裟に首を振った。
息が合っていて、ちょっとだけイラッとする。
「いいです別に教えてくださらなくても。大人しくしてろってことですよね? わたしは殿下の手助けになればと思って出仕したのですから騒ぎなんて起こしません」
わたしは冷え切ったスープを飲み干した。
***
食後はハロルド様に連れられて、もう一度殿下の特設部署に顔を出す。
さっきとは打って変わってたくさんの役人達が机で書き物をしていた。
一番奥に机が殿下の席なんだろう。整理された書類が山積みだ。
ちなみにお兄様は特設部署には戻らずに、どこかへ消えていってしまった。自由すぎる。
ハロルド様は何人かの役人に私たちを紹介し「女官見習いとして今後出入りが増えること」を伝える。
役人達は紹介を受けても、みんな女官には無関心とばかりにチラッとこちらを見るくらいだった。
それにしても。さっきの文書室では、顔だけはいい役人達が忙しい忙しいと口ばかりぼやくのに夢中で、ろくに働いてなさそうだったのに、この部屋にいるのはみな不健康そうな役人達ばかりが口も聞かずに黙々とペンを走らせていた。
ハロルド様が「仕事中毒」と呼んでいたのは彼らのなかの誰かよね。むしろ全員かもしれないけど。
エレナも背が低いし人のことを言えた体型ではないけれど、ここにいるのはみんな痩せすぎていたり、太りすぎていたり、顔色が悪すぎる人たちばかりだった。
確かに前世でいう「社畜」とか「ワーカホリック」とかそういう種類の人たちの雰囲気だ。
いつも忙しい殿下の仕事を少しでも減らしてあげたいと思っていたけれど、忙しいのは殿下だけの話ではないのね。
挨拶を終えたわたしたちは、文書室に戻る。
通り抜けた部屋からは感じの悪い役人2達は誰みんな出払っていて、がらんとしていた。
口先では忙しいって言ってなかった⁈ 留守番もいないの?
「未来の御領主様方は、ただの官吏とは同じ場所では身体が休まらないと、わざわざ街まで出てレストランでお食事ですよ」
やれやれと言わんばかりのハロルド様だって、本来は伯爵家の次期当主で、未来のデスティモナ伯爵領主様だ。
それでも自分の好きな仕事に従事できるからと、あえて下級官吏のままでいるハロルド様にしたら腹立たしい思いがあるんだろう。
殿下以外も忙しいのね。なんて思ったばかりのわたしだって腹立たしい。
……もしかしてお兄様がわたしに釘を刺していたのは、これ?
確かに感じの悪い役人2達に出会ったら文句を言ってしまいそうだった。
危ない、危ない。
「王立学園の昼食は、王宮勤めになった時に戸惑わないように食堂で食べるのでしょう? それなのに役人が食堂で食事しないなんておかしいわ」
「まあ、とはいえ王立学園の食堂を使わない、家格の高いお坊っちゃまお嬢ちゃまは多いですしね」
「えっ! そうなの⁈」
「やだ、エレナ様ったら気が付いてなかったんですか?」
「だって……わたし王立学園休みがちだし、最近はスピカさん達の稽古ばかり見に行ってたから……。でも、コーデリア様も食堂でわたしとお話ししてくれたりするわよ?」
「エレナ様に用がある時だけですよ」
確かに言われてみると、わたしに用がない時コーデリア様が食堂にいるのを見かけたことがない。
それに……
「殿下もお兄様も、わたしに会うためにいらっしゃることはあっても、普段食堂でお食事されてるって話を聞いたことないわ」
「そこらへんのメンツは、食堂なんかでお食事されると女生徒達が群がって大変でしょうしね」
「でも、そしたらみなさんどこで食事をしているの?」
「四阿や、温室、庭なんかに席を設けて外から食事を運ばせることが多いんじゃないですか」
「どうやって運び込むの?」
「あら。エレナ様も頼まれたじゃないですか」
胸に手を当ててメアリさんがにっこり笑う。
なるほど。確かにわたしもスピカさん達への差し入れのためにジェームズ商会に焼き菓子の配達を頼んでいたわ。
多くの上位貴族は食堂で食事を取らずに、各自昼餐会を開いている。
そしてそれは特別なことでもなんでもなく、王立学園では日常のことだった。
そうか。
王立学園は王室官吏の育成機関って位置付けのはずなのに、貴族気分は抜けないまま卒業する。
王宮の役人になっても上級官吏はろくに仕事もせずゴマスリばかりで、下級官吏達と何故か殿下達ばかりに皺寄せが集まっている。
わたしは想像以上に腐敗していることに頭を抱えた。