43 エレナと別荘での思い出
殿下を担当する文書係が変わったからって、すぐに殿下のお仕事が楽になることはなかった。
相変わらず殿下は食事を取る間もないくらい忙しそうだし、お兄様は結局書類の翻訳に駆り出されている。
朝食で「ヴァカンスが……」と嘆くお兄様を励ますのが日課になっていた。
そんなこんなしてるうちに、王都の屋敷の模様替えは、ハロルド様にデスティモナ家がホテル建設のために抱えていた職人を融通してもらうことで、アイラン様をお迎えする準備が整った。
明日からは王都の屋敷に戻る。
今日が王室の別荘で過ごす最後の日。
わたしは幼い頃に刺繍しながら過ごした小さな応接室で、アイラン様に刺繍を教えていた。
「疲れたー! もう文字なんて見たくない!」
ドアをノックしながら開けて、文句を言いながら部屋にお兄様が入ってきた。
「誰何の声に名乗ってからドアを開けてください」
わたしの文句なんて聞かないお兄様はアイラン様の隣に座ると腰を抱き寄せると、刺繍枠を覗き込んでちやほやしている。
お兄様を睨んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
顔を上げると、開け放たれた入り口で、殿下とウェードが立っていた。
「私だが、入ってもいいかな?」
「もっ、もちろんです」
「明日の朝に王都に発つと聞いてね。一緒にお茶でもどうかと思ったのだが」
「ありがとうございます」
私の隣に座った殿下はウェードにお茶の用意を指示する。
メリーとネネイが手伝おうとしたところで、殿下は「この後忙しくなるだろう。せっかくだから二人とも少し休むといい」と二人を下がらせた。
ウェードがハーブティーを用意する音とお兄様がアイラン様が刺繍が上達したと褒める声を聞きながら、わたしは刺繍を再開する。
殿下の視線がわたしの手元に止まる。
よかった。いま刺繍してたのはアイラン様に教えるための向日葵で。
マーガレットの刺繍をしてるのを見られたら、恥ずかしいし、もし見られて嫌な顔をされたら生きていけない。
『そういえば、エレナは随分と枠を持ち上げて刺繍するのね。わたしはまだ慣れてないからどんどん背中が丸くなって、このままおばあちゃんになっちゃいそうよ』
刺繍に慣れてきたアイラン様は周りを見る余裕が出てきたみたい。
そういって、姿勢を正す。
確かに。
そういえば、今まで気にしてなかったけど、エレナは刺繍が趣味なのに、なんでこんなに顔の前まで腕を持ち上げて、疲れる姿勢で刺繍するんだろう。
この姿勢で刺繍するように習ったのかしら?
刺繍を習い始めた時を思い出す。
そうだ。
『ちょうどこの別荘で幼い頃過ごしていた頃に、お母様に刺繍を習い始めたんです。その時の癖がそのまま染み付いてるんだと思います』
『へえ』
アイラン様は興味がなさそうに相槌を打つ。
『そうそう。午前中は外でいっぱい遊んで、午後になると殿下のために王宮から派遣された教育係達に、僕たちが勉強だ、剣技だって習ってる時間に、エレナはこの応接室で刺繍しながら待ってたんだよね』
お兄様も懐かしそうに思い出話をする。
『ええ。勉強が終わると、お兄様達が応接室にいらっしゃって、今度はおままごとに付き合ってくださってね。お母様役のわたしの膝枕で殿下はよくお昼寝をされてたの。お昼寝のお邪魔にならないように腕を上げる癖がついちゃったんだわ』
わたしが思い出に浸っていると、隣から深いため息が聞こえる。見上げると殿下は深く刻まれた眉間の皺を揉みほぐしていた。
幼な頃の幸せな思い出と、今との差に気持ちが暗くなる。
『へえ。じゃあ、わたしもエレナを見習って、腕を持ち上げて刺繍できるようにしなくちゃ』
暗い気持ちのわたしとは裏腹にアイラン様はご機嫌そうだ。
『え?』
『だって、エリオットもわたしの膝枕でお昼寝をしたいでしょ?』
『いいの? やったー!』
お兄様はなんの躊躇いもなくアイラン様の太ももに顔を埋めて、ソファに寝転んだ。