41 エレナに殿下が伝えるべきこと
ついさっきまで目を輝かせていた殿下は、もういない。
お兄様に耳打ちされた内容にショックを受けたようだった。
何を言ったんだろう。
私の視線に気がついたお兄様は大袈裟に肩をすくめる。
「こういうのは僕からいうことじゃないから」
殿下はわたしの渡したハンカチを握りしめてじっと手元を見つめている。
「エレナに言うことあるんでしょ」
「あ、ああ……その……」
顔を上げてわたしを見ることはない。
確かに、殿下がお兄様が好きなんだっていうのは勘違いだったかもしれない。
けれど、勘違いに気づいたからって、わたしはどんな物語の世界に転生したのかわからないまんまだ。
殿下の元にどんなヒロインが現れるのかわからない。
大好きなお兄様が相手でも殿下のことが諦められなくて、悪役令嬢ムーブをしてしまうエレナが、ヒロイン相手に殿下を譲るなんてできる気がしない。
わたしも殿下の隣で下を向く。
頬を包み涙を拭ってくれた殿下の大きくてあったかくてゴツゴツとした手が、真っ白になるくらい握りしめられているのが視界に入る。
エレナの小さな手とは大違い。
さっき、わたしに近づいた時に感じた、しっかりとした男らしい体躯に、殿下との体格差を感じざるを得なかった。
背が伸びなくていつまでも子供っぽいエレナは、殿下にとって妹みたいなものだ。
お兄様の言う「エレナに言うこと」を想像して、胸が苦しくなる。
「ねえ。いつまで黙ってるの」
「……いや……」
歯切れの悪い殿下の様子から想像が現実だと確信する。
逃げ出したい気持ちを堪えて顔を上げると、ドアを叩く音がした。
お兄様の誰何の声に応じたのは殿下の側近であるランス様だった。
***
感じの悪い役人とずっとやりとりしていただろうランス様は、いつもの落ち着いたクールな感じはどこへやら、やつれきっていた。
「シリル殿下。予定通り文書室から新しい担当者が派遣されますのでご挨拶の準備をお願いいたします」
ランス様の話によると、今日の午後から新しい文書係が派遣されることが決まっていたらしいんだけど、文書係から外されたあの感じの悪い役人が、殿下が仕事しないせいで担当から外されたと大騒ぎしていたらしい。
王太子殿下の文書係を担当してるというのは名誉職で上級役人の足がかりになるはずだし、手当だっていい。
殿下に文句を言いまくっていたくせに、殿下の担当から外れたくないなんて虫が良すぎる。
お兄様と殿下の愛を育むためのきっかけとして位置付けられたキャラなのかと思っていたけど、そうじゃないなら、ただの役立たずだ。
「これで適正な仕事になるわ」
「そうだな」
わたしの呟きに殿下は頷く。
「エレナがエリオットに翻訳を手伝うように進言してくれたおかげで、官吏がなすべき仕事を行えるような環境が整い始めた。どうも私は自分がやればよいと考えてしまいがちだが、もっと周りを信じて頼るべきだと実感したよ」
「それは殿下はなんでも一人でお出来になるからだわ。お兄様みたいになんでも他人に押し付けるのもどうかと思うわ」
お兄様が不満げな顔をした横で、殿下は悪戯っぽく笑う。
「エレナのおかげで文書係も代わり、今後より仕事は順調に進むだろう。ありがとう」
「わたしは何もしていないわ」
「いや、感謝を伝えさせてくれ。では、私は挨拶に来る新たな担当者と打ち合わせをする。先に失礼するよ」
殿下は立ち上がった。いつもの殿下を取り戻したのか、穏やかな微笑みをたたえていた。
「……で、結局、どうするの?」
去ろうとする殿下にお兄様は尋ねる。
「一から仕切り直さなくてはいけないと考えている」
「一からどころかゼロからじゃない? マイナスじゃないといいね。さて。僕は可愛い婚約者と楽しい時間を満喫しにいくよ。殿下を担当する文書係が代わるなら、僕がやらなきゃいけないこと減るだろうし。僕は本当なら、アイラン様とヴァカンスの真っ只中のはずなんだ。自力でどうにかしなよ」
お兄様はひらひらと手を振りながら、殿下の脇をすり抜ける。
殿下とすれ違いざまに何かを言ったらしく、言われた殿下は唇を噛んでいた。
「殿下?」
「あ、ああ。ゴホン。では先に失礼するよ」
お兄様を追いかけるように殿下も慌てて部屋を出て行ってしまった。